ゴリさんは死して生きる~守護霊となった脇役が紡ぐドラマ~/ハル薗田【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第202回 ゴリさんは死して生きる~守護霊となった脇役が紡ぐドラマ~/ハル薗田

 


 


 

あれはプロレスファンになって数か月が経った頃の話。

 

実家近くの図書館に立ち寄った少年時代の私は、一冊の本に出会う。それは子供向けのプロレスラー図鑑。恐らく内容を読むと1980年代に発売されたものだろう。読んでみると天龍源一郎が全日本第三の男として注目されていた頃のようだ。新日本プロレスや全日本プロレスの選手達が次々と紹介されていた。全日本プロレスのコーナーが気になり読んでみると、そこに聞いたことがないレスラー名を知る。

 

「マジック・ドラゴン」

 

一瞬、ウルティモ・ドラゴンの間違いかと思ったが時系列が合わない。見た目も何やら怪しくカンフーの達人のような風貌だ。だからマスクのデザインはかっこいいのだ。誰なんだと気になって調べると彼の正体はハル薗田というレスラーであることが分かり、アメリカ遠征でマスクマンに変身し「マジック・ドラゴン」を名乗るようになったという。

 

だが私はもうひとつの事実も知る。この本に出会った頃にはすでにこの世にはいなかったのである…。

 

私はハル薗田及びマジック・ドラゴンの試合をリアルタイムで観たことがない。それでもずっとあの本がきっかけで心の片隅で気になっていたレスラーがこの薗田なのだ。いつか書かなければいけない。彼が歩んだ歴史をきちんと描かなければいけない。そう思い続けて十数年が経ったある日、ブログでこんな記事に出会う。

 

そのとき何が起こったか?~墜落事故30年目の真実~【団塊Jr.のプロレスファン列伝】

 

詳しい内容は割愛するが、正直心の底から震えたのだ。彼がいかにして悲劇の事故にまきこまれたのか。それが如実に分かる珠玉の作品だった。そして私なりの薗田というレスラーを考察しなければいけないと決意を固めたのである。

 

ハル薗田について考察し追うと分かったことがある。それは「脇役であるハル薗田の存在はプロレス界に影の功績を与えていたこと」である。これはひとりの脇役レスラーがプロレス界で生きた証である。そしてこの世を去っても彼の存在はプロレス界に残していたということである。

 

今こそ知っていこう。

今こそ伝えていこう。

 

ハル薗田というプロレスラーを…。

 

ハル薗田は1956年9月16日宮崎県小林市で生まれた。本名は薗田一治。中学・高校と柔道で汗を流した薗田は1974年7月25日に全日本プロレスに入門する。薗田が全日本に入門を直訴した時、その現場には後に盟友となる大仁田厚がいた。

 

「薗田さんが入門をお願いしてきたのが、日大講堂で試合があった時だった。控室に薗田さんが来ると、いきなり、マシオ駒さんがオレを殴った。それを見た薗田さんは、黙ってたよ。たまらないのがオレで、何の理由もなく殴られたから訳が分からなかった。あとから駒さんが、オレの所に来て“大仁田、悪かったな。あれを見て薗田が文句を言ったら入れるのはやめようと思った”と言った。駒さんは、薗田さんが本気でプロレスラーになりたいのかどうか試したんだね」
【大仁田厚ヒストリー〈5〉渕、薗田と「若手三羽烏」と呼ばれた時代 2017年10月5日 スポーツ報知】

 

実は薗田はデビューする前にレフェリーとして何度かリングに立ったという。1975年1月15日に鹿児島大会で渕正信戦でデビューを果たす。薗田は大仁田と渕と共に「若手三羽烏」と呼ばれ、鬼コーチ・マシオ駒から可愛がられていた。ニックネームは「ゴリ」。後輩からは「ゴリさん」と慕われ、その率直な性格が皆に愛される存在だった。そして彼の悪口を言う人はいなかったともいわれ、長年総帥・ジャイアント馬場の付き人を務めた。薗田について元週刊ゴング編集長・清水勉氏はこう語る。

 

「三羽烏で言えば、大仁田さんみたいにクセはないし、渕君みたいにすましてないしね(笑)。温厚だし気さくだし、当時レスラーってカタい選手が多かった中で珍しい人だった。小鹿さんなんかスゴく怖かったし、武闘派ばっかりだから。ゴリさん(薗田さんの愛称)は俺みたいな新米記者なんかとも仲良くしてくれたからね。(中略)いかにも全日本らしい中堅レスラーの1人。不器用そうで器用、器用そうで不器用という不思議なレスラーだったね。どんなレスラーも相手にできるけど、それ故に印象に残りづらいというか。ファンからしたら物足りない感があったのかもしれないけど、受け身が素晴らしいんだよ。ほとんどケガがなかったから」
【5.27 ドクトル・ルチャとマジック・ドラゴン パキスタンの巨人編/ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅 Gスピリッツホームページ】

 

薗田は1979年9月に海外遠征に旅立つ。プエルトリコやアメリカに転戦していくが、なかなか思うように活躍できなかった。しかも生活苦にも陥っていた。それもそのはず、全日本の若手選手が行う海外武者修行はジャンボ鶴田などの例外を除いて、会社から資金面の援助は非協力的で、いわば放任されていた。後年、全日本からアメリカ遠征に旅立ったターザン後藤は生活に困窮したため、コックのアルバイトをし、半ば見捨てられ最終的には全日本を去り、大仁田率いるFMWに移籍したことがある。薗田も例外ではない。

 

なんのためにプロレスをしているのかよく分からなくなった。本当に生活が苦しくなる。ホームシックにもなっていた。そんな彼に救ったのが先輩レスラーのザ・グレート・カブキだった。当時、カブキはアメリカ・テキサス州ダラスでカブキという悪の怪奇派に変身し、大人気を誇っていた。カブキと薗田は現地で合流すると、ドライブに出かけた。薗田の姿を見てカブキは全てを悟っていた。苦しむ薗田にカブキは優しく「ゴリ、元気出せよ」と声をかけた。その気遣いが何より嬉しかった。薗田の目には大粒の涙が溢れる。そして、カブキは一枚のマスクを渡す。それはマジック・ドラゴンのマスク…つまり自分のパートナーになってくれという意味だった。こうしてマジック・ドラゴンは誕生する。

 

マジック・ドラゴンはカブキを支える相棒としてフリック・フォン・エリックがプロモーターを務めるWCCWのトップ戦線で活躍する。そのファイトスタイルはカブキに似ている。また180cm 110kgという体格もカブキともに通っていた。カブキばりのトラースキック、日本人レスラーがアメリカ遠征時によく用いるショルダークロー、エドワード・カーペンティアばりのサマーソルトキックを中心に試合を組み立てる職人レスラーだった。薗田のことを考察するために古い映像を見る機会があったのだが特に印象に残ったのがデビッド・フォン・エリックとの試合。エリック一家の御曹司デビッドは若くしてこの世を去ったが、次期NWA世界王者候補と呼ばれ将来を嘱望されていた。デビッドのスケールのデカいプロレスとスターのオーラが包み込む試合の中で、マジック・ドラゴンはデビッドを立てつつも、己自身もどす黒い光を放つ。そして時には日本でも見せたことがなくヘンテコな空手ポーズで身構え相手を挑発し、そのミステリアスさを強調していた。タイトルを獲得するまでには至らなかったが、彼はダラスでプロレスラーとして開花したのだ。

 

1984年1月に日本に帰国し、マジック・ドラゴンとして凱旋した薗田。リング上ではマスクマンとして暗躍し、リング外では若手を育成するコーチを兼務していた。清水氏曰く、「人柄もいいし、カブキさん、昭雄さんの後を次ぐコーチはゴリさんだったハズだから。越中さんとか三沢さんにとっては世話になった先輩だろうし、小橋、田上、菊地、小川あたりの若手も基礎を叩き込まれ、いっぱしのレスラーになっていったんだよね」という。

 

そのとき何が起こったか?~墜落事故30年目の真実~【団塊Jr.のプロレスファン列伝】 の著者である流星仮面二世さんは薗田についてこう語る。

 

「初めは小学校の時です。84年の1月でしたかね。マジック・ドラゴンというマスクマンが突然全日本に出てきました。それまでのマスクマンは目や口は素肌が出ていましたが、マジック・ドラゴンまったく顔が見えなくて、誰だかもまったくわからなくて、まずそこに興味が湧きました。で、試合ではちょっと太ってるようなお腹なんですが、見た目とは逆に動きがわりと機敏で、当時はショルダースルーをクルッと着地したり、バク宙なんかも見せてた記憶があります。あと、なんと言っても印象的だったのはトラースキックでした。当時カブキの得意技で、ある意味オリジナルのトラースキックを使っちゃうのかと…。当時は人の得意技使うって、そういうレスラーいましたけど、マネしてる~くらいに思われることが多くて、異様な感じしました。しかし、カブキとタッグ組んで出てきたときオリエンタル・コンビとテレビから聞こえてきたので、そういうことだったのかと。これは子供的に魅かれましたね」

 

薗田が弟のように可愛がったのが三沢光晴だった。薗田と三沢はプライベートでも食事をし、遊びにも行ったという。練習後には薗田は三沢をリングに上げ、ジャイアント馬場のものまねをしてカウンターのジャイアントチョップを繰り出し、三沢が受け身を取るという光景がよく繰り広げられていた。三沢が後に妻となる彼女が当時働いていた東映太秦映画村に遊びに行く時も、その隣には薗田がいた。打ち上げに同席した時も三沢はいつも薗田とカラオケをデュエットしていた。まるで二人はコーチと弟子という間柄を越え、兄弟のような関係だった。

 

マジック・ドラゴンは全日本ではカブキとのコンビ、カブキとの一騎打ち、二代目タイガーマスク(三沢光晴)との覆面コンビなど要所要所でスポットライトを浴びることはあったが、やはり彼はスターを光らせる脇役だった。そしてそのことを一番よく分かっていたのは薗田自身だった。1985年6月5日小林邦昭戦に敗れ、彼はマジック・ドラゴンのマスクを取り、素顔に戻った。それからは前座に甘んじるレスラー生活を送っていた。主役で生きず、あくまでも黒子に徹し影から全日本を支えた薗田を総帥・馬場はこう評したと言われている。

 

「ゴリに言っておけば、(全日本の)全員に誤解なく伝わる」

 

馬場にとって薗田とはマシオ駒、佐藤昭雄に次ぐ信頼できる参謀だったのだろう。だが、そんな薗田の人生を変えたのが南アフリカ航空295便墜落事故だった。1987年11月28日、薗田は結婚したばかりの妻と共に飛行機事故の犠牲者となり、この世を去った。享年31。あまりにも早すぎる死だった。

 

なぜ薗田は飛行機事故の犠牲者となったのか。実は薗田は南アフリカ遠征に新婚旅行を兼ねて訪れる予定だった。この経緯について清水氏はこう語っている。

 

「カブキさんの代役としてゴリさんは南アフリカに旅立ち、そして帰らぬ人となってしまったという因縁もあるしね。その時のブッカーがシンだったことは知ってるよね?(シンのオファーを、カブキさんが断って、次に阿修羅・原さん、石川孝志さんが断って、最終的に薗田さんが行くことになった。) 石川さんに断られた時、シンが馬場さんに“誰か紹介してくれ”ってお願いしたらしい。でも、オファーの内容が“カブキの恰好で試合をしてくれ”ということだったみたいで、そりゃ原さんや石川さんには無理な話で。そういう意味ではゴリさんの方が適任だし、有名な話だけど、馬場さんが“新婚旅行を兼ねて行ってこい”と送り出してくれたんだよね。南ア行きが決まってから、カブキさんがゴリさんにメイクや毒霧を教えてあげたらしいよ(笑)(中略)ある意味、師弟関係だったんだよね。なんか予定より2日間も飛行機が飛ばなくて、カブキさんは“縁起でもないから行くな”って言ったらしいんだけどね…」
【6.03 ドクトル・ルチャとマジック・ドラゴン狂虎編/ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅 Gスピリッツホームページ】
 

つまりこの海外遠征自体が曰く付きだったのだ。

ちなみにカブキは元々シンが苦手だったが、この一件でさらにシンが嫌いになったという。だがこの事故にシンに何の責任はない。シンは事故の数日後にスーツ姿で会見に臨み、「このような事故でソノダと夫人を死なせてしまったことは、大変申し訳ない」と涙ながらに謝罪した。シンは後に世界最強タッグ決定リーグ戦に犬猿の仲であるアブドーラ・ザ・ブッチャーとの世界最凶悪コンビで出場しているが、この仕事を受けたのもシンの全日本と薗田への贖罪意識だったと言われている。

 

薗田に懺悔したいのはシンだけではない。「この遠征で新婚旅行に行ってこい」と送り出した馬場は、1987年12月16日、後楽園ホールで『ハル薗田選手夫妻を偲ぶメモリアル・セレモニー』の告別の辞を述べる際に、遺影を前にこう語りかけた。

 

「ゴリちゃん、真弓さん、こんなことになってしまって…なんてお詫びしていいかわかりません」

 

涙が止まらず絶句した馬場。馬場は1999年1月に急死するが、薗田を南アフリカ遠征に行かせたことを最後の最後まで後悔し、自分を責めていたという。

 

流星仮面二世さんは薗田がこの世を去る三か月前の事を忘れられないという。

 

「生前、最後に見たのは1987年8月30日、ボクの地元の土浦スポーツセンターに全日本が来たときでした。天龍革命後、初のジャンボ・天龍のシングルの前日でした。薗田はジャンボ、カブキと組んで天龍、原、川田とやりました。結果は薗田が原にフォール負けした試合でした。生ハイヤーを初めて聞きました。それはよく覚えています。しかし、まさかその3ヶ月後に亡くなってしまうとは…。ボクはマジック・ドラゴンは好きだったのですが、正直、ハル薗田になってからはあまり気にならない存在でした。しかし亡くなってしまったのは本当にショックでした。当時はまだ世の中のことロクに知らない中学生でしたけど、結婚して新婚旅行で亡くなってしまうなんてと、いろいろ考えてしまいましたね。動きがよくて神秘的って、本来ちょっと近寄りがたいのに、でもああいう体形なんで親しみやすかったんでしょうね~。子供向きと言ってはなんですが、やっぱり年齢低い人の方が魅力感じてたと思います。だからボクはマジック・ドラゴンは好きでしたね。マスクのデザインもかなり好きです。だから素顔になってからは、ちょっと残念でした。ボクはずっとマジック・ドラゴンでいてほしかったですね」

 

薗田を兄のように慕ったいた三沢は大きなショックを受けていた。夫人によると三沢が泣いた姿を直接見たのはこの時だけだった。後に三沢はこの時の事をこう振り返っている。

 

「あの時はショックでしたね。試合やってて、できれば一瞬でもそのことを忘れたいと思ってやってましたけどね。あの人は一番仲良かったですからね。家が近かったから、試合の時は俺が送り迎えしてましたからね。薗田さんは車をもってなかったですから。『俺、結婚するからよ』っていってた矢先に、あんなこと(航空機墜落事故で死去)になってしまって。アニキみたいな存在でしたから。あの人が生きていれば俺ももっといろいろ相談できて苦労せずに済んだかなと思いますしね」
【三沢光晴の「美学」―鮮烈な〝男の生きざま〟を徹底検証!/ベースボール・マガジン社】

 

12年のレスラー人生、31年の生涯を思わぬ形で幕を閉じることになった薗田。恐らく無念だっただろう。そしてここからがハル薗田のアナザーストーリー。確かに彼はこの世を去った。だが仲間達が薗田の魂を胸にリングに立ち続けた。ライバルだった小林邦昭と三沢光晴は薗田が得意にしていたスライディングキックを受け継いだ。これは技の伝承文化である。

 

若手三羽烏の一人の大仁田厚は薗田が死去した時はプロレスを引退していた。土木作業員や水商売でバイトをしながら生活費を稼いでいた大仁田は翌1988年にリングに復帰する。その動機の一つには恐らく薗田の死があったのではないだろうか。その後、大仁田は"涙のカリスマ"として大ブレイクし、紆余曲折の末に全日本に参戦することになる。そして若手三羽烏時代の盟友・渕とのコンビで2016年11月27日両国国技館大会で青木篤志&佐藤光留が保持するアジアタッグ王座に挑戦した。

 

全日本プロレス27日の両国国技館大会で行われたアジアタッグ選手権は大波乱の幕切れとなった。挑戦者の渕正信(62)、大仁田厚(59)組が王者の青木篤志(39)、佐藤光留(36)組を撃破。合計121歳のコンビが記念すべき第100代王者に輝いた。電流爆破バットを“封印”して栄冠を手にした2人は、約束通りに同期の故ハル薗田さん(本名・薗田一治=享年31)の遺影にベルトをささげた。59歳の邪道と62歳の渕が目を潤ませた。この日最大のサプライズが起きたのはアジアタッグ戦。歴史と伝統のあるベルトを奪取したのは2人だけの力ではない。天国の同期と3人で手にした王座だった。薗田さんの遺影を掲げてリングインした大仁田は、まず佐藤と対峙。開始早々、予告通りに持参した電流爆破バットを手にすると、迷わず起爆スイッチを押した。不気味なサイレン音と同時に、会場内に緊張が走る。しかしパートナーの渕が大仁田の前に立ちはだかり“蛮行”を止めた。「彼のスタイルだと思ったけど『全日本のスタイルでやろう』と言った」と渕は試合後に説明。結局、爆破は一度もないままに終わった。これで改心したのか、大仁田もイス攻撃や毒霧を放ったものの、クリーンファイトに徹したから驚きだ。渕のピンチには必死にゲキを飛ばす。すると62歳は奇跡的に蘇生。最後は驚異のバックドロップ7連発で佐藤から3カウントを奪取。「昔は(3人で)よくしごかれたな…。そのかいあって、ベルトを巻けたよ」と渕。かつて全日プロの“若手三羽ガラス”と呼ばれ将来を期待された3人だったが、薗田さんは1987年11月28日、新婚旅行を兼ねた南アフリカ遠征に向かう途中に飛行機事故で帰らぬ人となった。
 盟友の命日(28日)前日に王座を奪取。しかも第100代王者として日本最古の王座に名を刻んだ。
【激勝!渕&大仁田がアジアタッグ100代目王者に/東京スポーツ 2016年11月28日】

 

弟分・三沢は二代目タイガーとして苦闘の日々を過ごし、素顔に戻ると川田利明、小橋健太、菊池毅といった薗田が育てた若手選手と超世代軍を結成し、一大センセーションを巻き起こす。1991年12月6日日本武道館で行われた「世界最強タッグ決定リーグ戦」最終戦のメインイベントに三沢がいた。当時最強タッグをほしいままにしていたテリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムスの殺人魚雷コンビを相手に互角の攻防を展開していた。終盤、三沢&川田に勝機が見えた。すると実況の若林健治アナウンサーが叫ぶ。

 

「"プロレスは俺の生き甲斐、毎日が張りがある"と語っていたハル薗田さん。天国の薗田さん、あなたが育てた若い力が大輪の花を咲かせようとしています!」

 

2007年、三沢が率いるプロレスリング・ノアは若手最強を決めるリーグ戦を「モーリシャス杯」と名付けた。これは「薗田さんから当時の若手が教えられたものを、次世代を担う若者に伝えていきたい」という会社の意向だった。ノアの若手を育て上げた小川良成は、薗田の教え子だった。薗田追悼興業に出場した若手時代の小川は涙でなかなかリングに上がれないほどショックを受けてた。あれから薗田の教えをきちんと小川は後世に残してきた。薗田の遺伝子は若干でも現世代のレスラー達にも継承されているのだ。

 

確かに薗田はこの世にはいない。だが天国から後輩たちの活躍をずっと見守り、ずっと支えてきたのだ。そう、みんなの”守護霊”として…。

そして薗田に関わった者達は各々が薗田への想いを胸に生きることで、亡くなったとしても薗田のドラマをずっと紡き、リングに大輪の花を咲かせてきたのだ。

 

元週刊ゴング編集長・小佐野景浩氏は薗田についてこう語る。

 

「ハル薗田というレスラーは、お腹がポッコリした体型だったが、サマーソルトもできる運動神経抜群の人だった。ただし、ファイト・スタイルはオールド・スタイル。基本に忠実な理に適った地味なレスリングで、立場的には脇役だった。多分、今だったら"職人レスラー"として高い評価を受けた人だと思う。 そして人間・薗田さんは兄貴肌の面倒見のいい優しい人だった。三沢は兄のように慕っていたし、小川は薗田さんにプロレスを叩き込まれたと言っていい。当時、練習生だった小橋、菊地、北原にとっては、まだ怖いコーチというイメージしかなかったのではないか。私も薗田さんにはお世話になった。まだゴングが週刊化される以前、つまり全日本の担当記者になる以前の新人記者時代、控室になかなか入ることができずに廊下にいると『あれ、小佐野クン? 取材なら入りなよ』と声をかけてくれることもしばしばだった。何より、挨拶した翌日から顔と名前を覚えてくれたのが嬉しかった。 (中略)もし生きていたら薗田さんは今、49歳(2006年現在)。レスラー人生をまっとうして引退していたかもしれない。気さくだったが、プロレスについて生意気な口をきくと許さなかった薗田さん。そんな貴方の教えを今も私は守っているつもりです」
【<第84回>ハル薗田さんが逝って19年…(06.11.29)/maikaiプロレスコラム】
 

ハル薗田はこの世にいる時も人を支え、脇役として生きてきた。そしてこの世を去っても、その魂で皆を支えてきた。

彼は死してずっと生きてきた。

不慮の死でいなくなったとして、ここまで慕われたのは薗田の人徳ではないだろうか。

この世に未練もあったはずだ。しかも新妻を道連れにしてしまったことは男にとって屈辱以外の何物でもない。

だが彼の魂をバトンとして受け取った者達がレスラー人生を全うすることで薗田はこの世に肉体はなくても生きてきた。

そしてこれからも薗田の魂は日本のプロレス界に息づいていく。

 

天国のハル薗田さん。

あなたに関わった多くの者達は、あなたの分までプロレスで燃焼してきました。

そして、彼等が活躍することで、あなたは彼等と共にリングで生きてきたんですよ。

彼等はあなたの無念を晴らそうとしていたのかもしれません。

もし彼等が天国に旅立った時にゴリさん、彼等に労いの言葉をかけてあげてくださいよ。

何故、彼等がそこまでしてあなたのために動いたのでしょう?その答えは明確です。

 

みんな、ゴリさんと慕われ愛されたあなたが好きだったんですよ…。