異種格闘技戦の最強外敵アンソロジー/プロレスを脅かした4人の格闘家達【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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 俺達のプロレスラーDX

第207回 異種格闘技戦の最強外敵アンソロジー/プロレスを脅かした4人の格闘家達
(ウィリエム・ルスカ&モーリス・スミス&ヒクソン・グレイシー&ミルコ・クロコップ)

 

異種格闘技戦の時代

 

異種格闘技戦の歴史は古い。1976年から新日本プロレスのアントニオ猪木が「プロレスこそ最強の格闘技」であることを証明するために幾多の強豪格闘家と激戦を繰り広げ、「格闘技世界一決定戦」と題した異種格闘技戦というスタイルは定着していった。実は日本では幕末に横浜で「レスラーVS力士」の異種格闘技戦が行われたり、柔道家・前田光世が世界各地でさまざまな格闘技と異種格闘技戦を行ったり、戦後、柔道家とボクサーが対戦する「柔拳」が開催されたりしていた。どちらかというと表より裏で存在していた異種格闘技戦を目玉企画として成立させたのはアントニオ猪木と新日本プロレスだった。

 

今回はプロレスを脅かす外敵となった格闘家が主役である。

プロレスラーではなく格闘家から見たプロレスとは何だったのか?

プロレス団体が主催する異種格闘技戦の刺客として参戦した格闘家のウィリエム・ルスカとモーリス・スミス。そして格闘技団体が主催する異種格闘技戦(この頃はバーリ・トゥードやNHB)でプロレスの天敵となった格闘家であるヒクソン・グレイシーとミルコ・クロコップ。この4人の物語を綴る。異種格闘技戦の絶頂期、過渡期、MMA以前のバーリ・トゥードと呼ばれプロレスと格闘技がリンクしていた時代。彼等はどんな歩みをし、侵略者としてプロレスに立ちはだかったのだろうか?四者四様のファイティングロードを追うことにしよう。

 

1.自業自得だったオランダの赤鬼/ウィリエム・ルスカ(オランダ・柔道)

 


異種格闘技戦のパイオニアといえるアントニオ猪木にとって、オランダの柔道家ウィリエム・ルスカ(ウィレム・ルスカ)は初の異種格闘技戦の対戦相手である。この男、ただの柔道家ではない。1972年ミュンヘン五輪柔道男子無差別級と重量級金メダリストとなった怪物。190cm 110kgの巨体と常に一本を取りに行くアグレッシブな姿勢、白い肌が紅潮する様から"オランダの赤鬼"と呼ばれた。なぜルスカが異種格闘技戦の舞台に立つことになったのか?そこには知られざる事情があった。

 

ルスカは1940年8月29日オランダ・アムステルダムに生まれた。彼が柔道に出会ったのは海軍を除隊した21歳の時。当時、オランダ人のアントン・へーシングが日本人を次々と倒し、柔道世界大会を制し国民的英雄となっていた。ルスカもへーシンクの活躍に触発されて柔道を始めた。韓国人柔道家が運営する道場で学ぶことになる。ちなみのこの道場に一か月後に入門したのが後に盟友となるクリス・ドールマンである。その後、ルスカはオランダ格闘技界の父と呼ばれるジョン・ブルミンに弟子入りし、鍛錬を重ねた。ブルミンはへーシンク最大のライバルで、ヘーシンクよりも実力は上と言われながらも弱小団体に所属していたため、国際大会に出場することはなかった。ブルミンはその無念をルスカで晴らそうとした。だからルスカをウェイトトレーニングや乱取り、打ち込みを中心に鍛え上げた。

 

だが師弟の想いは見事に打ち砕かれた。どんなに大会で結果を残しても国際大会にルスカは選ばれず、1984年東京五輪の代表からも政治的理由で外れた。ルスカはバウンサー(用心棒)の仕事を辞め、日本の講道館で修業し、ヘーシンクが東京五輪で金メダリストになる姿を目撃した。本当に悔しかった。いつか見返してやると誓ったルスカは岡野功に弟子入りして、さらに柔道家としての強さと技術を磨いた。そして1972年ミュンヘン五輪で重量級と無差別級の二冠を獲得し、引退する。ルスカはヘーシンクを越える二個の金メダルを獲得したものの、生活は救われない。ヘーシンクのような栄光もない第二の人生を歩むことになる。そこには政治的理由と共に、ルスカの妻が裏稼業をしていたこと(ちなみにルスカが妻に裏稼業をさせ、自身はヒモだったとも言われている)も原因だった。

 

アムステルダムで、盟友ドールマンと格闘技ジムを経営していたルスカは1975年に妻が脳梗塞に倒れた。苦労を掛けさせた妻の治療費が必要になったルスカはある日、プロボクシング世界ヘビー級王者モハメド・アリに挑戦表明する日本人プロレスラー・アントニオ猪木の新聞記事を読む。ルスカはこの日本人に興味を抱き、親交のあった日本レスリング協会の福田富昭氏を通じて、猪木に挑戦状を叩きつけた。そして猪木と闘えばビッグマネーが入ると考えたのだ。

(だがこれも一説によるとルスカサイドからのアプローチではなく、新日本サイドからアプローチだったともいわれている)

 

1976年1月にプロ格闘家に転向したルスカと猪木の異種格闘技戦が正式決定。プロレスの世界王者と柔道の世界王者が互いのジャンルの威信をかけて激突する一戦にその話題は世間一般にまで轟いた。同年2月6日新日本プロレス・日本武道館大会で実現したプロレスVS柔道の異種格闘技戦は名勝負となった。柔道仕込みの投げ技と絞め技に猪木は大苦戦を強いられるものの、最後はバックドロップ三連発でKO負けを喫した。柔道家としてプライドを捨て、妻の治療費のためにプロレスの世界に飛び込んだルスカは新日本サイドからするとアリ戦に向けての価値が上がる丁度いい"カモ"だった。

 

柔道界にも戻れないルスカはその後、異種格闘技戦を闘い、やがてプロレスラーに転向する。だがルスカの中で「プロレスはショーであり、八百長だ」という観念が根強かったのではないだろうか。成功することはなかった。またブッカーにとって、強さは持っているが、どこか融通が利かず、プロレスセンスに欠けるルスカは使いづらかった。だがプロレス関係者の間では「ルスカの強さは桁外れだった」という逸話が残っている。 

 

2015年2月14日、ルスカは74歳でこの世を去った。

 

ルスカの人生を振り返ると「自業自得」という言葉が過る。確かに彼は不運の柔道家だったかもしれない。プロレス界でも大成できた怪物だったかもしれない。しかし、本人の行いや生き方によって、報われない生涯を送ることになったのではないかと。この男が持つ闇は、ブラックホールと呼ばれるプロレス界でも中和することはできなかった。それでもルスカはあの時、猪木戦を闘ったことをずっと感謝していたという。

 

2. 黒い爆撃機の越境精神/モーリス・スミス(アメリカ・キックボクシング)

 


 

モーリス・スミスは8年間無敗を誇ったキックボクシング最強の男だった。そんな男がプロレスと接点を持ったのは1989年11月29日、格闘プロレスUWF東京ドーム大会。彼はプロレスラーと異種格闘技戦を闘う刺客となった。当時28歳の彼はその強さを満天下で証明し、衝撃のプロレス団体参戦を果たした。その後、K-1、MMAでも結果を残し、ジャンルを超えた格闘家とったモーリスの歩みとは?

 

モーリスは1961年12月13日アメリカ・ワシントン州シアトルに生まれた。少年時代からブルース・リーの映画に出会い格闘技を始めた彼は伝統派空手、テコンドー、ジークンドーとさまざまな格闘技を習った。18歳の時にキックボクサーに転身する。188cm 100kgのバランスの取れた肉体と重量級らしからぬ狡猾なテクニックでキックボクシング界で名を馳せていく。

 

オランダのメジロジムでのムエタイ修行を経て、さらに成長を遂げたモーリスはWKA世界キックボクシングヘビー級王座とISKA世界ムエタイヘビー級王座を獲得する。特にWKA王座はプロレス界で例えるNWA世界王座のような伝統の至宝で、モーリスはその王座を長年に渡り君臨し、ミスターWKAとしてキックボクシング界を牽引していった。

 

そんなモーリスを招聘したのが第二次UWFだった。異種格闘技戦のリングに立ったモーリスは1989年11月29日東京ドーム大会で、当時若手レスラーだった鈴木みのると対戦する。鈴木は今でもあの日を忘れない。

 

「途中から俺は何をしたらいいんだろうという感じの完全なパニック状態になっていましたね。自分が何をしているのはすらわからない。もう何も考えられなかった。逃げたんですよ。怖くて。あの試合は自分で寝たんだと思います。やればやるほど、ドツボへはまっていく。でも向こうは全然息が切れていない。そんな相手とは今までやったことがなかった。あのあとにモーリスがキックボクサーとして一流選手であることを知ったんですよ」

【プロレスVS格闘技大戦争!―プロレスラー異種格闘技戦名勝負 B.B.mook―週刊プロレススペシャル/ベースボールマガジン社】

 

モーリスは鈴木にKO勝ちを収め、その強さを見せつけた。その後、スミスは全日本キックボクシング連盟のリングで来日を果たし、タイトル戦で勝利していった。キック界の帝王、ミスター・キックボクシング、黒い爆撃機とも呼ばれた。8年間無敗を誇っていたモーリスが1992年4月フランスで後に暴君として恐れられるオランダのピーター・アーツに敗れ、無敗記録が途絶えた。

 

それでもキックボクシング最強の男はモーリスであることには変わりはなかった。そしてビッグマウスで挑発をするタイプだったため、UWF系のレスラーにとって彼は倒すべき外敵だった。鈴木の次にモーリスが闘ったプロレスラーは船木誠勝。船木はプロレス界期待の星と呼ばれ、当時所属していた藤原組では若きエースだった。1992年10月4日東京ドーム大会で異種格闘技戦で対戦した二人。試合は引き分けに終わったが内容ではモーリスが上回った印象が強かった。

 

だがモーリスの最強神話はK-1誕生と共に崩壊する。1993年の立ち技格闘技世界最強トーナメント「K-1グランプリ」にエントリーしたモーリスは準決勝で、これが初来日のアーネスト・ホーストの左ハイキックに失神KO負けを喫する。キックボクシング最強の男はK-1のリングで無残に散ることになる。

 

そんなモーリスに挑戦表明したのが藤原組を離れ、パンクラスを旗揚げした鈴木みのるだった。鈴木はかつてモーリスに惨敗した過去とずっと向き合っていた。そしてキックボクシングを習い、カール・ゴッチに傾倒していったのもスミス敗戦ともっと強くならなければという欲求によるものだった。

 

そして鈴木は全日本キックの関係者にスミスとの再戦を直訴し、1993年11月8日パンクラス神戸大会で実現することになった。そしてルールはなんとキックボクシングルールとなった。キックボクシング最強の男とキックボクシングで闘うとはあまりにも無謀だ。試合は当然のことながら鈴木は敗れた。試合後、モーリスと鈴木はこんなやり取りをしたという。

 

「キックルールで闘ったあと、たまたま通路でモーリスに会ったんですよ。そうしたら『お前は本当に頭が悪い。クレージーだ』と頭を小突かれた。でもそのあとすぐにモーリスは『今回はお前が俺のルールで闘った。次は俺がお前のルールでやってみよう』と提案してきたんですよ。うれしかったですねぇ」

【プロレスVS格闘技大戦争!―プロレスラー異種格闘技戦名勝負 B.B.mook―週刊プロレススペシャル/ベースボールマガジン社】

 

鈴木との試合の数週間後、モーリスは全日本キックの興業でパンクラス・船木誠勝との異種格闘技戦に挑み、チョークスリーパーで敗れた。そして翌年1994年5月31日のパンクラス日本武道館大会で鈴木と三度目の対戦を迎える。ルールはラウンドごとに素手とグローブにつけかえるものの、モーリスは鈴木サイドのパンクラスルールで闘った。試合は3ラウンドで腕十字が鈴木が勝利を収める。鈴木には勝ったことより、モーリスという男に出会ったことに感謝の気持ちが強かったという。

 

そして鈴木との出会いがモーリスの人生を変えた。格闘家として探求心が覚醒したのだ。今まで未知の領域だった寝技や組み技の技術習得のためにジムに出稽古に励み、パンクラスやリングスで実戦を積み重なるモーリス。結果は振るわない時期もあったが、彼はトータルファイターになるために精進を重ねていった。もう彼はプロレスの外敵とは誰も呼ばれないなった。1996年1月にリングスで対戦した高坂剛との出会いも大きかった。モーリスはなんと高坂をシアトルのジムに招聘に指導を受けるようになる。強くなるためにどこまで貪欲なモーリスの努力が結実し、1996年3月に、Extreme Fighting(日本ではエクストリーム大会と呼ばれたNHBイベント)ヘビー級王座を獲得し、1997年7月にはマーク・コールマンを破り、第二代UFC世界ヘビー級王座を獲得した。立ち技と総合格闘技の両ジャンルで頂点を取るという偉業を成し遂げた。

 

その後、モーリスはK-1で北米地区大会を優勝や、リングスKOKトーナメントに参戦し年齢を重ねても実績を上げ、挑戦を辞めなかった。また、極真空手世界王者フランシスコ・フィリォのK-1参戦やボブ・サップの格闘技デビュー、藤田和之や佐竹雅昭の総合格闘技初陣時にトレーナーとして支え、名伯楽として評価を上げた。

 

時は流れ、2008年6月17日後楽園ホールにモーリスの姿があった。この日はあの鈴木のデビュー20周年&誕生日記念興行。鈴木はその興行にモーリスを招聘し、エキシビションマッチで対戦した。エキシビションが終わるとモーリスはマイクでこう語った。

 

「12年ほど前、彼とこのビジネスで出会えたことは私にとって宝のような思い出です」

 

プロレスラーと出会いその後の人生が一変した格闘家モーリス・スミス。もしあの時彼が鈴木みのると異種格闘技戦を闘っていなければ、その後、ジャンルを越境して活躍し、立ち技と総合格闘技の頂点を極める姿はなかったのかもしれない。黒い爆撃機の越境精神はプロレスとの出会いがあったからより深いものになったのだ。だからこそモーリスは「プロレスは特別な才能を持った人間じゃないとできない。自分は特別な人間ではないのでできない」と謙遜している。私はこの発言にモーリスの格闘家として矜持とプロレスへの敬意を感じた。

 

キックボクシング最強の男モーリス・スミスは間違いなくプロレス史に残る最高の外敵であり、最高の格闘家である。

 

3. 「400戦無敗」と呼ばれた男の目的意識/ヒクソン・グレイシー(ブラジル・グレイシー柔術)

 


 

「兄のヒクソンは私の十倍強いです」

 

初期のUFCで圧倒的な強さを見せつけたグレイシー柔術のホイス・グレイシーは実兄ヒクソン・グレイシーをこう語った。それが「400戦無敗の男」にスポットライトが当たった瞬間だった。

 

「スポーツ競技としての柔術、柔道、アマチュア・レスリング、サンボ……。プロフェッショナル、アマチュアを問わず400戦以上おこない、過去15年間無敗です」
ヒクソン・グレイシー「わたしは最強なんかじゃない」――フミ斎藤のプロレス読本#108 特別編ヒクソン・グレイシー/日刊SPA

 

このヒクソンの発言を受けて、プロモーターが彼に「400戦無敗の男」というキャッチフレーズを与えた。その真偽は公式記録を詳しく調査しないと定かではなし、あくまでも”公称”である。ただこの戦績に値する強さを持っていたのは紛れもない事実である。そしてヒクソンは「プロレス最強神話」を打ち砕いたまさしく侵略者である。これは異種格闘技戦がプロレス界が主催したものから、格闘技界が主催したものに移行していく転換期に現れた「400戦無敗の男」の物語。

 

ヒクソンは1959年11月21日ブラジル・リオデジャネイロ州で生まれた。 父エリオはブラジルに移民した伝説の柔道家・前田光世によって伝来させた講道館柔道をより寝技や護身術、格闘技にアレンジさせた「グレイシー柔術」の創始者。ヒクソンはエリオの三男として英才教育を受け、6歳で大海に出場、19歳で黒帯を取得したという。

 

ちなみにヒクソンは国内で有名になったのは20歳の時。スーパーヘビー級の巨漢レイ・ズール(後にPRIDEに参戦したズールの父)とのバーリ・トゥードに挑み大方の予想を覆し、178cm 84kgのヒクソンが勝利をタップアウトを奪ったのだ。

 

国内に知れたかもしれないが、ヒクソンはグローバル規模で成り上がりたかった。アメリカに移住したのもその大志を抱いたからだ。実はヒクソンは世界的に有名になる前の1991年に新日本のアントニオ猪木に対戦要求するために来日したことがある。猪木と40万ドルを賭けて試合をしたいというものだったが、新日本サイドから「賭け試合はしない」と断られた。まだ無名時代の話だが、何とかして有名になるために足掻こうとしていた姿勢が伺える。

 

1993年11月に開催されたグレイシー柔術が企画に参加した何でもありの格闘技トーナメント第一回UFCに、グレイシー代表として選出されたのはヒクソンではなく、弟である六男ホイスだったことがヒクソンの運命を変えた。エリオの元を離れ、1994年7月に佐山聡率いる修斗主催の「バーリ・トゥード・ジャパンオープン」にエントリーしたヒクソンはトーナメントを難なく制し、優勝。そんなヒクソンの首を獲るために立ち上がったのはプロレス界で最強を掲げていたUWFインターナショナル(Uインター)。そして打倒グレイシーの先兵として道場破りに赴いたのはUインターきっての実力者・安生洋二。この男の実力は本物で、Uインターの門番、ポリスマンと呼ばれていた。だが、ヒクソン道場へ道場破りを仕掛けた安生だったが、わずか6分で一方的にボコボコにされチョークスリーパーで惜敗。プロレスラーが道場破りを仕掛け敗れるというショッキングな出来事にプロレス界に激震が走った。

 

翌年1995年4月の「バーリ・トゥード・ジャパンオープン」に出場することになったヒクソン。トーナメント一回戦で対戦したのはリングスの山本宜久だった。山本は格闘王・前田日明の愛弟子。ここでもU系戦士と闘うことになったヒクソンは山本のフロントチョークに苦しめられたものの、形勢を逆転にチョークスリーパーで勝利。また準決勝でプロレスラーの木村浩一郎、決勝戦で修斗の中井祐樹を秒殺。見事にトーナメント二連覇を果たした。

 

「誰が次にヒクソンを闘うのか?」

 

ここからさまざまな団体のヒクソン争奪戦が始める。元々参戦していたバーリ・トゥード・ジャパンオープン」に絡んでいた修斗だけでなく、リングス、Uインター、そして新日本プロレスも参入している。特に新日本は水面下で何度もヒクソン参戦を興行の目玉にしようとしていた。長州力、中西学、獣神サンダー・ライガー、藤田和之が対戦相手としてラインナップされていた。だが最終的には交渉は決裂した。これは推測だが、プロレス団体主催の異種格闘技戦という出ることより、より自分自身が有利、あるいは限りなく公平中立な実行委員会での試合にこだわったのではないだろうか。もう彼は相手団体に優遇や高条件を提示できる強力なネゴシエーターとなっていたのだ。そんなヒクソン争奪戦を制したのは、「高田延彦VSヒクソン・グレイシー」実現のために誕生した新格闘技イベント「PRIDE」だった。

 

1997年10月11日東京ドームで実現した高田VSヒクソンの夢対決(総合格闘技ルール)でヒクソンは287秒、腕十字でタップアウトを奪い圧勝する。プロレス界のスーパースター・高田の敗戦は「プロレス最強神話崩壊」と報じられ、高田は「A級戦犯」と断罪され、アントニオ猪木からは「プロレス界で一番弱いヤツが行ってしまった」と一刀両断。さらに翌年10月11日の再戦でも高田を返り討ち。プロレス界からすると最強の侵略者襲来、格闘技界からすると最強の格闘家誕生という二元現象が起こっていた。

 

度重なるネゴシエーションの末、次にヒクソンが狙いを定めたのはパンクラスのエース・船木誠勝だった。2000年5月26日東京ドームで堅いされた「コロシアム2000」で対戦した二人。序盤で船木のパンチを受けて眼窩底骨折という負傷を負いながらチョークスリーパーで勝利。またも「400無敗の男」にプロレスラーは苦杯をなめることになる。

 

それでもプロレス界には最後の希望がいた。グレイシー柔術の猛者を次々と倒し、”グレイシーハンター”と呼ばれたPRIDEの英雄・桜庭和志。桜庭VSヒクソンは2001年に実現に向けて動いていた。もしかしたらこれがヒクソンにとってライスファイトのつもりだったのかもしれない。だがヒクソンの息子ハウソンがバイク事故で死去。この事故に大きなショックを受けたヒクソンは表舞台から姿を消した。

 

その後、ヒクソンがフェードアウトしている間に世界最強の格闘家と呼ばれたエメリヤーエンコ・ヒョードルとの対戦が決まる寸前まで行くも、ヒクソンが左足を負傷し、その話が立ち消えすることになる。そして引退試合やセレモニーをすることなく、彼は静かに引退した。誰も彼の無敗神話を崩すことはできなかった。そして残ったのは彼の前に散っていったプロレスラー達の屍だった…。

 

「400戦無敗」と呼ばれた男…ヒクソン・グレイシーとは何者だったのか?

プロレス界にとっては最強の侵略者、プロレス食いの破壊者だった。そして格闘技界からすると、最強の格闘家、サムライ、達人だった。私はヒクソンはどこまでも孤独だったと思うのだ。その孤独を満たすために「有名になる」「強くなる」「名声を獲得する」という目的意識を持って生きてきたのだ。プロレス界にとって彼に勝ち逃げされたのは格闘技ブームによるプロレス低迷の呼び水になった要因の一つではないかと私は考えている。異種格闘技戦の歴史は、ヒクソン以前、ヒクソン以後に分類されるのだ。

 

 

 

4. 冷静と情熱のターミネーター/ミルコ・クロコップ(クロアチア・キックボクシング)

 


ミルコ・クロコップはクロアチアの国民的英雄である。K-1やPRIDEでの活躍がきっかけで、テレビゲームになったり、映画の主演を務めたり、国会議員になり、日本の総理大臣と対談したりする、まさしく超人である。そんなミルコはプロレス界では数々のプロレスラーを総合格闘技で倒したことによって、「プロレスハンター」と呼ばれた侵略者である。188cm 100kgの強靭な肉体で格闘技界を生き抜いた戦慄のターミネーターと呼ばれたミルコの歩みを振りかえる。

 

ミルコは1974年9月10日 に旧ユーゴスラビア(現クロアチア)・ヴィンコヴツィで生まれた。戦火の中で幼少期から過ごしてきたミルコは民族紛争に巻き込まれ、友達を次々と亡くした。戦争や民族紛争への怒りを内に秘めてひたすら彼は肉体を鍛え、空手やキックボクシングに汗を流した。「強くなれば、生き残ることができる」という信念を持って格闘技に打ち込んだのである。周囲はミルコを「こんな大変な時期に何をしていんだ」と白い目で見ていた。でもそんなことは彼には関係がない。とにかく強くなりたかった。

 

一度は紛争で断念せざる負えなかった格闘技だったが、19歳に再開し、キックボクサーとしてリングに上がるようになった。1996年3月に「K-1グランプリ」にエントリーしたミルコ。初代K-1王者ブランコ・シカティックの愛弟子ミルコ・タイガーとしてリングに上がり、前年の準優勝者ジェロム・レ・バンナを破り大金星を上げた。5月の決勝大会ではトーナメント2回戦でアーネスト・ホースとに敗れた。その後、ミルコは師匠シカティックと決別し、日本とのラインは切れたことにより、3年ほど来日することはなかった。その間はアマチュアボクシングでキャリアを積み、オリンピック代表候補になるほど上達させた。またクロアチアの治安を守るために警察官になった。

 

1999年にミルコ・"クロコップ"・フィリポビッチとリングネームを改めた。クロコップとはクロアチアの警察官という意味で、その後、ミルコ・クロコップに改名している。、ミルコは1999年の「K-1グランプリ」でマイク・ベルナルド、武蔵、サム・グレコといった強豪を撃破し、準優勝を果たす。その頃から冷静沈着に相手を仕留める様から「戦慄のターミネーター」と呼ばれるようになる。

 

2000年6月にはK-1のカリスマ的人気を誇った"鉄人"アンディ・フグの母国スイス国内引退試合の相手に指名され、激戦を繰り広げるも敗退。その二か月後にアンディが白血病に倒れ急死したため、アンディ最後の大一番の相手となった。

 

このままK-1の頂点を取るかと思われたが、なかなか結果がでなかった。特に2001年のK-1ワールドGPでは世界予選一回戦敗退を喫した。そんなミルコに思わぬオファーが届く。K-1に新しい刺激と夢のカードを提供するために、2001年8月19日K-1さいたまスーパーアリーナ大会でアントニオ猪木率いる猪木軍とK-1軍の全面対抗戦(総合格闘技ルール)に突入し、ミルコは猪木軍の大将を務めるプロレスラー藤田和之との一戦が組まれた。彼にとってはもちろん総合格闘技初挑戦。相手の藤田は総合格闘技でも結果を出しているプロレス界の野獣。戦前は藤田有利と言われていた中で、藤田のタックルにカウンターのヒザ蹴りを合わせ、藤田の左こめかみをカットさせ勝利。この一件がミルコを人生を変えた。

 

2001年12月31日さいたまスーパーアリーナで開催された「猪木祭り・猪木軍VSK-1軍全面対抗戦」で新日本プロレスの実力者・永田裕志と対戦することになったミルコ。藤田の先輩で、新日本のG1CLIMAXを制したエース候補で、アマレスで全日本大会を制した永田は総合格闘技初挑戦。一方のミルコもまだ総合格闘技初心者。しかし、ミルコの深化は著しく、開始わずか21秒、伝家の宝刀・左ハイキックで秒殺価値を収める。藤田と永田という強豪プロレスラーを破ったことにより、彼はプロレスハンターと呼ばれることになる。

 

プロレスハンターとなったミルコはK-1でも総合格闘技使用のクロアチアの国旗が彩られた白スパッツ姿となり、より鋭利に、刺激的な存在に成長する。K-1でも連戦連勝。総合格闘技でもPRIDEの英雄・桜庭を破り、藤田を返り討ち、野獣ボブ・サップを秒殺とこの時期のミルコはプロレス界・格闘技界を賑やかす外敵として快刀乱麻の活躍をする。

 

そんなミルコの転機となったのが2003年のPRIDE移籍。標的はPRIDEヘビー級王者エメリヤーエンコ・ヒョードルだった。K-1の頂点から、PRIDEの頂点に立つために目標をシフトチェンジしていったミルコは冷戦沈着な一面、敗れた時の弱々しい人間的な一面、勝利に向けた打撃のラッシュに見せる激しい一面。恐らく総合格闘技一本に絞っていから、彼は強さも脆さも曝け出すようになる。もうプロレスハンターではなく、ヒーローとして格闘技ファンから感情移入される男になっていた。この姿はかつて見た光景。そう、K-1ルール対応に苦戦し、敗戦を重ねたアンディ・フグの姿にどこかPRIDE時代のミルコにダブってみえた。

 

2005年8月28日PRIDEさいたまスーパーアリーナ大会で標的として定めていたヒョードルとのタイトル戦が実現する。その煽りVTRは映画「ターミネーター」のサントラに乗せてミルコの壮絶な半生がナレーションなしで見事に描かれたものだった。試合はヒョードルのペースに試合が進む判定負け。彼の夢は崩れたかに見えた。

 

だが2006年の「PRIDE無差別級グランプリ」で見事に優勝し、リング上で男泣き。遂に格闘技の頂点に立った。戦火で生き抜くために格闘技没頭した少年が報われた瞬間だった。

 

その後、ミルコはUFCやDREAMと転戦していくも結果は苦戦が続いた。2012年にクロアチアで行われたK-1ワールドGPを優勝。K-1と総合格闘技制覇という快挙を果たし、ここでも男泣きに暮れるミルコがいた。2016年12月31日さいたまスーパーアリーナ大会での「RIZIN無差別級GP」に出場したミルコは大方の予想を覆し、見事に優勝を果たす。42歳でトーナメント制覇に泣くミルコ。彼のファイティングロードには大仕事を果たした上での涙がつきものとなった。何度か引退を表明し復帰しているミルコは現在、格闘技人生最終章に突入している。

 

プロレスハンターと呼ばれた男はどこか人間らしかった。強さも弱さも併せ持ち、リング上で冷静と情熱を吐き出し、多くの名勝負や名場面を残してきたミルコ・クロコップ。彼の歩みはプロレスの外敵となりながら、実にプロレスラー以上にプロレスラーらしいドラマチックな物語ではないだろうか。

 

異種格闘技戦の果て

 

異種格闘技戦、プロレスラーの総合格闘技挑戦の果てに互いが潰し合いとなり、"プロ格"というクロスオーバー期を経て、プロレス、格闘技はそれぞれの世界で栄えることを目指し別個で歩むことになった。それは業界として必然の結果だった。そもそもプロレスもどんな格闘技に携わる多くの者達は「強さ」を求めて日々精進している。ただ、その「強さ」の定義はジャンルごとに微妙に違う。ボクシング界には「ボクサーのタイプは指紋の数ほどたくさんいる」という格言があるが、「強さ」の形も指紋の数ほど転がっているものではないかと感じる。
 
今後、プロレスラーが総合格闘技に挑戦して敗れて、プロレスラーが弱い、格闘家がプロレスに挑戦して、しょっぱい試合を展開して、格闘家のプロレスはつまらないという短絡的な見方から卒業するべきではないだろうか。その中で試合での対抗戦とは既存の交流手段以外で、プロレスと格闘技が健康管理やプロモーションなど形での交流など、互いのジャンルが共存共栄できるような繋がりができることを期待したい。
今回紹介した4人の格闘家は、異種格闘技戦の最強外敵となり、その強さを満天下に証明してきた。彼等がプロレスとプロレスラーをどう感じたのか。そこの答えも様々だろう。だがこの4人のファイティングロードはプロレスとの遭遇がターニングポイントとなった。これは揺るがない事実である。
プロレスを脅かした男達のアンソロジーにはその魑魅魍魎と虚々実々が充満している。