精密過ぎるリズム~三沢光晴になりたかった男~/鈴木鼓太郎【俺達のプロレスラーDX】 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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俺達のプロレスラーDX
第209回 精密過ぎるリズム~三沢光晴になりたかった男~/鈴木鼓太郎

 


 

プロレスラーがプロレスに出会ったきっかけは人それぞれである。

テレビのプロレス中継を見てハマった者、バラエティー番組を見てプロレスにハマった者、親や家族の影響でプロレスにハマった者…。

 

今回の主人公・鈴木鼓太郎はテレビゲームでプロレスに出会った。

プロレスファンの心を鷲掴みにしたゲームソフト「ファイヤープロレスリング(通称・ファイプロ)」が鼓太郎にとってプロレスの入り口だった。

 

ファイプロとは、スパイク社(現・スパイク・チュンソフト)から発売されているプロレスゲームである。
初期正式名称は『ファイヤープロレスリング』もともとはヒューマン株式会社が手掛けていたシリーズで、さらにそのルーツは、同社が開発、任天堂が販売したファミコンソフト「プロレス」にまで遡る。
タイミングが悪いと技がかからない独自のシステムを「プロレス」で採用、1989年にPCエンジンで発売された第1作でもそのシステムを踏襲した。その後スーパーファミコンで「スーパーファイヤープロレスリング」を発売すると大ヒットし、シリーズ化された。2001年に版権をスパイク(現:スパイク・チュンソフト)が買い取り(一部のスタッフも移籍)、以後は同社のソフトとして販売されている。
最新作は「ファイヤープロレスリング ワールド」で、PC版(Steam)が2017年12月に発売された。
主にニコニコ動画では、エディットキャラによる動画がある。またプロレスゲームとしては、エキプロと双璧をなす(と思ってる)。
【ファイプロ/ニコニコ大百科】

 

鈴木鼓太郎がファイプロでよく愛用していたレスラーが「氷川光秀」。このレスラーのモデルは後に師匠となる三沢光晴である。ファイプロからプロレスに出会い、三沢光晴に憧れを抱くようになった鼓太郎は三沢が創設したプロレスリング・ノアに入門したのは必然だった。これは三沢光晴に憧れ、三沢光晴になろうとした技巧派レスラーの物語である。

 

鈴木鼓太郎は1978年6月18日埼玉県蕨市に生まれた。実は師匠の三沢と誕生日が同日である。本名は鈴木康弘という。鼓太郎はスポーツ少年だった。小学校時代は卓球、中学・高校と柔道に熱中していた。中学時代にテレビゲームのファイプロがきっかけでプロレスが好きになった鼓太郎は柔道部で汗を流しながら、三沢の得意技タイガードライバー、ムーンサルト・プレスといったプロレス技をマスターする。

 

日本体育大学に進学すると柔道だけでなく、ジムで肉体作りに励み、さまざまな格闘技に触れ鍛錬をしてきた。彼の将来の夢はプロレスラーになることだった。その夢を叶えるためにひたすら精進を重ねた結果、2001年3月、三沢が旗揚げしたプロレスリング・ノア入門テストを受け、約200人の応募者の中から合格する。過酷な練習生生活を送る中で4人の合格者は次々とノアを離れていった。ただ一人離れずにデビューに向けて頑張ったのが鼓太郎である。2001年12月24日ディファ有明大会で池田大輔と組んで佐野巧真・金丸義信戦でデビューを果たす。プロレスリング・ノア生え抜きレスラー第1号の誕生である。デビュー後の翌年に三沢の「太鼓のように打たれ強く、打てば響く選手に」という願いを込めて鈴木鼓太郎に改名、ここにプロレスラー・鈴木鼓太郎の物語が始まる。

 

鼓太郎は練習生の時から三沢の付き人だった。173cm 85kgというジュニアヘビー級戦士・鼓太郎の飛び技や投げ技、打撃、落下技、固め技などさまざまな技と受け身、試合運びを器用にきれいにこなすオールラウンダーぶりはまさに師匠・三沢譲りである。基本的に自分で用意をする三沢は最低限のことさえやってくれてさえすれば、付き人を叱ることはない。鼓太郎もまた三沢に叱られることはなかった。鼓太郎と三沢はフィギュア収集という共通の趣味を持ち、何かとウマが合った。「お前は一番、俺に似ている」と三沢に言われた時は本当に嬉しかった。憧れの人にもっと近づけた男にとってそれは至福の言葉である。付き人を離れても三沢の酒席には鼓太郎の姿があった。時にはその酒席で鼓太郎は三沢に試合を褒められることがあったりした。また三沢の得意技タイガードライバーを試合で使った際も「お前のタイガードライバーよかった」と讃える三沢がいた。鼓太郎は付き人時代に三沢に言われたある言葉を忘れない。

 

「やることさえやっていれば、何してもいいよ。でも警察沙汰にはなるなよ」

 

「自由と信念」を掲げたノアの創設者・三沢らしい選手の自主性を尊重した格言である。師匠の想いを胸にレスラーとして鼓太郎は着実に成長を遂げていく。デビュー当初からジュニアヘビー級戦線に身を投じてきた鼓太郎は小川良成やリッキー・マルビンとのコンビで頭角を現す。またタイガー・エンペラーやムシキング・テリーというマスクマンに変身し、プロレスラーとしての幅の広さを披露してきた。2007年1月にマルビンとのコンビでGHCジュニアタッグ王座を獲得する。

 

鼓太郎が繰り出す技はオリジナリティーに溢れているブルーディスティニー(ゴリースペシャルの体勢に担ぎ上げ、相手の頭を両手で抱えつつ尻餅をつく技)、レクイエム(高角度前方回転落とし固め)、エクスカリバー(旋回式ツームストン・パイルドライバー)、エンドレス・ワルツ(連続ラ・マヒストラル)、ファンネル(619)といった鼓太郎のムーブは大好きな機動戦士ガンダムにちなんだ名称である。

 

フリーライターの長谷川博一氏は鼓太郎のプロレスをこう綴っている。

 

鈴木鼓太郎は特に芸術点の高いレスラーだ。技のフォームがきれいだし、受け方も上手い。(中略)森嶋猛の高角度バックドロップを食らう時の鼓太郎の受け方は抜群だった。持ち上げられた時の浮力をもって身体を上に浮かす。そしてきれいな肩の受け身でダメージを少しでも減らすようにふわっと落下していく。技を放った側の技術も高く見せてしますから、相手もうれしいだろう。こういう選手はなかなかいない。ただそのフォームの美しさうえ、鼓太郎は欠点の少ない選手という印象をファンに与える部分もある。(中略)三沢好みの天才肌のレスラーだから、その反面強力な個性に欠けるという点もあるかもしれない。

【ゴング11号/アイビーレコード・徳間書店】

 

確かに鼓太郎は精密機械のようなテクニシャンだ。ボクシングでいうところのアウトボクサーのように試合運びのリズムも正確である。ただ精密すぎる、正確すぎるのだ。それが故に試合がどこか無機質で観ている側に面白みに欠け淡泊さを感じさせていた。最大の長所であり、最大の欠点でもある精密すぎるリズムを刻む鼓太郎。思えば師匠・三沢もオールラウンダーだったが二代目タイガーマスク時代はなかなか評価は芳しかった。だが素顔に戻り、技術もさることながら、その生命力の強さを全面的に押し出していくことでレスラーとして評価を上げていったのだ。鼓太郎は己の武器にどう向き合い、どう磨いていったのか。

 

まず試みたのは立場を変えることだった。2008年6月に鼓太郎は相方のマルビンを裏切り、金丸義信と平柳玄藩とヒール・ユニットを結成する。人生初の悪役。ノアのカリスマと呼ばれていたKENTAをライバル視し、凶器や急所攻撃など反則攻撃を駆使し、何度も血だるまにしてきた。そういえばKENTAはかつて鼓太郎のことを「性格が悪い」といったことがあり、その素の部分を出すことにしたのだ。2009年3月にモハメドヨネがリーダーとなった新ユニット「DIS OBEY(ディスオベイ)」に合流し、ヒールに拍車をかけていった。

 

だがそんな鼓太郎、ノア、いやプロレス界に激震が走るあの事故が発生する。

 

(2009年6月)13日午後8時45分ごろ、広島市中区基町の県立総合体育館で開かれていた「プロレスリング・ノア」の試合中に、プロレスラーの三沢光晴さん(46)が倒れ、救急車で病院に運ばれた。広島中央署によると、同日午後10時10分に死亡が確認された。同署はノアの関係者らから試合状況などの事情を聴いている。同署などによると、午後8時10分ごろにタッグマッチ形式で試合が始まり、約30分後に相手選手にバックドロップをかけられ頭や首を強打し、リング上でそのまま動かなくなったという。ノアの公式サイトによると、倒れた後、すぐにレフェリーが試合を中断し、他の選手らが自動体外式除細動器(AED)の措置や心臓マッサージを試みたという。観客数は約2300人だった。三沢さんは、日本を代表するプロレスラーで、大手団体「ノア」の社長。81年に全日本プロレスでデビューし、2代目のタイガーマスクとして人気を博した。全日本プロレスで社長を務めた後、00年にノアを創設した。昨年には英国大会を開催した。試合を見ていた広島市中区の会社員男性(32)によると、三沢さんはバックドロップをかけられる前にすでに体がよろめいている状態だった。男性は「(三沢さんは)いつもの体の切れがなく疲れている様子で、大丈夫かなと思って試合を見ていた」と話した。三沢さんが搬送された同市南区の広島大学病院では、ノアの西永秀一渉外部長らが会見。「試合中のアクシデントで意識を失い、心肺蘇生措置を施して搬送したが、亡くなった」と説明した。
【プロレスラー三沢光晴さん、試合中に倒れ死亡 広島/朝日新聞2009年6月15日】

 

憧れのレスラーであり、師匠・三沢の死。鼓太郎はヒールになっても三沢と巡業を共にしていた。6月11日大阪大会の試合後にいつものように飲みに行っている。広島大会の前夜、ホテルに弁当を差し入れをしたのは鼓太郎だった。亡くなる当日の会場で一言か二言か話したのが最後の会話となった。

 

2009年に入りノアには暗雲が立ち込めていた。観客動員数は減少、シリーズ展開のマンネリ化、日本テレビの地上波中継が打ち切りと次々とノアにダメージを与えていた。社長の三沢はさらなる営業活動と苦しい経営を強いられる。鼓太郎はとにかく心配だった。団体も三沢にたいしても…。鼓太郎は意を決して「社長、会社は大丈夫ですか」と聞いた。すると三沢はこう答えた。

 

「大丈夫だよ。今まで俺がそう言って大丈夫じゃなかったことがあるか? プロレスはもう一度ゴールデンタイムで放映される時代が来る。俺が保証するよ」

【三沢光晴外伝 完結編 長谷川博一/主婦の友社】

 

亡くなる最後の最後までめげずに奔走していた三沢。彼が最後に闘った広島大会の宿舎として利用したホテルの部屋を掃除したのは鼓太郎だった。付き人としての務めである。三沢が愛用していたニンテンドーDSを手にすると、三沢との数々の思い出が走馬灯のように巡った。一睡も寝れなかった鼓太郎は翌日、霊安室で三沢と対面した時、冷たくなった三沢の手を握ろうとしたが、この現実を受け止めたくなかった。だから手を握れなかった。三沢の死に直視できない自分がいたのだ。

 

あれからかなりの時が経った。鼓太郎にとって三沢とは…。

 

「僕が持つ三沢さんのイメージは、優し過ぎるくらい優しい人というイメージです。僕にとって第二の親父って感じですね。(中略)僕は三沢さんの形見を何も持っていません。でも、この名前が唯一の形見です。僕はこの先もレスラーを続けていくけど、いつか引退の日が来るじゃないですか。そのとき、このリングネームをやめて本名に戻りますよね。そうしたら、三沢さんから唯一の形見がなくなってしまう…。(中略)(三沢イズムとは何か?)僕の答えは《ノーを言わないこと》です。人が助けてほしいと頼ってきたときに、決して断らないこと。これは三沢さんの姿を見ていて、僕が一番学んだことです」

【2009年6月13日からの三沢光晴 長谷川晶一/主婦の友社】

 

鼓太郎は決心する。ヒールファイトを捨て、三沢の志を継いでいくことを宣言する。三沢の得意技であるエルボーやタイガードライバーを自身の得意技にするようになった。自分が三沢の技を使うことで、三沢光晴という存在を世代や時代を越えて知られてほしい、思い出してほしいという願いを込めて…。

 

2009年7月のノアジュニアヘビー級タッグリーグ戦に金丸とのコンビで出場した鼓太郎は見事優勝。青木篤志&飯伏幸太との決勝戦ではエルボーのラッシュ、ローリングエルボーからのタイガードライバーという三沢ムーブで青木を撃破してみせた。試合後、鼓太郎はこんなコメントを残している。

 

「今回も(三沢さんは)『お疲れ、いい試合だったよ』といった言葉をかけてくれると思います」

 

三沢の魂は立場が変わっても間違いなく、鼓太郎の心の中に生き続けているのだ。

 

だが、鼓太郎には試練が続く。2009年12月23日、ムシキング・テリーとの試合中に左膝前十字靭帯断裂および内側側副靭帯を損傷し長期欠場に追い込まれ、金丸と保持するGHCジュニアヘビー級タッグ王座を返上した。 翌2010年8月に復帰すると、己の立ち位置を変えた。ヒールユニット「DIS OBEY」を離脱し、小川良成や潮崎豪と共闘することになった。ここから鼓太郎は師匠・三沢色の強いプロレスを展開していく。2010年12月5日・日本武道館大会で元・パートナーの金丸を三沢の死後から得意技にしてきたタイガードライバーで破り、悲願のGHCジュニアヘビー級王座を獲得する。鼓太郎は強豪相手に実に7度の防衛に成功している。

 

ノアは三沢の死後、ますます混迷し、荒波が続いていく。黒資金問題、団体内のゴタゴタ、一部選手のリストラ、興業のクオリティー低下、主要選手の離脱など…。いつの間にか団体としての求心力を低下し、プロレス界の盟主の座も、奇跡の復活を果たした新日本が奪還される事態。鼓太郎は次第に団体に残る意義を見出せなくなる。そして、2012年12月に鼓太郎は秋山準、潮崎豪、金丸義信、青木篤志と共にノアを退団する。

 

「NOAHを離れるときには、もちろん三沢さんのことが頭をよぎりました。でも、僕の中でどうしても許せないことが一つだけあった。理由は言うつもりはないです。三沢さんには申し訳ないですけれども…」

【2009年6月13日からの三沢光晴 長谷川晶一/主婦の友社】

 

ノアを離脱した5選手はかつて小橋や秋山が在籍していた「バーニング」を再結成し、2013年から全日本プロレスを主戦場にしていき、同年7月に全日本に入団する。青木とのコンビでアジアタッグ王座や世界ジュニアヘビー級王座を獲得していった。

だが全日本もオーナー企業がコロコロと変わり、混迷していく。内部分裂、観客動員数の減少などの負の連鎖が続く。2015年になると契約締結後に2度見直しが入ったことにより、全日本への不信感を高めた鼓太郎は2015年11月に全日本を離脱。鼓太郎はフリーランスとなった。

 

2016年、WRESTLE-1やゼロワン、インディー団体などさまざまな団体に転戦する鼓太郎は数々のタイトルを獲得していく。だが古巣・ノアに戻ることはなかった。鼓太郎と共にノアを離脱した潮崎は全日本離脱後にノアに出戻りしている。だが鼓太郎は潮崎に追随しなかった。フリーとして闘いながら鼓太郎はノアについて回顧する。

 

「(ノアは)小橋さんが病でリングに上がれなくなった時に、世代交代が上手くできなかったのが痛かったかもしれませんね。当時は最後まで四天王の先輩達に負担をかけてしまった。潮崎がもっと早く生まれてたらよかったな。デビューというより生誕ですけどね(笑)。まあそれは、たら・ればの話になりますけど」

【ゴング11号/アイビーレコード・徳間書店】

 

鼓太郎はレスラーとしてリングに上がる一方で上野でバー「JIN」を経営している。そのきっかけはここでも三沢だった。

 

「三沢さんは引退した選手の次の職場として居酒屋を開店しようとしてました。何かひとつでも三沢さんの夢を引き継ぐことができたら、という気持ちで始めたものです」

【ゴング11号/アイビーレコード・徳間書店】

 

フリーランスとして幾年もプロレス界をさまよう精密すぎるリズムを持つテクニシャン・鼓太郎に古巣から参戦オファーが届く。2018年9月1日・両国国技館で開催された丸藤正道デビュー20周年記念大会。鼓太郎はかつての先輩・丸藤からオファーを受け、実に5年9か月にノアに参戦する。ジュニア戦士による6人タッグマッチの試合後、大原はじめがマイクを握った。大原は鼓太郎が知らない新生ノアジュニアを支えてきた一人である

 

「鈴木さん、これで終わりじゃないですよね。ノアのジュニアに戻ってきてください。来週から始まるジュニアリーグに出てください」

 

鼓太郎はマイクで応戦する。ノア時代は苦手だったマイクはノア離脱後に、巧みになっていた。

 

「長い長い説明、ありがとうございます。でも、そんな丁寧な説明は俺にはいらないよ。俺を出していいのか? 俺を出したら優勝は絶対だぞ。お前らノアジュニア、ノアジュニアに関わっている全員に言っておく。今のノアジュニアは最弱だ!」

 

この発言を聞いた大原が激怒。味方も対戦相手も関係なく、全員を敵に回した鼓太郎は控室でも不敵に言い放つ。

 

「俺の名前を知らない人ばっかりだって言ってたけど、なに言ってんだって。お客さんの声を聞けよ。みんな俺の名前知ってんだろ? 俺がかつてノアジュニア最強だった時の一角を担った鈴木鼓太郎だよ。もう1回言ってやるよ。今のノアジュニア、全員含めてノアジュニア、お前ら最弱だ。俺が本当の強さを教えてやる」

 

こうして急転直下で鼓太郎はノアを再び主戦場にしていくことになる。秋の「GLOBAL Jr. LEAGUE 2018」優勝。その勢いで原田大輔が保持するGHCジュニアヘビー級王座を奪還。見事にノアジュニアを制圧してみせた。彼は今まさにノアジュニア最強の外敵として立ちはだかっている。ノア生え抜き第一号レスラーがノア選手の壁になるというのもなんとも皮肉だが、侵略者になることで鼓太郎は今のノアに三沢イズムを叩きこんでいるのかもしれない。

 

三沢光晴になりたかった男。

三沢光晴になれなかった男。

三沢光晴に愛された男。

三沢光晴の懐刀であり続けた男。

三沢光晴を最後の最後まで支えた男。

 

これらの形容はもしかしたらどんなタイトルを獲る、名勝負を残すことより鼓太郎にとって名誉だった。三沢が亡くなってから本当に苦労した。それでも彼はリングを離れなかった。

 

「レスラーを続ける理由も、また三沢さんと関連していて。そこには三沢光晴の遺志があります。僕は三沢さんから教わったプロレスを世に遺していきたい。本人は志半ばで46歳で亡くなられているので、47歳まで僕はレスラーを続けたい。そしたら『僕は47までやりましたよ』って報告できるかなと思うんですよ」

【ゴング11号/アイビーレコード・徳間書店】

 

鼓太郎はプロレス入りしてからこの三沢の「大丈夫だよ」という言葉に励まされ元気をもらってきた。そして三沢がこの世を去っても、どんな時でも、どんな決断を下しても、「大丈夫だよ」と後押しする三沢の声が聞こえている。今の目標は三沢が果たせなかった47歳までプロレスラーを続けること。その頃には今以上にプロレス界に黄金時代が到来していることを鼓太郎は祈っている。もしかしたらその頃には鼓太郎の精密すぎるリズムもより滑らかになって、より渋みと味わいの深いグルーブを奏でているのかもしれない…。