修羅を生きる者に息衝く緑の巨星〜「2009年6月13日からの三沢光晴」おすすめポイント10コ〜 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ26回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。

この企画は単行本「インディペンデント・ブルース」発売以降、色々と試行錯誤してましてブログ運営における新しい基軸となったと思っています。今後もさまざまなプロレス本を読んで知識をインプットしてから、プレゼンという形でアウトプットしていきます。よろしくお願いします!

前々回から伝説のプロレスラー・三沢光晴さんに関連する書籍を紹介しています。三沢さんのプロレスや言葉は私のプロレス観における基盤となっています。今こそ三沢さんのプロレスや言葉をお伝えしたいと思いこちらの企画を実行することにしました。

題して「三沢光晴三部作」!
今回が最後となる第三弾です!

ちなみにnoteで私の三沢さんへの思いを綴っております。もしよろしければ読んでいただければありがたいです。




さて、今回ご紹介するプロレス本はこちらです!




2009年6月13日からの三沢光晴/長谷川晶一【主婦の友社】


内容紹介

2009年6月13日に急逝した三沢光晴。あの日リング上で何が起きたのか? 7回忌の今だから語れるノンフィクション。

稀代の名レスラー・三沢光晴がリング上の事故で命を落とした2009年6月13日。当日、会場にいた選手、マスコミ、そして治療にあたった医師の証言から、あの日起こった出来事の真相に迫る。死因は即死とも思われる頸髄離断だったが、ICUでは一度心拍が再開していたという。広島大学病院の救命医があの日のICUでのことを初めて明かす。そして最後の対戦相手となった齋藤彰俊は事故から数カ月後、三沢が生前に残したメッセージを受け取っていた。「社長からのメッセージを受け取って、すべて受け止めて現役を続けるという自分の決断は間違っていないと思えました」という齋藤は「答えは自分で見つけろ」という三沢のメッセージを胸に今も歩み続けている。また、小橋建太、潮﨑豪、丸藤正道、鈴木鼓太郎、浅子覚、西永秀一ら深い関係を持つ人物たちにとって2009年6月13日からの三沢光晴はどう息づいているのか? 

内容(「BOOK」データベースより)

三沢光晴が最後に残したメッセージ「答えは自分で見つけろ」。あの日のこと、あの日からのこと…関係者20人の証言を元にした渾身のノンフィクション。

著者について

長谷川 晶一(はせがわ しょういち): 1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒業。出版社勤務を経て、2003年にノンフィクションライターに。12球団ファンクラブ評論家として各種メディアでも活躍。主な著書に、『プロ野球12球団ファンクラブ全部に10年間入会してみた!』(集英社)、『夏を赦す』(廣済堂出版)『マドンナジャパン 光のつかみ方 世界最強野球女子』(亜紀書房)、『私がアイドルだった頃』(草思社)、『不滅 元巨人軍マネージャー回顧録』(主婦の友社)、『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』(白夜書房)、『イチローのバットがなくなる日』(主婦の友新書)、『ダンス・ラブ☆グランプリ』(主婦の友社)、『ワールド・ベースボール・ガール』(主婦の友社)、『巨人の魂 ジャイアンツOBからの提言』(東京ニュース通信社)、『真っ直ぐ、前を――第二回女子野球ワールドカップ 日本代表の十日間』(河出書房新社)


 

 



2015年に主婦の友社さんから発売された「2009年6月13日からの三沢光晴」。こちらの三沢光晴三部作のトリを飾るのに相応しい作品です。


第一弾での「ドンマイ ドンマイッ!」は人間・三沢さんの魅力が詰まった本でした。


 

 

第二弾の「理想主義者」は三沢さんのプロレス論が分かりやすい文体と共にまとめられた本でした。  


 

 


そして最後となる第三弾では、関係者から見た三沢さん、リング渦で急逝された三沢さんを取り巻く環境やその後の人生について描かれたノンフィクションです。



実は以前、この本についてブログで簡潔なレビュー記事を書いたことがあるのですが、発売されてから5年経って、今こそきちんと書評がしたいなと思い「プロレス本おすすめポイント10コ」シリーズで取り上げることにしました。



さて、この本の著者はノンフィクションライターの長谷川晶一さん。プロレスよりはプロ野球に関する書籍を多く出されている方です。実はこの人の文章が好きなんです。元ヤクルトスワローズの伊藤智仁さんの本をなんて何度も読んでます。今でも読みます。個人的には近年の野球関連書籍の中でも最高作だなと思っています。


 

 


長谷川さんの書き方の特徴として、とにかく文章に映像が浮かぶことだと思っています。情景や風景、過去のVTRや取材、インタビューなどのあらゆる映像を読みながら想像できるのが長谷川さんの凄さだと思います。そして、「2009年6月13日からの三沢光晴」も同様です。


そしてこの本を読み進めていくと分かるのが、この本は長谷川さんが著者なのですが、もう一人の重要人物がいるのです。元週刊プロレス編集長で現在はライトハウスという編集プロダクションの佐久間一彦さん。   


なのでこの本をテレビ番組に例えるとテーマは三沢さんと三沢さんに関わった皆さんのその後、取材対象は三沢さんの関係者、プロデューサーやディレクターが長谷川さんで、ストーリテラーやナビゲーターが佐久間さんという感じかなと思いました。


なのでこの本を読まれる皆さんにはもしよろしければ、読みながら脳内に映像を浮かべながら進めてほしいなと思います。そこには自分自身のシアターに上質なノンフィクション作品が上映されているはずです。


今回はこの本のおすすめポイント10コを各章を順に追いながら書評と考察をさせていただきます。よろしくお願いします!ちなみに今回はネタバレはあるかと思います。申し訳ありませんが、ご了承ください。




    

  

1.序章 三沢光晴からの電話

この本は三沢さんが2009年6月12日深夜2時に、いつもお世話になっている福岡在住の真言宗僧侶の女性(三沢さんにとっては第二のお母さんのよう存在か)に電話している様子からスタートします。


三沢さんはその女性に2009年6月14日プロレスリングノア博多大会終了後に飲みにいきましょうと約束して電話を切ったという。


ただその約束は果たされることはなかった。三沢さんは2009年6月13日プロレスリングノア広島大会で試合中の事故に遭遇し急逝。翌日の博多大会は三沢さんの追悼大会となった。


三沢さんが滝に打たれているという話を以前聞いたことがあった。全日本プロレス社長に就任する頃には雑念を払うために滝に打たれたと。もちろんそれは誰も取材していない非公式の場で行われた。


三沢さんとその女性は長年、家族ぐるみで付き合いがありました。もちろん恋愛とかではなく。三沢さんは仕事やプライベートも含めて色々と相談していたそうです。そんなある時、三沢さんはその女性に「リングで死ねたら本望だよ」とつぶやいという。


日本プロレス界の盟主と呼ばれた稀代のスターレスラーがリング渦に巻き込まれるあの2009年6月13日の惨劇のプロローグはどこか読む側に「これからとんでもないことが起こる」というザワザワ感を残しながら書き綴られていました。





〜第一部 2009年6月13日の三沢光晴〜

2.第一章 午後三時、会場入り

三沢さんがリング渦に遭遇する9年6月13日。まずこの本は二部制に分かれて構成されています。まず第一部は三沢さんが亡くなった当日。第二部は三沢さんが亡くなって6年後の2015年が舞台となっています。



その日の朝から三沢さんがどのように過ごされたのかという様子が詳細に描かれています。そこにはいつも変わらない三沢さんの日常。漫画週刊誌を読み、ご当地の駅弁を食べる姿、とてもこの世を去る人の最後の風景とは思えません。団体が所有するバスで一路、広島に移動する三沢さんはゲームに夢中になっているようです。  


バスで移動中、この本では三沢さんの経歴が説明されています。初めて三沢さんを知る皆さんにも「三沢さんがいかに凄いレスラーなのか」を把握できます。


また三沢さんのプロレスを長年取材していたマスコミ勢が過ごした当日の様子も分かります。


そして午後3時に三沢さんは会場となる広島グリーンアリーナに入りました。


一言、臨場感がハンパありません!



3.第二章 午後八時四三分 バックドロップ

会場入りした三沢さんはスクワットとプッシュアップを行い準備しています。この日はサムライTVでの中継ということで、試合前に三沢さんはインタビューを受けています。そこにはいつもと変わらず淡々と語る三沢さんがいました。


そして偶然にもこの日会場には三沢さんの知り合いである2名の医師がいたことが判明します。また三沢さんが倒れた後に病院で対応した医師がこの日、どのように過ごしたのかまで記録されています。


本当に三沢さんと三沢さんに関わっている主要人物がそれぞれどのように2009年6月13日を過ごしていたのかが克明に描かれています。これはあらゆる関係者に詳細に取材をしていなければ、ここまで書けないです。



この日のメインイベントは齋藤彰俊選手&バイソン・スミス選手が保持するGHCタッグ王座に、グローバルタッグリーグ戦優勝チームの三沢さんと潮崎豪選手が挑戦するタイトルマッチです。


当時キャリア5年、27歳の潮崎選手がなぜ三沢さんと組むことになったのか。それは次代のエースとして潮崎選手を育成していくためでした。


そして試合が始まります。激闘が展開されていく中で三沢さんに異変はまだありません。


第一の異変が起こったのは終盤に齋藤選手とバイソン選手による合体技(雪崩式合体アイアンクロースラム)により、三沢さんを強く頭を打ちます。パートナーの潮崎選手は「三沢さん、大丈夫かな」と心配します。そこから2分後、齋藤選手がバックドロップを決めて、三沢さんが立ち上がるのをニュートラルコーナーで待ち構えていました。ニールキックかラリアットを放つ準備をしています。


だが、三沢さんはいつまでも立ち上がりません。すると突然、ゴングの鐘の音が鳴ります。試合は終了。動けなくなった三沢さんの姿を見たレフェリーがストップをかけたため、齋藤選手とバイソン選手が勝利します。


会場は騒然としています。何やら嫌な予感が充満しています。





4.第三章 午後一〇時一〇分 最後の瞬間…

齋藤選手が三沢さんに決めたバックドロップ。これが結果的には三沢さんの命を断つ攻撃となってしまいました。その瞬間をレフェリーやカメラマンはどう見ていたのがまずは描かれています。


当時リングサイドにいた当時週刊プロレスカメラマンの落合史生さんはバックドロップ直後に瞳孔が開いた三沢さんの姿を見て「レフェリー、だめだ!やばい状態だ!」と叫んだといいます。


横に向いた状態で微動だりしない三沢さんに西永秀一レフェリーが「動けるか?」と呼びかけます。すると三沢さんがなんと「ダメだ…止めろ…」と言ったそうです。三沢さんの死因と言われる頸髄離断は、即死に陥る症状なので、まず肉声を発したというのが医学的にはあり得ないとのことですが、西永レフェリーにはそう聞こえたというのです。


そこから動かない三沢さんに選手が次々とリングインして、駆け寄ります。浅子覚トレーナーも呼ばれ応急処置をします。そして三沢さんの知り合いである二人の医師が呼ばれます。


人工呼吸と心臓マッサージを繰り返す。どうやら心肺停止状態に陥っている三沢さん。蘇生させるためにAEDが装着されました。この時はまだわずかながら脈はあったそうです。三沢さんは担架に乗せられ、病院搬送されました。


「プロレスラー三沢、心肺停止か」という一報はプロレス情報サイトからの発信で全国に一気に広まった。


皆さん知っているかどうかはわかりませんが、私は三沢さんのファン。だからあの日の記憶が鮮明に蘇るのです。読みながら泣けてくるのです。やっぱり三沢さんはこんなところで死んではいけない人ですから。


病院に到着した三沢さんの心拍は再開します。だが数分後には心拍は停止。蘇生処置は行われるも、効果はありませんでした。意識もない、自発呼吸ができない。医師は蘇生中止を決断。 


2009年6月13日22時10分三沢光晴、永眠。

享年46歳。  

死因はこの時はまだ不明(後に頸髄離断と発表)。



5.第四章 翌朝七時、齋藤彰俊の決断

亡くなった三沢さんが搬送された病院には報道陣が大挙として集まっていました。ノアの選手達は宿泊先のホテルに戻っていました。だが、小橋建太さんと付き人の伊藤旭彦さん、ジョー樋口さんはタクシーで病院に向かっていました。彼らは遺族の許可を得て、三沢さんの遺体と対面しています。


「三沢さん、起きてください!」と何度も声をかけて静かにゆする小橋さん。三沢さんは動かない。小橋さんは三沢さんの手を握ると、そこには暖かさがない冷たいままでした…。


そして最後の相手となった齋藤彰俊選手、最後のパートナーとなった潮崎豪選手はどのように過ごしたのか…。


これは是非この本を読んで確認してください。


私は…泣きそうになりました。



6.第五章 それぞれの六月一四日

この章から登場するのが当時週刊プロレス編集長だった佐久間一彦さん。佐久間さんは三沢さんが亡くなった現場にはいませんでした。三沢さんが病院に搬送されたことを部下から聞いた佐久間さん。ここから彼の壮絶な日々が始まります。


まず次に発売される週刊プロレスは間違いなく三沢さん追悼号になる。問題は三沢さんに致命傷を与えたバックドロップの写真を使うかどうか。慎重な判断が迫られるなかで、佐久間さんは齋藤選手がバックドロップを決めた際に胴に回していた手のクラッチを投げる段階で外していたことに気がつきます。クラッチを外せば、相手はきちんと受け身が取れるからです。佐久間さんは投げた齋藤選手はきちんとプロとしてバックドロップを仕掛け、投げられた三沢さんもきちんと受け身を取っていたことを最終的な判断理由となり、バックドロップの写真を掲載することにしました。


そして表紙はエルボーの場面の三沢さん。「勇姿を胸に焼きつけろ」というキャッチコピーが踊ります。そこにはスキャンダルな事件なはずなのに、プロレス、プロレスラーへのリスペクト、三沢さん、齋藤選手、ノアへの最大限の配慮がありました。短い時間でこのような決断をした佐久間さんは本当に凄いなと感じました。これは佐久間さんにしかできない判断だと思います。三沢さんの死をクラスマガジンでどのように伝えるのか。編集長が違う人ならば、雑誌が売れるためにもっとスキャンダラスにして、センセーショナルな誌面にすることもできたかもしれない。安定的な高いクオリティーもさることながら、売れなければいけないのが雑誌の宿命。だがその「売れやすい」最高の題材があるにも関わらず、その誘惑に負けない誌面作りをした佐久間さん。私は男だなと思います。最大限のリスペクトを贈りますよ。編集長として、人として、プロレスマスコミとして、きちんと英断を下したと。


また週刊プロレスでは三沢さんの告別式も遺族や団体への配慮から取材はしませんでした。


この二つの決断がその後の佐久間さんの人生を大きく変えました。   


他にも関係者が2009年6月14日以降どう過ごしてきたのかが描かれています。これは読んで確認してください。






〜第二部 2009年6月13日からの三沢光晴〜

7.第六章 二〇一五年、春 あれから六年&第七章 レスラーたちの「それから」

第二部に突入していくこの本、いきなり佐久間さんが上司にどやされるシーンが描かれています。どうやら週刊プロレスの発行元であるベースボールマガジン社で三沢さんの写真集を発売することになり、写真の選定を急かされていたのです。


佐久間さんには写真だけではなく、多角的に三沢さんの魅力が伝わる一冊にしたいと「三沢さんの名言」などを含めたクオリティーの高いものにしようと考え、週刊プロレスの編集作業と並行して製作していました。


だが、その上司のある一言によって佐久間自身に異変が起こります。要は緊張の糸が切れてしまったのです。やってられないという…。佐久間さんは三沢さんの急逝から一年後の2010年に週刊プロレス編集長を辞任、ベースボールマガジン社を退職しました。そこからスポーツ系の総合制作会社に入った佐久間さんは2012年からCS放送日テレジータスのノア中継の解説者となりました。


そんなある日に佐久間さんは「三沢さんの書籍を作ってみないか」という依頼が来ます。つまりこの本のことです。悩んだ佐久間さんは依頼を受けることにしました。


関係者への取材をすることで、佐久間さんは三沢さんを追い求める旅に出ることにしたのです。


私が佐久間さんはこの本のストーリーテラーと表現したのはこのようないきさつがあったからです。ここから取材対象と佐久間さんのやり取りが中心に描かれています。


まずは三沢さんを長年取材していたマスコミ関係者から取材にあたる佐久間さん。ここで分かるのは、皆がそれぞれ三沢さんの事故に向き合い、苦しくても辛くても生き抜いているということでした。それは取材する佐久間さんもそうです。     


第六章ではマスコミ関係者、第七章ではレスラーやスタッフの皆さんに佐久間さんは取材しています。


ちょうどこの本の取材していた頃は森嶋猛さんが引退を発表していた時期だったようです。三沢さんがリングで倒れて病院に倒れた時に会場のお客さんに「三沢社長の容態は分かりませんが、選手一同で無事を祈っています。また必ず広島にやってきます」と気丈に挨拶してその場を締めたのが当時選手会長の森嶋さんでした。 


個人的には丸藤正道選手と鈴木鼓太郎選手の回が印象に残りました。 


この本の登場人物は皆、三沢さんを失ったという共通の傷を抱えて人生という修羅を生きているのです。



8.第八章 三沢光晴からの伝言

この本も終盤になっていきます。佐久間さんはここで二人の人物に取材することになります。どちらも余りにも重い内容であることは分かりきっていました。

 

一人目は元週刊プロレスカメラマン・落合史生さん。実は落合さんは三沢さんの友達でした。だからあの日、三沢さんの事故にカメラマンとしてたちあってしまったことが彼の人生を大きく変えました。三沢さんが亡くなってから、ひとりになるとずっと泣いていました。やがてカメラマンとして生きていくことに迷いも出てきます。そんなある日、東日本大震災で助けたくても助けられなかった人々の無念をボランティアとして参加したときに遭遇します。すると落合さんの脳裏には三沢さんのことがよぎりました。しかも彼らは実の家族を亡くしている。ならば自分が彼らに何かできることはないのかと考えた落合さんはカメラマンを辞めて仙台に移住し、幼稚園で働くことになりました。これは本には書かれていませんが、現在はまたフリーのカメラマンとして活動を再開しているとのことでした。


落合さんの告白はかなり効きましたね。なんて言いますか…。心象描写がきちんと丁寧に書かれているので、三沢さんの死に対する落合さんの落ち込み具合が心の底から伝わってきました。「あの現場には俺はいない方がよかった」と振り返る落合さんはそれでも「三沢さんと友達になれてよかった」と語る落合さんが印象的でした。



そして、最後の対戦相手となった齋藤彰俊選手の告白は涙なくしては読めません。思えばパートナーのバイソン・スミス選手も2011年に急逝しています。あの試合について語れるレスラーサイドの当事者は齋藤選手と潮崎選手しかいません。



実は責任を重く感じて当初は自死することさえも考えたという齋藤選手は三沢さんの死からずっと逃げずに生き続けてきました。批判も誹謗中傷も含めて、その矢を全部に自分に向けてくれと言わんばかりに…。まるで武蔵坊弁慶のように…。


そして三沢さんの死後一ヶ月ほど立ったある日のこと。齋藤選手の元に、三沢さんの友人から「もしも自分に何かあったときには、このメッセージを対戦相手に託してほしい」という伝言を託されたそうです。そこには三沢さんの対戦相手への配慮が綴られていました。


「本来ならばこんなことはあってはいけないし、自分はそうなりたくないけど…」

「オレにもしものことがあっても、オレはお前を恨まない。そして、お前は絶対にリングに上がり続けてほしい」


齋藤選手はその伝言が書かれて紙をずっと大切に持ち歩いているそうです。


そして佐久間さんが掲載したあのバックドロップの写真について齋藤選手の感想が綴られています。


これはもうヤバいです。とにかく感動します。


そしてこの章の最後にはこう綴られています。  

    


「三沢光晴が自らの命を賭けて伝えたかったこと。その答えを探すために、誰もが日々を生きている」



9.終章 オレのマブダチ

最後となるこの章ではプライベートで三沢さんと仲良かった友達とのエピソードが綴られています。思えば三沢さんは人脈も広く、しかもありとあらゆる職種のみなさんと仲がよかった。風俗嬢の人生相談にも飲みの席で聞いていたということを聞いたことがあります。


友達がつぶやく「もし三沢さんが生きてくれたら…」は、三沢さんに出逢った多くの皆さんが共通して陥った悩みであり、悲しみです。


だが、三沢さんとの関わりや言葉が、友達も含めて多くの皆さんを支えていることも確かなのです。






10 .あとがき

ここからようやく著者である長谷川さんの語りが始まります。個人的には編集後記みたいなものだなと感じました。実は長谷川さんも三沢さんと繋がりがあったことが判明します。あの長谷川博一さんが書かれた「チャンピオン 三沢光晴外伝」の編集に関わったことがあり、たまに飲みにいったこともあったそうです。


三沢さんから「友達」と言われた時、長谷川さんはえらく感激したそうです。


だからこそ長谷川さんはすべての原稿を書き終えてこう感じたのです。


「三沢光晴はまだ生きている…」




三沢さんはプロレス界に現れた緑の巨星。三沢さんに関わったすべての皆さんは、三沢さんが亡くなってから、それぞれの修羅を生きています。


そして皆さんが「もしも三沢さんなら…」と考えながら日々を生きています。


そして三沢さんに関わったすべての皆さんの心の中には三沢さんが息衝いているのです。心の中にいる三沢さんに問いかけながら終わりなき答え探しをしているのかもしれません。


それこそは三沢さんという偉大なるプロレスラーの最大の功績なのだと思います。そう、三沢さんは伝説ではなく、生きながらずっと語り継がれる神話を作ったのです。緑の虎は死して神話を遺す…ということです。

   

 


本当に素晴らしい本でした。皆さんの脳内にあるであろうシアタールームで渾身のプロレス・ノンフィクションを上映されてみてはいかがでしょうか?