ほろ苦い人生でも夢と希望はある~「HIGH LIFE 棚橋弘至自伝 Ⅰ」おすすめポイント10コ | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ42回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。

 
 
さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。





内容紹介

「チャンピオンになってからが、本当の向かい風でした」

新日本プロレスのエース棚橋弘至、初の自伝。

チャラい、軽い、新日本らしくない、とブーイングされ続けた男が、
IWGPヘビーという「険しい山」の頂点に登りつめるまで。

幼少期からデビュー前の貴重な写真も掲載。

著者 棚橋弘至

1976年、岐阜県大垣市生まれ。立命館大学法学部卒業。大学時代はアマチュアレスリング、ウエイトトレーニングに励み、1999年、新日本プロレスに入門。同年10月10日、真壁伸也(現・刀義)戦でデビュー。2003年には初代U-30無差別級王者となり、その後11度の防衛に成功。2006年7月17日、IWGPヘビー級王座決定トーナメントを制して同タイトルを初戴冠、第45代王座に輝く。日本人離れした肉体で、団体最高峰のベルト、IWGPヘビー級王座に何度も君臨。第56代IWGPヘビー級王者時代には当時の連続最多防衛記録である“V11”を達成した。『G1 CLIMAX』3度制覇(07年、15年、18年)。『NEW JAPAN CUP』2度制覇(05年、08年)。プロレス大賞MVPは09年、11年、14年、18年と4度受賞。得意技はハイフライフロー、テキサスクローバーホールド、スリングブレイド、ドラゴン・スープレックスなど。キャッチコピーは「100年に一人の逸材」「エース」。


2021年にイースト・プレスさんより発売になりました新日本プロレスの棚橋弘至選手の最新作「HIGH LIFE 棚橋弘至自伝Ⅰ」をご紹介します。

若くしてモテ期を迎えた幼少期からプロレスへの目覚め、学生プロレス時代から憧れの新日本プロレス入門とデビュー、IWGP U-30のベルトを懸けた20代の青春、中邑真輔とのライバルストーリー、紆余曲折の末の悲願IWGPヘビー戴冠、それでも「新日本プロレスらしくない」とブーイングを受け続けた初期チャンピオン時代、付き人も務めた憧れの武藤敬司との「人生を懸けた大一番」までーー

華々しさの影にある険しい道のりを、368ぺ時のフルボリュームで余すことなく記しています。

棚橋選手の書籍はこれまで三冊、レビュー企画で紹介させていただきました。





今回は棚橋選手の自伝です。幼少期から2009年1月4日東京ドーム大会での武藤敬司とのIWGP戦までの人生を振り返った一冊です。こちらの本はインタビュー本の形式を取っており、聞き手とのやり取りで構成されています。

棚橋選手といえば、プロレス界のエースでありながら、文章においてもプロレス界のエース級のご活躍をされています。彼にとって文章というのもプロレスを全力プロモーションするためのツールのひとつです。

この本、かなり面白いです!、今回は、この本に記された棚橋選手の言葉を取り上げながら、プレゼンします!棚橋選手といえばコメントや文章においても数々のパンチラインを残す名言製造機です。その言葉の世界、一部ご紹介します。よろしくお願いいたします!

★1.「僕のレスラー人生は『愛してます』以前と以後に分けられるように思います」

これは「はじめに」と題した前書きで、棚橋選手が記した一文。確かにそうかもしれませんね。棚橋選手って覚醒したり大爆発したのは、「愛してます!」「100年に1人の逸材」が浸透してきた頃ですからね。そう考えると「愛してます」以前と「愛してます」以後というのは納得です。ちなみにこの「棚橋弘至自伝Ⅰ」は「愛してます」以前の棚橋選手の物語です。


★2.「俺は一時期、アルティメット・ウォリアー(元WWE王者)がモチーフで、キャッチフレーズは"超合金"でしたし、顔にペイントをしてヒラヒラのついたコスチュームを着てました。本家さながらに技はディンゴ・ボンバー(ラリアット)とフライング・ボディプレスくらいしかなかったですけど(笑)」

これは第1章「野球少年から学生プロレスへ」で印象に残った棚橋選手のコメント。立命館大学に進学した棚橋選手はプロレス同好会に入って、なんとアルティメット・ウォリアーのオマージュキャラクターをしていたそうです!棚橋選手とウォリアー…レスラーとしてはかなりタイプは違いますよね。ただ二人とも太陽のような明るさを誇るレスラーではあります。

棚橋選手は全日本プロレスのバイトでアルティメット・ウォリアーのTシャツを着ていたというエピソードがあるので、棚橋選手の原点はあの"超合金戦士"にあったのかもしれません!

★3.「『バカヤロー、泣くのは俺だろ!なんでオメーがウルってきてるんだ』って真壁さんに怒られた気はします(苦笑)」

第3章「ヤングライオン時代」より。1999年に新日本プロレスに入門し、念願のプロレスラーとなった棚橋選手。この話は、棚橋選手の先輩である1996年入門組である真壁刀義(当時は伸也)選手と藤田和之選手。藤田選手はレスリング全日本王者でエリート扱い、一方の真壁選手は学生プロレス出身で雑草。だがこの二人は互いに認め合うほど仲がよかった戦友でした。

そんな二人に別れの時が来ます。2000年1月、藤田選手が新日本を退団。新天地として総合格闘技PRIDEを選んだのです。真壁選手は藤田選手と寮で「また、いつか会おう」と誓い合っていたら、近くで観ていた棚橋選手が号泣してしまったそうです。実は結構有名なエピソード。この件について棚橋選手自身が言及しているんです。やはりこのエピソードは本当だったそうです。ちなみに藤田選手はかなりの情報通で、棚橋選手の学生プロレス時代のリングネームも知っていたと言われています。

その藤田選手がその後、新日本を脅かす外敵として登場するのです。

★4.「これはたいへん、いわくつきのチームですよ(笑)。結成の経緯は、(佐々木)健介さんが音頭を取ったかたちですけど、もともと俺とKENSOさんとブルー・ウルフは仲がよかったので(中略)これは書いちゃっていいですけど、のちに健介さんが新日本を辞めていくときに、一緒に引っ張っていく人間を囲っておきたかったという話で」

第4章「U-30は俺の青春」より。2002年6月に佐々木健介さんは棚橋選手、KENSO選手、ブルー・ウルフさんと共に「SWING-LOWS」というユニットを結成しているのですが、その真意を棚橋選手がカミングアウト。もしかしたら棚橋選手がある伝説のズンドコ団体・WJプロレスに移籍していた可能性があったわけですねー

これは「プロレス地獄変」でも記されていないであろう新事実です!

★5.「俺、小川選手には辛辣ですよ。それは橋本真也VS小川直也、あの試合が許せないからです」

第6章「新闘魂三銃士」より。棚橋選手にしてはかなり激しく怒っているコメント。2004年11月13日大阪ドーム大会で棚橋選手は中邑真輔選手とのシングル初対決が決まっていましたが、当時オーナーであるアントニオ猪木が強権発動をして、棚橋VS中邑は流れてしまい、棚橋選手は天山広吉選手と組んで、当時賛否両論を呼んでいた"ファイティング・オペラ"ハッスルの小川直也&川田利明のタッグマッチに変更されます。棚橋選手はフラストレーションを抱えながらもなんとか試合はしたものの、やはり小川選手への怒りがこみ上げてきます。

「小川選手は自分だけ目立てればいいように見えたし。エースやスターの役目というのは、まわりのプロレスに関わる人たちを引っ張り上げることですから」

プロレスはひとりではできない。
独りよがりで手柄を一人占めしようするその姿勢が許せない。

内心は腹が立っていることは予測できましたが、棚橋選手がここまで小川選手に怒りのコメントを残すことは予想していませんでした。よほど腹が立っていたのかもしれませんね。


★6.「トイレのドアを蹴ったりしたらしいてすね。試合で納得いかなかったのかもしれないですけど、いまとなっては自分が未熟だったということですね」

第9章「俺が新日本を引っ張ります」より。2006年2月19日両国国技館大会で、高き壁として立ちはだかっていた永田裕志選手にシングル初勝利を果たした棚橋選手でしたが、試合の主導権は永田選手が握ったもので、内容に納得がいかなかった棚橋選手は試合後控室で荒れたそうです。その時の回想。今はあの時、自分に悔しい思いをさせてくれて、潰してくれた永田選手に感謝しているそうです。永田選手に立ち向かうために棚橋選手はキックさばきや足への一点集中攻撃という切り口を見つけるのです。

★7.「いまでも覚えているのが、会場は満員にはならなかったんですけど、勝った瞬間にファンの方がリングサイドの鉄柵まで駆け寄ってくれて。そうやって祝福してもらったときに『喜んでもらえるんだ!俺も喜んでいいの?』っていうくらいの驚きがあったんですよね」

第10章「愛してます!」より。20代後半の棚橋選手。これからプロレスラーとしてスターダムに駆け上がっていきたいのですが、新日本そのものが光の見えない暗黒時代に突入。一度は不渡りを起こすほどの経営難、観客動員数の減少、試合内容のクオリティー低下…。うまくいかないときはとことんうまくいきません。レスラーの控室の空気も暗かったようです。

2006年7月17日月寒グリーンドーム大会で棚橋選手はブロック・レスナーが保持するIWGPヘビー級王座に挑戦する予定でしたが、なんと王者レスナーが"契約上のトラブル"を理由にドタキャン。棚橋選手は試合数日前に「ファンの方々に申し訳ない。土下座したい気持ちです」と謝罪しました。

そして月寒グリーンドーム大会でIWGPヘビー級王座決定トーナメントが開催されて棚橋選手が新王者となります。するとファンが喜んでくれでくれている光景を見て、棚橋選手は救われたのです。

「失望していないファンがたくさんいる。まだ期待してくれているんだ!」

月寒でのIWGP初戴冠に喜ぶファンの光景を棚橋選手は一生忘れないのです。

★8.「ブーイングをされているチャンピオンが団体を引っ張っていくっていうのがイメージできない時期だったんじゃないですかね。控え室で俺には駄礼もあんまり接して来なかったというか、腫れ物に触るじゃないですけど『アイツとはヘンに関わらないほうがいいよ』という空気感だったと思いますね」

第11章「G1初制覇」より。悲願のIWGP王者になったものの、新日本らしくないファイトスタイルや強さを感じにくいプロレスからベビーフェースでありながらヒールのようにブーイングを浴びるようになった棚橋選手。その頃の回想。棚橋選手、孤立していたんですね…。

それでも彼は信念を貫いたことによって、今日の地位を築いたのです。

★9.「その頃はキザでいけすかないレスラーの試合をいろいろと観てましたね。WWF時代のリック・マーテルとか、ザ・ロッカーズを解散してからシングルプレーヤーになったばかりのショーン・マイケルズとか。キザっていうのは意識していました」

第12章「ブーイングもっとください」より。ベビーフェースなのにブーイングを浴びていた当初は戸惑っていた棚橋選手ですが、数々の経験を積み、ブーイングでも声援でも自分仕掛けで反応を勝ち取ることに手応えを感じていました。そこでナルシストに目覚めるのです。ここでポイントなのが棚橋選手は自身のオリジナリティーを形成する際に、味付けとして1990年代のアメリカンプロレスをヒントにしているということです。

リッキー・スティムボート、ティト・サンタナ、ショーン・マイケルズ、リック・マーテル…。

どの選手も体格には恵まれていませんが、怪物王国アメリカンプロレスにおいてなくてはならない存在となった技巧派です。

彼らのきめ細かいプロレスが棚橋選手のプロレス形成に役立ったのです。

棚橋選手が「新日本らしくない」と言われる所以、それはアメリカンプロレスのエッセンスを持ち込んでいることが大きな要因のひとつかもしれません。

★10.「プロレスは勝って終わり、負けて終わりじゃなくて、ベルトっていうタスキを受け取って自分の区間を全力で走るからこそ、次にまたタスキが渡ったときに、さらに加速していく」


第13章「武藤敬司を越えた日」より。2009年1月4日に憧れのレスラー武藤敬司選手を破り、3度目のIWGP王者となった棚橋選手が残したこの本では一番多くの皆さんに届いてほしい名言。これ武藤選手の名言である「プロレスはゴールのないマラソン」へのリスペクトがこもったサンプリングなんですよね。

このコメントから要約すると「プロレスは終わることがない駅伝」なのでしょうね。タスキという表現がかなり的確に表現していて、このタスキというのはベルトだけではなく、イズムとかスピリッツとか伝統とか遺産とかさまざまな形における次の時代にも継承していく諸々を指していると思います。

棚橋選手は本当に言葉選びがインテリジェンスなんですよ!その魅力がこの発信に出ていると思います。






実は最近、このような記事を読みました。棚橋選手が人々が抱えるさまざま悩みに対してアドバイスする記事。この記事では元々ダンサーだった女性がコロナ禍で失職して、風俗店で働くことになり、この生活がいつまで続くのかと嘆き苦しんでいる悩みに棚橋選手は次のように答えている。

「なんとも、おつらい気持ちが文面から伝わってきました。心中お察しします。コロナがとてもとても憎いですね。僕も同じ気持ちです。コロナがなかった世界を思い描いては、ため息をつくことも、しばしばあります」
さぞ、悔しく辛い現状だと思いますが、僕が全肯定します。もちろん、今の状態を後ろめたく思う気持ちを、これからもふとした瞬間に思い出して、落ち込むこともあると思います。それでも、僕は『生きるため』という理由をぶん回し、後悔はしないでほしいと思います」
自分の夢と現状を天秤てんびんにかけたら、夢が勝つからです。どんなことがあっても、常に夢を思い描いて生きていきましょう。そこには、必ず希望があります。僕は、神様はいると思っていますし、ちゃんと見てくれているとも思っています」


そして最後に棚橋選手はこのような締めくくりをしています。

「見てくださいよ。僕の人生、かなりほろ苦いですから」

棚橋選手のレスラー人生、確かに波瀾万丈でほろ苦いものがあります。しかし、棚橋選手はどんなに苦しくても、どんなに腐る状況になっても夢や希望を見失うことなく生きてきました。

それこそ棚橋選手の多くの皆さんに届いてほしい凄い生き方ではないでしょうか。


皆さん、この本はおすすめです!プロレスファンはかなり興味深く読めると思います。また棚橋選手のファンも。あと最近プロレスファンになった皆さんにも。