恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回は52回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。
★1.歴史の座標軸は私、流智美
この本はいきなり読者にまるでゴング前の奇襲のような先制攻撃を仕掛けた。まえがきの冒頭で流さんはこのように綴っている。
「これは新日本プロレス初期の歴史本には違いないのだが、歴史の『座標軸』はあくまでも私、流智美である」
これ、堂々と基本的には主観で書きますよということなんですよ(笑)いきなり清々しい宣言だなと思い、痛快でした。
堀江ガンツさんの『闘魂と王道』が割りとフラットに昭和の新日本と全日本の歴史を伝えたのに対して、流さんは新日本の歴史も伝えつつも、自身の歴史も織り交ぜて綴ったのが、この本なのです。
プロレスは千差万別、多種多様。
そしてプロレス本もまた、千差万別、多種多様なんですよ。
★2.猪木、日本プロレスを除名!その時、流さんは…。
1971年12月、当時日本プロレスに所属していたアントニオ猪木さんが団体乗っ取りの疑いで除名された「猪木、日プロ除名事件」。
流さんは当時中学2年生の14歳。リアルタイムで体感した「猪木、日プロ除名事件」についての想いを赤裸々に書かれている。流さんと同じクラスで仲がよかった磯山君が登場。この時点で宣言通り新日本の歴史を伝えながら、流さんの歴史まで伝えているわけです。要は流さんと同じ時代に生きた皆さんにはダイレクトに共感するエピソードの数々です。
熱い、とにかく自らの想いをどんどん炸裂させています。まるで星野勘太郎さんが得意にしているヘッドロックしながらのパンチ連発といった感じですね。
小気味いいんです!
★3.「無名の外国人レスラー」タイガー・ジェット・シン襲来!その時、流さんは…。
1973年、旗揚げから一年を迎えた猪木さん率いる新日本プロレスに、「無名の外国人レスラー」タイガー・ジェット・シンが来日。このシンが猪木さんのライバルとなり、極悪非道のヒールレスラーとして大ブレイクを果たしたことにより、新日本は加速していきます。
その時、流さんは茨城県立水戸第一高校(水戸一高)に進学し、ゴルフの打ちっぱなしでボールを拾うアルバイトをしていたそうです。ちなみに流青年は高校時代に相当勉学に励んだそうです。水戸一高は、当時茨城県有数の進学校で、茨城県内の東大合格者数で一番。高校卒業したら、東京の大学に進学することを夢見ていました。その理由は、「新日本プロレス、全日本プロレス、国際プロレスの興行をできる限り生観戦したい」というもので、これは多くのプロレスファンで東京の大学を目指した皆さんは共感するところだと思います。
★4.ストロングスタイルの語源
新日本プロレスの代名詞ともいえるストロングスタイル。この言葉がテレビや活字媒体で使われるようになったのは1973年春からだったと流さんはこの本で綴っています。
このストロングスタイルの語源について流さんは徹底的に調べたところ、ひとつの結論にたどり着きました。
その答えは…この本を読んで確認してください!
★5.アントニオ猪木VSストロング小林
流さん曰く「アントニオ猪木のレスラー人生の中で、精神的、肉体的に最もピークだった一年は文句なしで1974年」だそうです。しかも好きとか関係なく公平に判断したということ。
1974年といえば、「昭和の巌流島」と形容されたアントニオ猪木VSストロング小林が開催された年ですね。
1974年3月19日に蔵前国技館で行われた日本人頂上決戦。新日本のエースと元・国際プロレスのエースによるトップ対決はプロレス史に残る名勝負となりました。
猪木VS小林を描きながらも流さんは自身の学生生活についても振り返っています。英語が得意だった流さんは、英語に試験の配点の半分ほど比重を占めている一橋大学を目指すようになります。
ちなみに学生時代の流さんは受験の関係のない授業のときは「ワールドリーグ戦」「ヤングライオン杯」の予想星取表を作成したり、当時のレスラーを勝手にランキングする「世界プロレス・レーディングス」を作成したりと、プロレス者の道を邁進するのでありました。
★6.1976年のアントニオ猪木と流智美
1976年、猪木さんはオリンピック柔道金メダリストのウィリエム・ルスカ、プロボクシング世界ヘビー級王者のモハメド・アリとの異種格闘技戦を実現させ、猪木さんはプロレス界を越えたスーパースターへと駆け上っていきます。
その一方でプロレス評論家界のスーパースターである流さんは見事、受験に合格し、一橋大学経済学部に入学することになりました。やったね、流さん!
ここで登場するのが、高校時代の同級生で学校一の美女・井野さん。この流さんの井野さんのやり取りがなかなか淡い青春なんですよ!これは胸キュンしているオールドファンも多いかも(笑)
★7.アントニオ猪木VSボブ・ループ
1979年1月12日川崎市体育館で行われたアントニオ猪木VSボブ・ループのNWFヘビー級選手権試合。実はこの試合、猪木さんが最も劣勢だったNWF戦と言われています。
ボブ・ループはメキシコオリンピックレスリングアメリカ代表で、ガチンコにめっぽう強い実力派レスラー。近年、彼が道場破りに来た素人を試合前のリング上でコテンパンに懲らしめた動画が拡散されたことがありました。
この試合についての流さんの見解は必見です!
★8.新日本プロレス黄金期、到来!
1980年代前半は新日本の黄金期。わかりやすく言うと初代タイガーマスクが活動していた1981〜1983年までは確実に全盛期だったと思います。エースである猪木さんがいなくても、あの頃の新日本には長州力さん、藤波辰巳さん、初代タイガーマスク、豪華外国人レスラーなどスターが勢ぞろいしていました。
その一方で流さんは大学在学中に、プロレス評論家・田鶴浜弘さんに弟子入り、国際プロレスのお仕事(外国人通訳、空港出迎えのお手伝い)もスタートさせ、大学卒業後には日本郵船に入社して社会人生活と並行させながら、プロレス雑誌での執筆もスタート。二足のわらじを履きながら、活動されていました。
新日本の黄金期と共に流さんの勤務状況が分かる項目が中盤の目玉!!
この本はまるで弘兼憲史さんの『島耕作』シリーズのようですね!
★9.独特なあとがき
あとがきは、いきなり流さんは「睡眠時、よく夢に出てくる光景、動作のパターン」について綴っています。一見、関係のない話題なのですが、読み進めるとプロレスがきちんと絡んだお題でした(笑)。
そしてこのあとがきで流さんのこの本の執筆をオファーしたと思われるのが元『週刊プロレス』編集長・本多誠さんであることが判明。本多さんは近年、好評だったベースボール・マガジン社のプロレスムックシリーズ『日本プロレス事件史』を手掛けた方です。
本多さん、いいんですよ。編集者としてのバランス感覚に優れていて、読者のツボをよく心得ている印象があります!今回もいい仕事、されています!!
★10.これは流智美さんの視点で描いた「闘魂公記」!
この本は昭和の新日本の歴史と共に流智美さんの余談、雑談、私論が存分に爆発している内容です。例えば高校時代の同級生・江原くんが小学校教員を退職してから、お洒落なカフェをオープンさせ、店のPRを堂々と著書で展開。江原くんの娘さん手製のパウンドケーキやチーズケーキが絶品という素敵な情報が読めたり、関西支社時代やアメリカ時代、タイ時代の思い出が語られています。
このような余談や雑談、私論を展開しているプロレス本って少なく、これは流さんにしか成立しないと思います。
ではなぜ流さんの場合は成立したのか。
それは流さんの人生が常にプロレスと共にあったからです。学生時代、社会人時代についての記述の場合でも、そこには何かしらプロレスの事柄に結びつけて流さんは綴っています。しかもその内容が読み物として面白い。昭和新日本の歴史も時系列で伝えている。だからプロレス本として成立していると思います。
とにかく主観も多く、まさしく『週刊プロレス』イズムが充満した作品です!ターザン山本さん時代の『週刊プロレス』にハマった皆さんにはおすすめです!
この本は流さんが新日本という巨大な惑星を天体観測をするように望遠鏡で覗き、その動きやじったいをまとめて単行本として描いた「闘魂公記」なのです!!
猪木さんはプロレス界の織田信長だと思います。「天下布武」「天上天下唯我独尊」「第六天魔王」といった言葉に20世紀で最も似合う生き方をしていたのは間違いなく猪木さんです!
そして流さんは、プロレス界の太田牛一(織田信長の一代記『信長公記』の著者で、信長の旧臣だった)なのです。太田牛一は信長の内側にいて一代記を描きました。流さんは新日本や猪木さんを外側から見つめて、そこに自身の雑談、余談、試論を交えていきながら描いていったように思います。
プロレスファン、特にオールドファンは共感しまくりのプロレス本です!おすすめします!
是非チェックのほどよろしくお願いいたします!