無人島にいたふたり〜『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりましたー。』おすすめポイント10コ〜 | ジャスト日本のプロレス考察日誌

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恒例企画「プロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コ」シリーズ。今回が64回目です。このシリーズはライターの池田園子さんが以前、「旅とプロレス 小倉でしてきた活動10コ」という記事を書かれていまして、池田さんがこの記事の書き方の参考にしたのがはあちゅうさんの「旅で私がした10のことシリーズ」という記事。つまり、このシリーズはサンプリングのサンプリング。私がおすすめプロレス本を読んで感じたおすすめポイント10コをご紹介したいと思います。


さて今回、皆さんにご紹介するプロレス本はこちらです。



商品説明
本書は単なる自伝ではない。三沢光晴というフィルターを通して、プロレスとは何かという大命題に対する答を導く「真」ノンフィクション。

プロレスリング・ノア旗揚げの夜、初めて剝き出しの三沢の感情が、そして全存在が明らかになる。全日本プロレス社長をやめ、ノアを旗揚げするまでの苦悩と葛藤の日々を語る。

著者
中田 潤(なかだ じゅん)
1959年岡山県生まれ。立教大学卒業。『平凡パンチ』記者を経て、フリーライターに。少年時代から、阪神タイガースと夢路いとし・喜味こいしの熱烈ふぁん。プロ野球、競馬、格闘技などをテーマに『ナンバー』、『月刊現代』などで執筆活動を続けている。主な著書に『新庄くんは、アホじゃない!』、『男、清原どこへ行く』、『競馬怪人』『NO MONEY BALL 野球愛を叫べ!!』などがある。



今回は2000年にBABジャパンさんから発売されました中田潤さんの『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりましたー。』を紹介させていただきます。

この本は1997年〜2000年までのプロレスラー・三沢光晴さんを追ったフリーライターの中田潤さんによるノンフィクション本です。

全日本プロレスのエースから、ジャイアント馬場さん死去後に全日本プロレス社長就任、オーナーサイドとの対立により団体を離脱、プロレスリング・ノアを旗揚げするまでの激動の3年間。

三沢さんの独白と中田さんの視点が加わったこれぞ「プロレス・ノンフィクション」という作品です。

中田潤さんは個人的に作風が好きなライターさんです。以前『Number』で中田さんが書いた元プロボクサーのグレート金山さんのノンフィクションを読んでことがあって、ものすごく入り込んで読むことができて、読者に没入感をもたらしてくれる文章だったんです。しかも中田さんのフィルターを通すと、取材対象の素顔や本音がより浮き彫りになるのです。金山さんは日本タイトルマッチに敗れた後に倒れて亡くなってしまいます。そこのショッキングな結末もどこまでもドラマチックでありながら、どんより漂う現実を描くのが中田さんは天才的でした。


実はこの本は後に2009年に三沢さんが急逝後に緊急増補改訂版が発売され、冒頭に中田さんによる書き下ろしの追悼文が掲載されています。この内容に関しては増補改訂版を買われた方だけが味わえる中田さんの世界観が炸裂した三沢さんへの追悼文になっています。

思えば三沢さんも2009年にリング禍で帰らぬ人となりました。しかし、中田さんが取材した頃からあまりにも壮絶な四天王プロレスを見て「いつか死人が出るぞ」と何度も恐怖に襲われていたそうです。

それでも中田さんは三沢さんに向き合いました。三沢さんから出てきた想い、本音、信念…。中田さんが見事に三沢さんという人間をあぶり出したこの本は「もっと評価されていい」プロレス本なのです。



今回は『三沢さん、なぜノアだったのか、わかりましたー。』の魅力を各章ごとにプレゼンしていきたいと思います!


よろしくお願い致します!



★1.プロローグ 壮大な実験の始まり 2000.8.5 ディファ有明 


この本の始まりは全日本プロレスを離脱した三沢さんが旗揚げしたプロレスリング・ノア旗揚げ戦を中田さんがリポート。

2000年。ちょうどプロレスラーが総合格闘技のリングに上がり惨敗し続け、プロレス最強神話が崩壊した時期に中田さんの文章には強烈なアンチテーゼが漂う。

「『なんでもあり』系の格闘技大会の成功。その頂点で、日本人レスラーは惨敗を続けた。三沢ら、本物のプロフェッショナルが築きあげてきた『洗練』『高度さ』は、格闘技の側から『純粋に強さを測る場では無意味なもの』とされてしまった。しかし、『ビジネスとしてのなんでもあり』は、プロレスラーを中心に今も行われている。なんとも奇妙な構図である。プロレスラーが一番強い。単純にそうは言い切れない状況を作るために、プロレスラーは消費されている。プロレスラーの惨敗が札束に変わる」


そして、中田さんによるノア旗揚げ戦リポートは、プロレスマスコミにはとてもじゃないけど書けない領域のものでした。これはよくも悪くも。



★2.1プロレスへの疑問―ルー・テーズの批評

雑誌『ブルータス』のプロレス特集で「鉄人」ルー・テーズを招聘し、中田さんは担当ライターとして立ち会うことになりました。伝説のプロレスラーが今の日本プロレスについて批評するという企画で、テーズにあらゆるプロレスや格闘技の試合映像を見せ、最後に1998年10月31日全日本・日本武道館大会で行われた小橋健太VS三沢光晴の三冠ヘビー級選手権試合を見てもらうこと。

すると途中からテーズが居眠りをしてしまいます。なぜなのか?テーズは語ります。

「私は疲れて寝てしまったわけではない。この試合には見るべきものが何もないからなあ」
「批評しようにもレスリングの動きがほとんどないんだから、レスラーの私が何を言ってもいいのかわからないよ」

そして小橋さんがスリーパーホールドで絞め上げ、三沢さんの右手がタイツにかかったときにテーズは声を上げます。

「関節技を決められているのに、なぜ、三沢はタイツを上げているのか。小橋の技に力が入っていないからだろう。試合中に休むのはいい。しかし、タイツを上げているのはどう考えてもナンセンスだ」

「20世紀最強のプロレスラー」テーズから1990年時点ではあるが、今のプロレスに対して呈せられた異論に中田さんは困惑してしまいます。

中田さんはアントニオ猪木さんや前田日明さんの引退、プロレスラーが総合格闘技で次々と惨敗していく現実に、プロレスを見るのを辞めようと考えていました。そんな中でテーズとの邂逅。そして、ジャイアント馬場さんの訃報。

「俺はどうすればいいんだ!?」

中田さんは過去の自分をプレイバックしていました。

大学生の時はテレビでプロレスを見るだけの男だった中田さん。
村松友視さんの『私、プロレスの味方です』を読んで「馬場さんのやっていることを『プロレス内プロレス』などと規定してひとり悦に入っているやつのどこがプロレスの味方なんだ」と違和感を覚えていた中田さん。
ジャイアント馬場VSスタン・ハンセンで馬場さんの奮闘に「脳天唐竹割りを放つ馬場さんの背後に、大漁旗がはためいているのを見た」と興奮していた中田さん。

日本海にはためく大漁旗。そこに浮かび上がったのは、「馬場さんの全存在」だったと中田さんは綴ります。中田さんはプロレスを卒業するはありませんでした。そして全日本プロレスと三沢光晴さんを追い続けました。


この回は中田潤さんのプロレスへの想いが爆発しています。そしてなぜ自身が三沢さんを追うこと荷なったのかもよく分かります。

「三沢さん、プロレスってなんですか?」



★3.2 リアリスト三沢光晴の礎―プロレスとの出会いとタイガーマスク

いよいよ三沢さんと中田さんの取材というロックアップが始まります。中田さんが投じた初めての質問はなんと「三沢さんが、生まれて初めて、誰かを殴りたい、暴力で組み伏せたい、と思ったのはいつ、どんなときでしたか」。変化球にも程があるこの質問に三沢さんはきちんと答えています。さすが真っ向勝負の人生を歩んできた三沢さんです。

中田さんが「苦労話になると、三沢はいつもそれを笑い話に転化してしまう」という記述は確かにその通り。三沢さんはリングに上がる時は哀愁も悲壮感も漂うのだが、自身の壮絶な人生を語る時はどこかあっけらかんとしているような印象があります。

そしてプロレスを初めて見た時に三沢さんは「こらは観るもんじゃなくて、やるもんだ、と」「他の格闘技にないものがプロレスにはある。そう思ったんですよ。柔道とかだと投げ技、寝技だけでしょう。プロレスは飛ぶこともできますよね。まず、縦の動きがある」と感じ、ファンでもなんでもなく、最初からやる側目線でプロレスを見ていたというのは興味深いです。

また全日本に入団した三沢さんが新日本プロレスについてどう思っていたのか?これがかなり本音が出ています。

「新日本はなんか作り過ぎてるという感じがしてね。俺が一番、うちが一番、とか言うやつって嫌いなんですよ。うちはストロングスタイル?ほざいてろって」

ちなみにテーズが全日本プロレスと関係を持っていた頃に、若手リーグ戦「ルー・テーズ杯」が開催され、そこで準優勝したのが三沢さん。なんとテーズからは「全日本の若手で、本物のスープレックスを使えるのは三沢だけだな」と言葉をかけたそうです。

三沢さんの本でありながら、ケーフェイ、シュート、ワークといったプロレス隠語が飛び交う中でも三沢さんの本音が出ている。中田さんはあらゆる話題や刺激物を導入しながら、その当時のプロレス界の混迷ぶりをダイレクトに伝えているようにも感じました。


★4.3 地層の変化―1991・9・4日本武道館三沢&川田vs鶴田&田上

中田さんはジャイアント馬場さん、ジャンボ鶴田さん、三沢さんの流れを「鮮やかな地層」と評し、そこから馬場さんの歴史、鶴田さんの歴史を綴っています。2人が嫌というほど味わった「貫禄のプロレス」(存在感や恐怖感、威圧感の怪物に圧倒的に屈伏されるプロレス。プロレスラーが必要以上に存在を誇張すること)。そこに三沢さんが「攻防のプロレス」で立ち向かい、鶴田さんを撃破したことによって、プロレスの地層が変化したというのが中田さんの主張。これは納得しました。

また三沢さんには「貫禄のプロレス」に対するコンプレックスなどあるわけがなく、「次やったら殺してやる!とか、昔のレスラーは言うんだけど、殺すのかい、ほんとに(笑)。そら、お前、裁判になったら負けるぞ」「世間じゃ許されないことをやってもレスラーなら許されるとかね。俺の感覚からすると、それ、人間の道理じゃないよ、ってなりますよ」と理論整然に言うところは三沢さんらしく、この人は本当にリアリストなんだなと実感しました。




★5.4 全日本プロレスを襲う閉塞感―1998・5・1東京ドーム/5 一見さんとの闘い―1998・10・31日本武道館三沢vs小橋


4と5で強烈に印象に残っているのが1993年7月29日の日本武道館大会での三沢光晴VS川田利明の三冠ヘビー級選手権試合。この試合から、過激で危険で王道プロレスの極みとも言える四天王プロレスのスタートとも言われています。試合終盤、三沢さんが川田さんに投げっぱなしジャーマン3連発で川田さんが失神。それでも強引に川田さんを引き起こしてダメ押しのタイガースープレックスホールドで勝利。試合後に解説の馬場さんが「三沢と川田の勝因なんて、テレビ解説者として恥ずかしいが、高度な展開すぎて、俺にはわからないよ」と語り、勝者の三沢さんが「最後は本当にいやだったよ。自分で自分に言い聞かせたもん。ここでやらにゃいかん、って」と語るほど壮絶な一戦。

なぜ三沢さんは「やらにゃいかん」となったのか?馬場さんにも鶴田さんにも天龍源一郎さんにもできない試合をやるには、これをやるしかなったのか?

三沢さんのアンサーはどごまでも現実的でした。

「川田は、中途半端にやると、中途半端なことを言い出すやつだから。『この次やったら、絶対、負けない』とかね。それまで、積もり積もったものもあったんですよ」

 あともう一つ、1998年春の時点で全日本に内向的で保守的で予定調和に伴い閉塞感に襲われていることに三沢さんは気づいていました。この閉塞感によって客足も鈍り始め、リング上もマンネリ化していることも。だからこそこう語ったのです。

「普通の人にプロレスを見てもらいたいですね。見てもらえるように最大限の努力をしたい。客層の顔を変えたい。もちろん、今のファンも大切にしながら。むずかしいとは思いますよ。客が望んでいるものと、レスラーがここを変えていきたいというものが違う場合もありますから。でも、内部から変えていかないと、よくはならないですから」

そこから三沢革命、馬場さんに代わりマッチメーカー就任に至っていくのですから、1998年の全日本はまさに変革期だったのです。

そしてあのルー・テーズが異論を唱えた「スリーパーをかけられているのに、タイツに手をかけた」一件について三沢さんがしっかりアンサーしています。時空を越えたルー・テーズVS三沢光晴のイデオロギー闘争がここにあります!


★6. 6 防波堤の崩壊―1999・1・31ジャイアント馬場逝去

馬場さんが亡くなり、喪失感を抱えていた三沢さんの苦悩の日々が始まります。


印象に残ったのは三沢さんが馬場さんに直談判するくだり。「マッチメイクとか自分の思うようにやらしてほしい」と伝えた時に馬場さんからは「いいよ」と言い、レスラーの給料底上げのために「もう少し、給料を上げてください。みんな一生懸命やっていますから」と直訴した時は「わかった。これからは、三沢が若い者をまとめてやっていけばいい」と言われたそうです。

三沢さんは馬場さんに「そこまで信頼してくれたのか」と感激していました。だが、馬場さんの死後、「いいよ、と言ってくれたけど…馬場さんのやりがいとかね、…そういうのを取ってしまったんじゃないかと…」と複雑な気持ちになりました。


読んでいて感動と悲しみが交錯し、こちらも複雑な気持ちになりましたね。



★7.7 やりたいようにやる。―1999・6・11/9・4日本武道館三沢vs小橋/三沢vs高山/ 8 秋山が抜いた刃―2000・3・11後楽園ホール秋山vs志賀

ここからは三沢体制時代の全日本について中田さんが切り込んでいます。めちゃくちゃ面白い!

そして、ここで三沢さんと猪木さんの暗闘というものが浮き彫りになります。

新日本1999年1月4日橋本真也VS小川直也のドーム事変により、プロレス界は大混乱に陥ります。この不穏試合についてなんと全日本の三沢さんが「プロレスラーが弱いと思われるのは、本当にくやしいよね」と言及する事態となります。

実は水面下で新日本と全日本の交流に動いていた1999年。新日本の新社長となった藤波辰爾さんについて三沢さんは「藤波さんとは何もないですよ。藤波さんとなら話ができます。でも、藤波さんの上にまだ誰かいるんじゃないのか、という部分でね」と語っています。藤波さんより上とは、新日本オーナーの猪木さんのこと指しています。

あるイベントで素人から「エルボーを受けたい」と言われると「俺は猪木さんじゃねえよ」と言い、プライベートでお寺に行って、滝に打たれた時は、「猪木さんなら、取材陣引き連れて行くんだろうな(笑)」と語った三沢さん。三沢さんにとって猪木さんは「なりたくない人間」ということかもしれません。実際に2000年以後、格闘技がプロレスを侵食してきた時もプロレスの最後の砦となったのは武藤敬司さんと三沢さんでした。

これだからプロレスは面白い!

また三沢さんが「プロレスラーはどんな状況に立たされても強くなくてはならない」「プロレスラーが格闘技の世界で一番強い」と語っています。これは意外かもしれませんが、案外三沢さんは「プロレス最強論」の持ち主。だからといって総合格闘技のリングに上がるというのは別物と考えていたようです。

ここら辺から三沢さんのプロレス論がエンドレスに続きます。もうお腹いっぱいになるほど。しかし、どれも深くて核心をついているのです。



★8.  9 全日本プロレス退団―2000・6・16ディファ有明
 
全日本社長時代の三沢さんの本音を引き出していた中田さん。その本音が最終的にノア旗揚げに繋がることに「やっぱりそうだったのか」と感じたそうです。


「俺が社長でなかったら、俺は全日本を辞めていた」「やりたいようにやる。ある意味強引でも」「新しいものを打ち出していきたい…ただ、全日本ではやりたくないんですよね」という謎掛けのような三沢さんの発言も。

三沢さんと馬場元子夫人の確執。その内幕の一部が書かれています。

また、三沢さんが馬場さんの死後に、馬場さんの偉大さに改めて気がつくのです。

「馬場さんに言いますよね。俺はこうしたいんですけど。ダメなとき、馬場さんは、何でダメなのかちゃんと言ってくれました」


そして、三沢さんがノアでやりたい「理想のプロレス」とは?

「選手とファンがどっちも楽しめるプロレスを目指していきたいと思います」


今のノアの姿を天国の三沢さんがどのように見つめているのでしょうか?




★9.10 小橋、秋山の主張―2000・8・6ディファ有明プロレスリング・ノア旗揚げ第二戦

ノア旗揚げ2戦目を中田さんがレポート。試合前のリング上では丸藤正道選手とKENTA選手(当時は小林健太)によるレスリングの練習が行われていました。全日本にはほぼなかったという練習メニュー。KENTA選手のタックルは丸藤選手にことごとく潰されるも、10数回目のタックルで丸藤選手をテイクダウンさせたKENTA選手。すると「おお、いいねえ」と声掛けしたのが高山善廣選手。文章を読んだだけでもいい光景ですね!


そして、中田さんは三沢さんに「もしヒクソン・グレイシーと対戦した時にどう攻めますか?」という質問にしっかりと答えています。レスリング国体優勝という実績を持つ三沢さんは格闘技にも造詣が深く、だからこそ「根本的に間違っているのは、格闘技の人たちが、やったことがないものを否定することなんです」と語るのです。

「ノアは格闘技か、エンターテインメントか?」

三沢さんの答えはどごまでも深い。

「この質問自体、成立しない。どっちにも行けるんですよ。(中略)ノアは常に選手のうしろにある。誰も『こうしろ』とは言わないんです。ノアの上で選手は何をやってもいい。自分の好きな方向に進めばいい。色は一色じゃない。一色じゃないのがプロレスですよ。格闘技もエンターテインメントも大きくひっくるめたのがプロレスですからね」

かつて「プロレスに答えはない」と語った三沢さんのプロレス哲学は中田さんというフィルターを通してもブレないのです。




★10.エピローグ まだ見ぬ三沢がいる/あとがき


中田さんによる三沢さんを追う旅もいよいよフィナーレ。

三沢さんについて中田さんはこのように綴ります。

「これまで、私が相対していたプロレスラーは、ほとんどが『かっこいいことを言う人』だった。かっこいいことばかり言いすぎて、あんなの真意はどこにあるの、と言いたくなる人もたくさんいた。三沢光晴はまったく違う。嘘をつけない人、ということを超えて、『かっこいい三沢光晴』については、照れちゃって話が続けられない人なんだと思う。この本を書きながら、わかってきたことがある。人の悪口が世間以上に流通しているこの業界で、なぜ、三沢光晴を悪く言う人がいないのか。少なくとも、三沢の悪口を言う人に私は出会ったことがない。そういえば『三沢は弱い』という発言は、プロレスを否定する格闘技側からも一度も出てきていないのではないか。なぜ、そうなのかー。その謎は、三沢光晴に会えば解かる」

中田さんのこの文章はまるで三沢さんというプロレス界の盟主と一騎打ちを行った試合後のコメントに見えて仕方がありませんでした。


思えば中田さんが描く文章の世界観は、どんなにスーパースターでも、自身のフィルターを通して、等身大の姿をあぶり出し、彼らの本音がむき出しになるのがフリーライターとしての中田さんの凄みでした。

しかし、三沢さんは中田さんを相手でも微動だにせずに真っ向勝負を続けて、中田さんのフィルターが通らなくても、本音を次々と語ったのです。

この本はフリーライター中田潤さんとプロレスラー三沢光晴さんの一騎打ちを文章化したものだと私は捉えています。

そして、中田さんはさまざまな手法で三沢さんに揺さぶりをかけても三沢さんは泰然自若で動かなかった。例え、さらに予測のつかない本音を引き出すために無人島に連れて行っても、三沢さんは微動だにしなかったでしょう。

三沢さんからすると「もし、中田さんの取材なら、無人島でもどこでも行って受けてやる!」という豪胆な心意気があったのかもしれない。


無人島にいたふたり。
プロレスについて考えすぎた中田さんの質問にどこまでも親切丁寧に本音で答えた三沢さん。
ライターとしての中田さんのスタンスもお見事!

凄い一騎打ちでした!
最高に好きなプロレス本です!