心に灯をともす物語

心に灯をともす物語

世に埋もれた出来事や名言を小さな物語として紹介します。読者の皆様の心に灯がともれば幸いです。

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皆様、誠にお久しぶりです。

早速ですが、今日お届けする話もいつものように「実話」です。

 

 

あるアスレティックトレーナーAさんは 今から36年前、

まるで映画のような経験をします。

 

世紀の祭典、オリンピックでのことです。

大会最終日に行われるマラソン競技。

 

彼がトレーナーとしてケアを担当したマラソンの外国人選手が

足を痛めます。

あろうことか、足の裏に出来た豆が、つぶれてしまったのです。

しかも本番は明後日という日。原因はシューズでした。

 

マラソンランナーのシューズは、幅や厚さ、高さなどが

微細なレベルで調整されています。

選手にとっての微妙な違和感ひとつひとつが42キロの間に

徐々にダメージを与えていくからです。

 

オリンピックに照準を合わせて調整した何十足のシューズから

もっともフィットするものを選んだつもりでした。

しかし、コンマ数ミリレベルで微妙にサイズのずれたシューズを

履いてしまっていたのです。

 

事態に慌てたさんらスタッフたち。

先ず、血豆の適切な治療を施します。

献身的なこまめな治療は昼夜を通して続けられ、スタートの直前まで

行われました。

 

そのおかげで、足自体はなんとかスタートラインには立てそうな

状態にまでは回復しました。

 

しかし、対策はそれだけではすみませんでした。

完全にフィットするシューズを急いで探さなければならないのです。

スタッフは開催都市近郊はもとより、国中をくまなく探します。

が、見つかりません。

 

それもそのはずです。

そのシューズは有名な世界的スポーツメーカーのものでしたが、

その中でもそれは日本支社が作ったオリジナルの商品だった

からです。

 

同じものは遠い日本にしかありません。

さんは頭を抱えました。

明後日のスタートに間に合うはずがないのです。

 

しかし、さんはいてもたってもいられず、

とうとうその東京支社に電話します。駄目元でした。

 

 

ああ、しかし、この一本の電話こそがとんでもない奇蹟を

巻き起こすのです。

 

 

 

電話越しに事情を聴いたのは日本支社の副社長でした。

 

シューズを探します。

 

ありました・・・。

 

さて読者の皆様、この副社長はこの後、どうしたと思いますか?

ここからです。

 

 

このシューズをある女子社員に渡してこう云ったのです。

「今からただちに成田に行きなさい。

そして誰でもいいから頼んで届けてもらいなさい・・・。」

 

副社長も副社長なら、この社員も社員です。

急いで成田に向かったかと思うと、なんとこの社員は

空港の出発ロビーで叫んだのです。

 

「誰かロサンゼルスに行く方、いらっしゃいませんかぁ?」

 

 

そうです。

これは1984年のロサンゼルスオリンピックでの出来事でした。

 

空港のロビーで大声で叫ぶ彼女に、しかし誰も見向きもしません。

それでも彼女はあきらめません。

 

次に彼女は、ロサンゼルス行の便のカウンターに向かいます。

そして並んでいる乗客一人一人に声をかけました。

 

しかし、ロサンゼルスの選手村にこのシューズを届けて欲しい

などという、この不可解な頼み事に、誰も聞いてはくれません。

 

そのとき、1人の女性が話しかけて来ました。

 

「どうかなさいましたか?」

 

客室乗務員です。

女子社員は丁寧に丁寧に事情の一切を説明し、懇願しました。

するとその客室乗務員、会社に掛け合ってくれると言います。

 

そして30分後 ……

 

期待に膨らむ彼女に帰ってきた言葉は

「ノー」。

 

業務上問題あるという理由でした。

 

万策尽きた彼女は、その場に座り込み我慢できずに

ついに泣き出してしまいました。

 

そして、ひとしきり泣いた後、駄目だったことを副社長に

連絡しようと、とぼとぼと公衆電話に向かいます。

 

そして、受話器を取ったその時でした。

「私が運びましょう・・」

突然、背後から声をかけられたのです。

 

見ると、先ほどの客室乗務員でした。

 

「ただし、どこの誰かは絶対に云わないと約束できる?」

 

へなへなと座り込み、そしてこれまでの何倍も何倍もの

大粒の涙を流し、感謝の言葉を念仏のように繰り返しました。

 

そして涙の止まらぬ彼女をよそに、シューズを受け取った

客室乗務員は、何食わぬ顔で搭乗して行きました。

 

レースの前日でした。選手村にシューズが届いたのです。

 

歓喜したさんに、シューズメーカーのアメリカのスタッフが

不機嫌そうに云いました。

 

「靴は白地に金のラインが入っている。これでは日光が反射し

どこのメーカーのシューズか分からなくなる。

そんなデザインは私たちブランドメーカーとして提供できない。」

 

「そんなことを言ってる場合じゃない。スタートは明日なんだ。」

さんと大揉めに揉めます。

 

そのときでした。

当の選手が口を開きました。

 

「私は日本人のスタッフから血豆を丁寧に処置してもらった。

それだけで十分感謝しています。しかし、それだけでなく

日本からシューズまで届けてくれた。

僕は感謝の気持ちを込めてこのシューズを履いて走りたい」

 

この一言にアメリカのスタッフは、もはや返す言葉は

ありませんでした。

 

そして翌日のレースを迎えるのです。

 

申し分のないシューズを履いた彼は号砲と共に元気よく

飛び出して行きました。

 

 

2時間後・・・。

 

 

さんたち日本人スタッフは、信じられない光景を目にします。

真っ先に競技場に帰ってきた選手は、なんと彼だったからです。

 

そうです。

何人もの日本人がまるでタスキのようにつなぎ届けた

あのシューズで・・・。

 

ポルトガル代表 カルロス・ロペス。37才。

 

 

 

金メダルでした。

 

 

 

しかも2時間9分20秒のオリンピック新記録。

 

感動で震えるさんら日本人スタッフ。涙がとまりません。

こんな驚くべき出来事が待っていたとは・・・。

 

しかし、この話はここで終わりません。

ドラマはここから始まるのです。

 

カメラマンや記者に囲まれた歓喜の輪の中、

ロペス選手の様子がおかしい・・・。

しゃがみこんで何かをやっています。

そして、立ち上がったかと思うとゆっくりと走り始めました。

 

両手に何か持っています。スタンドのさんからは

よく見えません。

次の瞬間、オーロラビジョンに映った映像に

釘づけになりました。

 

そこには、ウイニングランを始めたロペス選手の姿が

映し出されていたのです。

 

よく見ると両手に何か掲げています。

 

あのシューズです。

 

裸足でウイニングランするロペス選手が掲げたシューズ。

金のラインも光が反射せず しっかり見えています。

 

さんはロペス選手から聞かされたそうです。

「42キロを走りにながらずっと考えていました。

僕は金メダルをとるんだ。

そしてこのシューズを手に持ってウイニングランする。

そうすれば、これを届けてくれた人が世界のどこにいても、

感謝の気持ちが伝えられるから。」

 

ロペス選手の言葉に、さんは男泣きに泣いたといいます。

 

 

あの時、さんが駄目元で日本支社に電話しなければ

シューズというこのタスキは海を越えてはいませんでした。

 

 

同じ頃、日本ではあの副社長と女子社員が茫然としながら

ロサンゼルスの実況を見つめていました。

 

「副社長……わたし……。」

 

「うん、うん……。」

 

クシャクシャの顔で泣きながら、二人とも言葉になりません。

 

この二人がいなければタスキは海を越えてはいませんでした。

 

 

そしてもう一人。

 

あの、名も知らぬ客室乗務員。

 

世界のどこかで、この光景を胸に刻んでくれたことでしょう

 

彼女がいなければタスキは海を越えてはいませんでした。

 

 完

明けましておめでとうとございます。

心に灯をともすおいどんです。

皆さまお元気ですか?
久しぶりの投稿です。

GRAPEアワード優秀賞を頂きました。
以下、受賞作です。



【あの日、ひときわ高い夏空の下で】
 

その友は、高校野球の名門校に迷わず進学した。


甲子園出場の常連校であり、野球小僧であれば
誰もが憧れる高校である。

友にとって三年生最後の夏も、出場を射止めた。


そしてその夏は、友だけでなく私にとっても
忘れ難い、ある出来事が残った。

友のポジションは捕手だった。

甲子園決定の喜びも束の間、彼を待っていた
のは『正捕手争い』という試練だった。


甲子園のハレ舞台に立つ正捕手は、三人の
候補の中から一人だけ。

選ばれなければ、ベンチ入りはおろか、
スタンドでの応援となる。


「明日がその日なんだ」

友は、照れるような顔で云った。

翌日、私はグラウンドの片隅で選抜テストの
開始を待っていた。

この日、監督がとった選抜方法は、二塁への
送球テストだった。


走者の進塁を阻む捕手の務めは、送球の速さと
その正確さによって初めて果される。

その技能が試されるのだ。

チームメイトが固唾を飲んで見守る中、
試技が
始まった。

「一人三球!」

大声で告げる監督の声が響き渡る。

灼熱の太陽が照りつけるグラウンド。


私は祈るような気持ちで友の姿を追った。

友は二番目の試技だった。

ピッチャーの投球を捕球するが早いか、
ボールを掴んだ拳を右肩から素早い動作で
送球する。

見事だ。

ほれぼれとする矢のようなボールは、二塁手の
捕球姿勢を多少とも脅かすことなく、
真っ直ぐに向かった。

「ナイススローイン!」

突き刺さるようなボールに、チームメイトから
称賛の声が上がった。

三選手共に、三投すべての寸分たがわぬ正確な
白球が、この日グラウンドを走った。

正捕手が決まった。

友ではなかった。


恐る恐る、その決め手を尋ねてみた。

そしてその選考理由に私は度肝を抜かれた。


決め手は二投目だったという。

二塁手が構えたグラブからボール三つ分、
右にそれた送球をした選手がいたという。

友だった。

部員100名からなる名門野球部の、
この非情さに私は震えた。

「わずかボール三個分で実力を判定される
なんて残酷過ぎるよな」

私は慰めるよりほかはなかった。


そんな私に、友はまるで神のような言葉を放った。

「ボール三つ分外すか外さないかは実力では
ない。それは運なんだ」

負け惜しみ・・・?

一瞬そう思った私に、友は遠くを見つめながら
続けた。

「選抜テストの、今日のこの日の、この時間に、失敗するかしないかは、運なんだ。
三人の中で運を一番持っているのは誰か・・・。
監督はここで選んだんだ。甲子園で求められる
実力というのは、そういうことなんだ。」

私は、青い空を仰いだ。


技能差ではなく、『運』。

目に見えないもので実力を測る視点・・・


そこに心底納得している友がいる。

それだけではない。

友はこの夏、最高に気高い言葉を残した。

「運を一番持っているあいつに、
俺はこのチームを託す」

そこにはライバルを超えた『チームメイト』
がいた。

あの日、ひときわ青く高い夏空の下で、
晴れやかな顔で語った友の顔を私は忘れられない。


以上

こんにちは
心に灯をともすおいどんです。

大変ご無沙汰いたしております。

この度、泉大津市主催のオリアムエッセイ賞の佳作を
頂戴しました。

私の幼少の頃に起こった出来事を記したものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


【命のカーディガン】



「おかあさん、おいしいね!おばあちゃん、おいしいね!」


病院食の味噌汁に歓喜する五歳の私。

前日の転落事故が嘘のようなはしゃぎぶりだったと云います。

二階の窓から転落した私は、頭をコンクリートの地面に
強く打ち付け、病院に運ばれていました。


緊急入院後、丸一日の絶食で猛烈な空腹状態にあったせい
でしょう。

飛び上がらんばかりに美味しかった味噌汁の味。

事故の翌日には元気に食せたほど、それは奇跡的な
軽傷で済んだのです。


不思議がる担当医が事情を呑み込むに、
そう時間はかかりませんでした。

軽傷で済んだのは、転落の際に身にまとっていた衣類の
おかげでした。

頭と地面間のクッションになっていたのです。

衣類・・・。それはカーディガンでした。


その日私は友達といっしょにヒーローごっこでも
楽しんでいたのでしょうか、
カーディガンをマントがわりに首に巻いていたのです。

私の記憶にうっすらと残る転落の瞬間・・・。

窓のヘリに登って手を振る私。友達の姿が見えなくなり
窓から部屋の中へ降りようとする私。

その瞬間の、なんとなく浮遊したような感覚・・・。


ここから記憶は途絶えます。

まっさかさまの落下。


その時、マントに見立てて首に巻き付けていた
カーディガンが、落下の勢いでひるがえり、
頭を丸ごと包む・・・。

こんな偶然が起こったのです。



ドスンという鈍い音を耳にした隣のおばさんが母に伝えます。


「何か落っこった?」

台所から外を覗いた母の目に飛び込んできたのは
マントに包まれた頭をかかえ、
うーんうーんと唸りながら地面に横たわる我が子の
姿でした。

母は私を抱きかかえ、おんぶしようとしました。

異変に気付いたのはその時です。

母の肩をつかめません。

腕を挙げる力が入らないのです。

「しっかりつかまりなさい!」

ここから母の血相が変わります。


ぐったりとする私を抱きあげ、二つ上の姉を置き去りのまま、
タクシーに飛び乗ったのです。

職場から飛んできた父。

泊まり込みに備えた布団を背にかつぎ、

二時間の道のりをディーゼル機関車に揺られ駆けつけた祖母。

一人で置いておかれた七歳の姉。


そんな家族の心配や不安をよそに、
翌日は味噌汁に舌鼓を打つほど無傷な私。

もしもカーディガンがなかったら私の頭は
直接コンクリートに叩き付けられ、命を落としかねない
事態になっていたのです。

五歳の私を救ったそのカーディガンは水色のニット生地。
母の御手製でした。


母は、家計の苦しさから「洋裁」を内職にしていました。

ワンピースやセーターやブラウスなど、
女性物の注文を安い値段でとってきては丁寧に丁寧に作ります。

そんな母が一度だけ男物を作ったことがありました。

それがこの私のカーディガンでした。

ニットのカーディガンをひと月ほどかけて編み上げて
くれたのです。

左胸には赤と黒の二色のヘリコプターが編み込まれていて、
これが私のお気に入りでした。

マントに見立ててはしゃぐのも無理ありません。

味噌汁に喚起する無邪気な姿は、
母や祖母の目にはどのように映ったのでしょうか?


我が子、我が孫の無事を、どれだけ喜んだことでしょう。

担当医に掴みかからんばかりに救命を訴えた父の、
拍子抜けした顔。

味噌汁にはしゃぐ元気な孫を見届け、
布団を背負って帰って行った祖母。

「置いておかれた私」という思い出でしかない姉。

いろんな人の気持ちをもて遊んでしまった
私の転落事故とカーディガン。


半世紀も前の出来事です。

あれ以来一体いつまで着ていたのか、もう記憶にありません。

既に鬼籍に入ってしまいましたが、
まだ若い頃の母の写真を見るたびに、
あの出来事が思い出されて仕方がないのです。



もしも内職など不要な豊かな家庭だったら。


もしも母が私のカーディガンを編んでいなかったら、
この世にあのカーディガンはありません。


もしもヘリコプターの編み込みがなくて、
私のお気に入りでなかったら、
あの日私は「命のカーディガン」という名のマントを
羽織ってはいなかったのです。




(社)日本WEBライティング協会が主催する

第三回感動ストーリーコンテストの最優秀賞を頂きました。

二度目の受賞に心底びっくりしています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【海を越えた襷】


あるアスレティックトレーナーIさんは 今から31年前、
まるで映画のような経験をします。

世紀の祭典、オリンピックでのことです。


大会最終日に行われるマラソン競技。

彼がトレーナーとしてケアを担当したマラソンの外国人選手が
足を痛めます。
あろうことか、足の裏に出来た豆が、つぶれてしまったのです。
しかも本番は明後日という日。


原因はシューズでした。
マラソンランナーのシューズは、幅や厚さ、高さなどが
微細なレベルで調整されています。
選手にとっての微妙な違和感ひとつひとつが、
42キロの間に徐々にダメージを与えていくからです。


オリンピックに照準を合わせて調整した何十足のシューズから
もっともフィットするものを選んだつもりでした。
しかし、コンマ数ミリレベルで微妙にサイズのずれたシューズを履いてしまっていたのです。


事態に慌てたIさんらスタッフたち。
先ず、血豆の適切な治療を施します。

献身的なこまめな治療は昼夜を通して続けられ、スタートの
直前まで行われました。


そのおかげで、足自体はなんとかスタートラインにはつけそうな状態に回復しました。

しかし、対策はそれだけではすみませんでした。
フィットするサイズのシューズを急いで探さなければ
ならないのです。


スタッフは開催都市近郊はもとより、アメリカ中をくまな
く探します。
が、見つかりません。
それもそのはずです。


その選手は有名な世界的スポーツメーカーのシューズを
履いていましたが、その中でもそのシューズは日本支社が
作ったオリジナルの商品だったからです。


同じものは遠い日本にしかありません。
Iさんは頭を抱えました。
明後日のスタートに間に合うはずがないのです。
しかし、Iさんはいてもたってもいられず、とうとう
その東京支社に電話します。

駄目元でした。

ああ、しかし、この一本の電話こそがとんでもない奇蹟を
巻き起こすのです。


事情を聴いたのは日本支社の副社長でした。
シューズを探します。
ありました。


さて読者の皆様、この副社長はどうしたと思いますか?


このシューズをある女子社員に渡してこう云ったのです。
「今からただちに成田に行きなさい。
そして誰でもいいから頼んで届けてもらいなさい・・・。」


副社長も副社長なら、この社員も社員です。
急いで成田に向かったかと思うと、なんとこの社員は
空港の出発ロビーで叫んだのです。

「誰かロサンゼルスに行く方、いらっしゃいませんかぁ?」

そうです。
これは1984年のロサンゼルスオリンピックでの出来事でした。

空港のロビーで大声で叫ぶ彼女に、
しかし誰も見向きもしません。
それでも彼女はあきらめません。


次に彼女は、ロサンゼルス行の便のカウンターに向かいます。
そして並んでいる乗客一人一人に声をかけました。
しかし、ロサンゼルスの選手村にこのシューズを届けて
欲しいなどという、この不可解な頼み事に、
誰も聞いてはくれません。


そのとき、1人の女性が話しかけて来ました。
「どうかなさいましたか?」
客室乗務員です。


女子社員は丁寧に丁寧に事情の一切を説明し、懇願しました。
するとその客室乗務員、会社に掛け合ってくれると言います。
そして30分後 ……。


期待に膨らむ彼女に帰ってきた言葉は
「ノー」。
業務上問題あるという理由でした。
万策尽きた彼女は、その場に座り込み我慢できずに
ついに泣き出してしまいました。


そして、ひとしきり泣いた後、駄目だったことを
社に連絡しようと、とぼとぼと公衆電話に向かいます。
そして、受話器を取ったその時でした。


「私が運びましょう・・」
突然、背後から声をかけられたのです。
見ると、先ほどの客室乗務員でした。


「ただし、どこの誰かは絶対に云わないと約束できる?」


へなへなと座り込み、そしてこれまでの何倍も何倍もの
大粒の涙を流し感謝の言葉を念仏のように繰り返しました。
そして涙の止まらぬ彼女をよそに、シューズを受け取った
客室乗務員は、何食わぬ顔で搭乗して行きました。


レースの前日でした。選手村にシューズが届いたのです。
歓喜したIさんに、シューズメーカーのアメリカのスタッフが
不機嫌そうに云いました。


「靴は白地に金のラインが入っている。
  これでは日光が反射しどこのメーカーか分からなくなる。
  そんなデザインは私たちブランドメーカーとして
                                                            提供できない。」


「そんなことを言ってる場合じゃない。
                                  スタートは明日なんだ。」



Iさんと大揉めに揉めます。


そのときでした。
当の選手が口を開きました。

「私は日本人のスタッフから血豆を丁寧に処置してもらった。
   それだけで十分感謝しています。しかし、それだけでなく
   日本からシューズまで届けてくれた。僕は感謝の気持ちを
   込めてこのシューズを履いて走りたい」


この一言にアメリカのスタッフはもはや返す言葉は
ありませんでした。


そして翌日のレースを迎えるのです。
申し分のないシューズを履いた彼は号砲と共に元気よく
飛び出して行きました。


2
時間後・・・。
Iさんたち日本人スタッフは、信じられない光景を目にします。
真っ先に競技場に帰ってきた選手は、なんと彼だったからです。


そうです。
何人もの日本人がまるでタスキのようにつなぎ届けた
あのシューズで・・・。




ポルトガル代表のカルロス・ロペス。37才。
金メダルでした。
しかも2時間9分20秒のオリンピック新記録。


感動で震えるIさんら日本人スタッフ。涙がとまりません。
こんな驚くべき出来事が待っていたのです。


しかし、この話はここで終わりません。
ドラマはここから始まるのです。

カメラマンや記者に囲まれた歓喜の輪の中、
ロペス選手の様子がおかしい・・・。

しゃがみこんで何かをやっています。

そして、立ち上がったかと思うとゆっくりと走り始めました。



両手に何か持っています。スタンドのIさんからは
よく見えません。
次の瞬間、オーロラビジョンに映った映像に釘づけに
なりました。

そこには、両手にあのシューズを持って裸足でウイニングランを始めた、ロペス選手の姿が映し出されていたのです。
金のラインも光が反射せず しっかり見えています。


Iさんはロペス選手から聞かされました。

「42キロを走りにながらずっと考えていました。
   僕は金メダルをとるんだ。そしてこのシューズを手に持って
   ウイニングランする。そうすれば、これを届けてくれた人が
   世界のどこにいても、感謝の気持ちが伝えられるから。」

あの時、駄目元で日本支社に電話しなければ
襷(たすき)は海を越えてはいませんでした。

ロペス選手の言葉に、Iさんは男泣きに泣いたといいます。




同じ頃、日本ではあの副社長と女子社員が茫然としながら
実況を見つめていました。

「副社長……わたし……。」

「うん、うん……。」

クシャクシャの顔で泣きながら、二人とも言葉になりません。

この二人がいなければ襷(たすき)は海を越えてはいません
でした。

そしてもう一人。

あの名も知らぬ客室乗務員。

世界のどこかで、この光景を胸に刻んでくれたことでしょう

彼女がいなければ襷(たすき)は海を越えてはいませんでした。

 

こんにちは

心に灯をともすおいどんです!


以前ご報告いたしましたが
日本WEBライティング協会主催の
感動ストーリーコンテストで
最優秀賞を頂きました。


このほど協会から公開されましたので
改めて作品を投稿します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


13秒後のベイルアウト

二人が異変に気付いたのは

入間基地まであと39㎞の地点でした。

 

エンジンの異常音とオイルの異臭・・・。



マイナートラブル発生

       ……軽微な問題が発生……


管制塔に告げます。

 

了解。 落ち着いて帰投準備に入れ。



落ち着き払った二人。


共に5000時間以上の飛行経験をもつ


ベテランパイロットです。



二人の自衛隊パイロットを乗せた


T33ジェット練習機の眼下には


北関東の大地が大きく広がっています。

 

そして基地まであと18㎞地点に来た時でした。



何故かコックピット内に薄っすらと煙りが漂います。



なんなんだろう?



管制塔に告げます。



コックピット・スモーク



基地はもう間近。


このまま帰投出来る確信はありました。

 

ところが……。



あれ?



この二人の優秀なパイロットは

自分の目と耳を疑いました。

 

エンジンが動いていません・・・。

 

機は瞬く間に急降下しはじめました。

 

二人は蒼ざめます。


死の恐怖…?


いいえそうではありませんでした。


緊急時のパイロットには


最後の命綱と言われるベイルアウトがあります。



ベイルアウト。



映像などで見たことがあると思いますが


コックピットから瞬時に上空へと飛び出すあの緊急脱出です。

 


彼らが震えたのは…


死への恐怖ではありません。


墜落による地上の犠牲でした。



 

眼下には入間の住宅密集地が広がり

そしてその一角には西武文理高校…。

二人の頭によぎります。

住民を巻き込む、生徒たちを巻き込む大惨事……。



エマージェンシー!(緊急事態!)


緊急事態を告げられた管制塔に

未だかつてない緊張が走ります。

 


瞬く間に急降下していくT33機。

 

二人はベイルアウトに備えます。


ベイルアウトは

高度300メートルまでに行わないと

バラシュートの開傘が間に合いません。

 

住宅地がみるみる迫ってきます。

ここが限界か・・・・。


よし脱出だ。


ベイルアウト


管制塔はベイルアウト交信をキャッチします。


了解・・・。


交信が途絶えました。

 

脱出の無事を祈るだけだ・・基地の誰もが思いました。

 

沈黙が続きます・・・。


ところがその13秒後でした・・・

管制官の耳に飛び込んできたのです。

 

ベイルアウト!


 

ベイルアウト?

既に脱出していたのでは・・・?

 

なんと二人はまだ機に残っていたのです。

ベイルアウトを決行していなかったのです。

 


なんと二人は最初のベイルアウト交信の後も

なおも最後の力を振り絞って

住宅地への墜落を避けるために

懸命に機を立て直そうとしていたのです。

 

懸命に・・・懸命に・・・。

 

そして操縦桿を握りしめ機を立て直す二人の目に

かすかな希望が・・・。


あそこだ


視界に現れたのは入間川の河川敷です。


しかし脱出時の限界高度300メートルは

はるかに過ぎて眼の前に地上が迫ってきます。



ああ!


そして二人は再度ベイルアウト交信するのです。


最初のベイルアウト交信から13秒後・・・

13時42分27秒 再度ベイルアウト通報(高度213メートル)

13時42分34秒 後席操縦者脱出

13時42分36秒 前席操縦者脱出


その1秒後でした・・・


1999年(平成11年)11月22日 13時42分37秒 


墜落


二人は間に合いませんでした。

 

1人は脱出したものの

パラシュートが間に合わずそのまま叩きつけられました。

地上まで70メートルの高度でした。

 

もう一人は射出と同時に機ごと高圧送電線に激突したのです。


最初のベイルアウト交信から13秒後・・・・。


13秒後のベイルアウト・・・。


最初の交信で脱出していれば間違いなく助かりました。

 


河川敷に向かう為に捧げた13秒。

 


ああ・・・、この耳に聞こえます。


このまま落としてはならん。

住宅に突っ込む…。

落としてはならん。

人がいる……。

ベイルアウトはまだだ・・・。


あそこだ!

河川敷だ!


河川敷に行けばなんとかなる・・・


頑張れ


必死の形相で声を掛け合い叫び合う

二人の姿が目に浮かびます。


ベイルアウト!!


先に行け!


あああ・・・


・・・・・・・・・・・・・・

 

迫り来る死の恐怖を顧みず

二人は体ごと河川敷に向かいました。

 

二人の13秒が人々を救ったのです。

 

なのに愚かなマスコミは

これをねつ造された美談として

高圧送電線被害による80万世帯の停電をとりあげ

自衛隊を叩きました。

 

事故調査委の報告を待つまでもなく

地図を見れば明らかです。

二人が命を捨てて河川敷に誘導したのです。

 

13秒後のベイルアウト交信は絶叫だったと言います。

自らの命と引き換えに

間一髪で大惨事を避けきった

英雄たちの天への叫びだったのではないでしょうか。

 

最敬礼をさせてください。


この拙文を二人の偉大な将校に捧ぐ



航空自衛隊
     中川尋史一等空佐(47)
     門屋義廣二等空佐(48)





               

ネバーギブアップネバーギブアップ

こんにちは

心に灯をともすおいどんです。




山古志(やまこし)村。





この名に記憶の有る方は
あの中越地震を思い出すことでしょう。



 

20041023日に発生した新潟県中越地震で
甚大な被害を受けました。

 

 

不幸にもこの災害で全国に知られたこの村が
知る人ぞ知る偉人を生んだことは

あまり知られていません。



 

田中トシオさん。1945年生まれ。

 

職業は理髪師。

 


貧乏だった家の事情で
中学卒業後に理容学校に進みます。



 

まったく気が進まなかったものの
お父さまの半ば強制に近い勧めでした。



 

断わることなどできません。

 


 

生まれつきとんでもない不器用だった田中さんは

人並みの技術もなかなかマスターできません。



 

なんとか卒業し理髪師となれたものの

気がついたら落ちこぼれとなっていました。



 

髭剃りのときカミソリでよくお客の顔を
切ってしまうほどです。




 

親から押し付けられた職業に
そうたやすく愛着などわきません。




 

しかし19歳の頃
「このままではいけない。」
と気づきます。

 

 

「せめて人並みにならなければ食べていけない。」



 

一念発起した田中さんは
技能向上の手段としてコンテストを目標にしました。

 

ここから猛練習に励みます。



 

夜9時に閉店から深夜3時まで
入れ代わり立ち代わり何人ものモデルを相手に
技術訓練を始めます。



 

挑戦するコンテストは年に5回。

 



負けても負けても挑戦し続けます。



 

やがて無理な生活にドクターストップがかかります。



 

それでも田中さんが応じたのは練習時間を
2時間そこら削るだけ。



 

あいかわらず365
何かにとりつかれたように没入します。



 

毎年5回のコンテストに挑戦し続け

通算参加回数100回を超えます。



 

100戦100敗・・・。



 

つまり20年間も日本チャンピオンに
挑戦し続けたのです。



 

地方大会では勝てるものの日本一に届きません。



 

この時36歳になっていました。



 

普通の人なら間違いなく断念します。

 

 

ところがある日、田中さんは確信します。



 

自分のこの技術なら「自分だけの櫛」を手にすれば
日本一になれる。

 

 

 

自分だけの櫛・・・目が22目ある櫛です。

 

 

 

一般に市販されている櫛の櫛目は10目ほど。

 

プロ仕様でも18目が限界とされます。



 

田中さんは日本一の櫛職人のいる
櫛メーカー「ヤマコ」の門をたたきます。

 

常識はずれの22目櫛などヤマコもさすがに
経験がありません。



 

「そんな櫛は作れない」



日本一の職人から断られます。



 

「日本一になるためにはその櫛が必要なんです」




何度も食い下がるい田中さんに
その職人は頑として応じません。

 

 

やりとりは不毛な並行線が続き、

最後は1時間以上にも及ぶ電話での
やりとりだったそうです。



 

ついに職人が言い渡します。




「できないものはできない。もう電話はやめてほしい。」

 

これにたまらず田中さんが云い放ちました。



 

「あなたという日本一の櫛職人の腕を見込んで
 頼んでいます。

 死ぬ思いで日本一を追いかけている男の
 櫛一本も作れないとは
どういうことですか?」

 

捨て台詞でした。



 

そして・・・・・・・




その職人から静かな声で電話がかかってきたのは
それから数日後のことでした。



 

「あなたの期待通りのものができるかどうか
 わからない。が・・・
やってみる・・・。」

 

それから試作に次ぐ試作が重ねられます。

 

田中さんがOKを出した櫛は
4本目の試作だったそうです。



 

完成のその日
「これです」
そういいいながら田中さんは手を震わせたといいます。

 

その半年後です。



 

約束を果たした櫛職人に応えるように

37歳となった田中さんはついに悲願の日本一を
掴んだのです。



 

しかも5戦5勝の完璧な日本一でした。

 



この手にこの櫛・・・。

 


 

猛練習で培った経験と眼力で見抜いて
手にした匠の技・・・22目櫛。


 

 

押しも押されもせぬ日本チャンピオンとなった田中さん。




ある日、理容師の講習会に招かれます。



 

会場には理容業界の企業も出展していました。



 

あの櫛メーカーのヤマコも出展すると
聞いています。



田中さんはお礼の挨拶に出向きます。



 

挨拶をしようと店を覗いたその瞬間でした。



 

「田中さんですね」


女性店員が声を掛けてきます。

 



あの職人の娘さんでした。


 

 

田中さんは感激して深々とお辞儀をし
お礼の言葉を述べました。



 

娘さんが云います。




「田中さんが日本一になったことを知った父は


 ’もう思い残すことはない。
    職人の誇りをもって死んでいける’


 と照れるように家族に話していました。」

 

その話に安堵した田中さんは
次の一言に耳を疑いました。



 

「父は先般亡くなりました。」

 

・・・・。

 

「あの長い電話の後、父は言っていました。

 

  ’俺は歳をとるにつれ楽な方を選び
       普通の櫛ばかり作っていた。

  
   あの男に『それでも日本一の櫛職人か』と
   言われて目が覚めた。


   日本一の櫛職人の意地に賭けても一世一代の櫛を
   作ってみせる’・・・」。


 

 
田中さんはその場で男泣きに泣きました。

 

 


それから10年後です。

 

1992年世界理美容選手権。



 

田中さんは個人種目3冠及び団体日本チーム
金メダルを獲得したのです。

 


山古志村生まれの不器用だった少年が
世界一の表彰台に立ち、手のひらを見つめます。



そして、
その手をそっと左胸に当てました。

 

そこには胸のポケットにしのばした
あの22目の櫛が震えていました。

               

ネバーギブアップネバーギブアップ


こんにちは

心に灯をともすおいどんです。


14日目の一番が終わり

付き人に支えられ脚を引きずりながら花道を帰る横綱。

 

「やっちゃったよ・・」

そんな言葉でも聞こえてきそうな苦笑いです。

 


 

「これはただごとではない」



 

13日目までの連勝ストップよりも

そのケガに周囲は愕然とします。

 

 


その後、なかなか部屋に戻ってこない横綱。



 

治療が長引いていました。



 

部屋は覚悟を決めます。

 

ようやく戻ってきた横綱に
親方は伝える言葉を決めていました。



 

「明日は休場せよ」



 

そういう親方に横綱が静かに答えます。

 


 

「出させてください」



 

「だめだ、出たらもう二度と土俵に上がれなくなる」



 

「いいえ、出ます」


そこから押し問答です。



 

師匠と弟子という厳しい徒弟関係に似合わない
異様なやりとりが続きます。

 


 

千秋楽に持ち越された優勝にこだわる
その時の横綱の様子は誰も見たことのないような
鬼気迫るものだったと言います。



 

そしてどこか超然として聞く耳を持たない横綱に
親方は、最後の一言を置いていきます。

 


 

「わかった。明日の結びの一番までだ。
その一番でもし負けて優勝決定戦になったら、
そのときはどんなことがあっても棄権をしなさい。
その膝で二回も相撲をとったら二度と土俵には上がれない」

 


 

平成13527日。


日本中が固唾をのんで見守る大相撲夏場所千秋楽。



 

横綱の片足でのぎこちない土俵入りで幕は切り落とされました。



 

刻一刻と迫るその時に
会場の空気は次第次第に熱気を帯びてきます。



 

そしていよいよ結びの一番。



 

この時を待っていた観客の狂ったような歓声と拍手。



 

呼び出しが全く聞えません。

 


 

ゆっくりと貫禄十分に土俵に上がった横綱。

 

 

貫禄十分にそんきょしたその瞬間でした。



 

あろうことか横綱の膝が外れました。

 


 

しかし当の横綱は何事もなかったような平然とした顔で

足をひきずって塩を取りにいきます。

 


 

これを見ていた解説者は思わずつぶやきます。



 

「誰か止めてくれませんかね」


 

 

土俵下の審判員も

「恥かしい思いをしてもいい。ここでやめるんだ。」


そう願ったと云います。



 

もう異様な雰囲気です。



 

誰もが祈るように見つめる結びの一番・・・。



 

片足の横綱などどだい関取ではありません。


あっけなく負けてしまいました。



そして誰もが恐れていた最悪の優勝決定戦です。

 


 

支度部屋に戻った横綱は何故か座りません。


ずっと立ったままです。



膝からは血がしたたり落ちていました。



 

付き人は横綱の汗を拭くことすらできない
近寄れない殺気です。



 

そこに手紙が届きます。


親方からです。

 



一言だけ。


「棄権しろ」



 

この時に横綱の頭によぎった言葉は

「自分の相撲道。まけてたまるか。」


だけだったそうです。
 

無視します。


優勝決定戦。



 

最悪の中にまたもや最悪の事態が重なります。



また膝が外れたのです。

 


 

ここから、あまり知られていない出来事が起こります。



 

嘘のような本当の出来事です。



 

神風が吹くのです。



 

もう一度塩を取ったときでした。



 

何故でしょう。


外れていた膝がカクッと入ったんです。

 


 

横綱夫人はそのとき「神さまがいる」と思ったといいます。


 

 

これが目の覚めるような完璧な上手投げを産みます。


 


相手の巨体が土に沈んだ瞬間、
横綱は鬼の形相で仁王立ちし、はるか花道を睨みます。

 

そこには顔をくしゃくしゃにしながら
ガッツポーズで狂気乱舞する弟子たち。

 

彼らに向けた横綱の無言の勝利宣言でした。

 



 

22回目の優勝。

 



 

国民はこの相撲史に残る一部始終を
胸の張り裂ける思いで見つめていました。

 



この二日の間に、この相撲界で起こった出来事に
この横綱の雄姿に心を揺さぶられ、
大きな勇気をもらった人々は数えきれないことでしょう。

 

総理大臣のこのたった一言の称賛と共に、
伝説として語りつがれる第65代横綱貴乃花。

 

「感動した!」

               

ネバーギブアップネバーギブアップ

こんにちは


心に灯をともすおいどんです。


ずいぶん久しぶりの投稿になります。

たまらない実話を知りましたのでお届けします。


 

 

クロスカントリー。

 

紛れもないスポーツの一種ですが
この分野ほど様々な競技スタイルに分かれるものはありません。
 

 

 

長距離で草原地など整理されていない野山のコースを
駆け巡るのは陸上競技のクロスカントリー。

 



これを自動車で行うオフロード競技もクロスカントリーです。

 



自転車もバイクもありますね。




そしてもうひとつがクロスカントリースキー。



 

ノルディックスキーの一種で雪山を滑降するのではなく
積雪した野山を滑り抜けるスポーツです。
 


 

同じクロスカントリーでもこの中で最も知られていない競技は
スキーではないでしょうか。
 

 


このクロスカントリースキーの日本代表選手に
新田佳浩さんという方がいらっしゃいます。



 

岡山県西粟倉村。冬は雪に覆われる豪雪地帯。



 

この地に代々続く米農家に新田さんは生まれました。



 

新田さんがスキーを始めたのは4歳の頃。



 

この村の子供であればもの心ついた時分から
雪と戯れて遊ぶのが常です。

 



小学校に上がる前の小さな子供たちが
スキーを操る光景など珍しいことではありませんでした。
 

 


そんな土地に育った子供たちのスキーの技術は
成長と共に益々向上していきます。



 

新田さんも例外ではありませんでした。



 

そして小学校に入り運命的に出会ったのが
クロスカントリースキーでした。



 

新田さんは夢中になります。



 

メキメキと腕を上げる新田さんは
並み居るスキー大会の常勝選手となります。



 

3年生のときの地元大会での初出場初優勝を皮切りに
県大会優勝。



 

小学校卒業するまでの新田さんの家の床の間には
いくつもの優勝トロフィが並んだそうです。

 



しかし、そんな新田さんは中学になって壁にぶち当たります。



 

その理由は誰にも説明は要りませんでした。



 

両手でスキーのストックを使う健常者の選手に
勝てなくなったからでした。

 

 


健常者に勝てない・・・・。

 

 

そうです。新田さんは障がい者でした。
 


 

しかも左手の肘から先のない決定的なハンデを持っていたのです。
 


 

3歳の時、農機具のコンバインに左手を巻き込まれた
事故でした。
 


 

どうしても健常者に勝てない日々・・・・。


 

中学3年のときでした。


 

スキーをやめました。

 


 

新田さんの実力を認めていた周囲は
誰もが再三にわたって障がい者競技への復帰を勧めます。
 


 

頑として聞く耳を持たない新田さん。



 

健常者と戦って初めてスポーツと言える・・・・
そう思っていました。
 


 

二年後に迫る長野パラリンピックへの勧誘が来た際も
きっぱりと答えました。


 


「もうスキーとは関係ありませんから」

 



関係者は何度も新田さんの元を訪れたと言います。
 

 


その新田さんが一転して出場を決意します。



 

関係者から見せられた一本のビデオでした。



 

一人のスキーヤーが目にも止まらぬ速さで滑降しています。
 


 

新田さんは釘付けになりました。



 

何故か?



 

左手が無いのです。
 



 

ドイツの左手のない障がい者でした。



 

自分と同じ左手のない障がい者が
凄い速さで滑っている・・・。
 


 

競技生活に復帰した新田さん・・・
周囲の見立てどおりでした。
 


 

長野パラリンピックで8位、翌年の世界選手権で優勝
そしてソルトレイクパラリンピックでは見事銅メダルを
獲得したのです。



 

さあ次は悲願の金メダルを・・・・。
 



 

周囲も本人も当然のように
4年後のトリノパラリンピックに賭けました。


 


協会挙げての必勝トレーニングが始まります。
 


 

データに次ぐデータを駆使し、科学的に最速の出る
滑降フォームを作り上げます。
 

 


右手一本でついに健常者並みのスピードを達成した時は
金メダルが約束されたも同然でした。
 


 

そして迎えた3度目のパラリンピック、トリノ大会。



 

この大会が終わると、彼は引きこもります。
 


 

金メダル確実と云われながら・・・大敗したのです。
 


 

転倒。



 

片手ではすぐには起き上がれなかったのです。



 

引きこもり生活・・・。



 

引退の二文字・・・。
 


 

しかしなぜかもう一度やりたいと思った新田さん。
 


 

もう一度金メダルを目指すのです。



 

今まで忘れていたことをはっきり思い出した・・・




・・・からです。

 


そしてバンクーバー大会。


 

新田家が中継にくぎ付けになる中


 


10㌔コースと1㌔コースで、2個の金メダルを獲得します。
 

 


文字通り悲願の金メダル。
 

 


あの事故から26年が経ち29歳になっていました。
 

 

 

歓喜の周囲をよそに新田さんはとにかく早く
日本に帰りたくして仕方ありませんでした。
 

 


日本に凱旋した新田さん。
 


 

まっすぐに実家に戻ります。

 

 


そして真っ先にやったこと・・・。
 


 

2つの金メダルを92歳のおじいちゃんの首に掛けたのです。



 

あの時、引退を踏みとどまらせたのは




今まで忘れていたことをはっきり思い出した・・・




それが理由でした。




おじいちゃんの為に金メダルをとること



この目的を思い出したからです。




新田さんが左手を失った3歳の頃のコンバインの事故。




おじいちゃん子だった新田さんを
ことのほか可愛がっていたおじいちゃんでした。


 

事故の悪夢から毎日のように


「この子と一緒にわしは死ぬ。」
 

そう言って来たおじいちゃんでした。
 

 

金メダルをかけてあげながら
すすり泣く新田選手の隣には
おじいちゃんがいます。

 

二人は左手を握り合ったとたん

大粒の涙を流したと言います。

 

 


あの時



コンバインを運転していた人・・・。




おじいちゃんだったのです。

 


               

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んにちは


心に灯をともおいどんです!




ローカルテレビ局の報道記者がある小学生と出会います。

 



小学校の取材でした。



その小学校はわずか9人の児童しかいない過疎地の学校。




新入生が一人もいないこの学校。




廃校寸前でした。




これじゃ生徒たちがかわいそう・・・・。



そう思った校長先生・・・・



探してきたのはなんと三頭の子牛でした。



三頭の新入生です。



9人の児童とクラスメートの牛三頭・・・。




三頭の入学式の日、校長先生は児童たちとある約束をします。



それは子牛たちの体重が400キログラムとなったら
市場に出して食肉にする・・・というものでした。





おもしろい取材です。



そして、素朴な木造校舎、純粋な子供たち。



これに記者がハマります。

 


 

このまま取材を続けよう・・・



この学校が廃校になるまでその時まで取材を続けよう・・・・。



記者は純粋な子供たちと素直な牛たちに
強く惹かれていったのです。



子牛たち
運動会などの学校行事にも参加しました。



日曜日も誰かが登校してエサをやりました。





一人の女生徒がいました。



3
頭の牛の中で、強子(つよし)を担当した知美ちゃんです。



強子のことがもう可愛くてかわいくて仕方がありません。



牛のシッポをつかむと蹴られるという危険がありますが
彼女はいつもシッポをつかんで散歩をしていました。



それだけ強子との信頼感が人一倍強かったのです。




そんな彼らにとうとう別れの時がやってきます。



牛の卒業式です。



知美ちゃんたち子供らはこれ以上の涙があるかというくらい
一生分の涙を流したそうです。



その時の様子を見ていた記者はもらい泣きどころでは
なかったといいます。



これまで生きてきて、あんなに綺麗な涙を見たことが
あるだろうか。




なぜこんなに純粋な子供が育つのか?



土地柄なのか? 



家族なのか?



そんな彼女たちを育んだその学校が遂に廃校となり
取材は終わりを向かえます。



しかし記者はどうしてもあの知美ちゃんのことが気になります。




記者は知美ちゃんの「夢」を知っていたからです。




それは「牛のお医者さんになりたい」・・・という夢でした。




しかし獣医になるには難関大学を出ないといけないため
夢の実現は厳しいものになるだろうと
当時その記者は思っていました。




子供らしい可愛い夢だな・・・。

 



ある日、知美さんの家に電話してみると

「下宿して遠い高校に通っている」

とのこと。



聴くと地元岩手大学の農獣医学部を受検すると云います。



記者は驚きます。



彼女は「夢」を忘れていなかったのです。



高校入学直後の成績順位が最下位近くだったことに
ショックを受け「
3年間テレビを見ない」と誓って猛勉強。



親元を離れて猛勉強していたのです。

 


私立にはいけない。浪人はできない。国立・・・。




「高校3年間、テレビは見ない」と言う誓い・・・。




あの牛たちとのつながり・・・・。



テレビマンの心に火がつきました。

 


テレビ新潟 時田美昭 記者


彼女への密着取材を決意します。



「彼女の夢に密着し、見届けることが私の使命・・・」。




密着取材に応じた知美さんからのお願いはただ一つ



「大学に落ちたら放送しないで」




そして・・・合格。




時田記者も涙がとまらなかったといいます。



そして国家試験にも合格し獣医になった日・・・。



あれから16年の歳月が過ぎていました。

 


彼女を追った番組放送され反響を呼びます。



そしてこれが映画となりました。

 


『夢は牛のお医者さん』

 




知美さんの言葉がきらきらと光ります。

 

夢がかなったのではない。 
ようやく夢のスタートラインに
立っただけ。

               

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