今回は、レビューというか前回記事で気になったことについて少し書いてみます。

 

『『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』レビュー①~メンヘラ少女の系譜~』

 

前回記事では、現代つまり南条あやの世代においては、親子間の世代対立は解消されているということについて解説しましたが、これはあくまでこの本の著者である土井隆義氏がいうところの抽象的な他者、つまり抽象化された親世代と同じく抽象化された子世代との対立が解消されたにすぎず、やはり現在においても具体的な個々の家庭における親と子の価値観の対立は存在し続けています。

 

一応、土井隆義氏はこの本の中で、現在を親子間の世代対立が失われた時代と述べていると同時に、南条あやの父親との複雑な関係性についても解説している。

 

「父は私が薬を飲んでいることに関して気に入らないようです。昔の、プールに遊びに行くような元気な私に戻って欲しいそうです。って誰のせいで薬を飲み始めたのか根本を探れよボケ」(南条、一九九九年三月二日)

 

「誰のせいでリストカットしている部分があると思ってるんだ!と思いました。・・・私の心が吹っ飛びました。吹っ飛んじゃった吹っ飛んじゃったぽーん♪ピョペペッ。それでも(中略)どうしようもないヒトだから私が折れるしかない。と思って色々話しかけて、私の方に怒りの矛先が向くようにして怒りを受けて内側にため込んでみました。何で私がこんな目に遭わなくちゃいけないのかよくわかりません」(南条、一九九八年七月八日)

 

「好き勝手に生きて、いいんだね。私じゃ父の心を癒してあげられないんだね。じゃあ私の存在価値って、何なんだろう」(南条、一九九八年七月八日)

 

このような南条あやと父親との関係性に関して、土井氏は「親と子のタテの関係はすでに崩壊し、ここにはむしろ互いに補い合うような関係が成立している。」と述べています。果たして、現在の親子関係が互いに補い合うような相補的関係を形成しているかはわかりませんが、ただ、やはりここでも示されているのが類型的な親子関係というものが解消される中で、個と個同士の生身の関係性がむき出しになることである種のキツさが発生するということでしょう。

 

フロイトはエディプスコンプレックスなどで親と子の潜在的な類型的対立構造、つまり、誰にでも普遍し得るような典型的な親子関係のようなものをモデル化しました。もちろんそれぞれの時代におけるこのような対立構造は強い抑圧をもたらしそれはそれでキツいのですが、それでもあくまで類型化されており、それを乗り越えるための課題のようなものもまた見出しやすいという側面もあるでしょう。

 

一方で、現在の生身のリアルな親との対立というものは非常に掴み辛い、「親と子の対立とはこういうものだ」という典型的なパターンは解消され、非常に個別的なパーソナルな問題として個々人に降りかかってくる。親に理解されない子供というものは常に苦しいものですが、親の精神の機微を常に察して行動しなければならない子供は常に日常が地獄になります。おまけに、親世代もまた文化という生き方や振る舞い、人間関係の型のようなものが失われた時代を生きているために精神の安定性がない。情緒不安定で気分屋な親の気持ちを常に推察し先回りしてその感情をフォローしていくような行動を強制されることほど子供の精神をすり減らすことはないでしょう。

 

で、まあなんとなく前回記事を書いて自分の過去の親との関係を思い出していたのですが、私の両親はある意味両極端で父親は徹底した放任主義であり、母親は過保護で非常に世間体を気にするタイプでした。

 

母親というものはほとんど自分自身の価値観を有しておらず、あらゆる価値基準は「他人に迷惑をかけないか?」と「危険でないか?」の二つだけ。私は、大学生の時に家を出て一人暮らしを始めましたが、対立が最も深まった時期には、「それをしたら他人に迷惑がかかるでしょう!!」と言われるたびに気が狂いそうになるほどイラつかされました(最終的には、私が母親のいう事を徹底的に無視したことで、母親がブチ切れて私の部屋のドアをノコギリで切り始め・・・それをきっかけに家を出ることになりました)。

 

当時は、なぜこれほど「それをしたら誰誰に迷惑がかかるでしょう!!」という言葉にイラつくのかが分からなかったのですが、結局今から考えるなら、一切の価値を否定されたということに尽きるのだろうと思います。そんなに他人に迷惑を自殺するか、山にでも引きこもるしかないんじゃないか?と私は考えていました。

 

 安全ということに関しても徹底していました。テレビなどで何を見ても「こんなことをしたら危ない」と言っていた。ある日、私が皮肉で「そんなに何もかも危ないと考えるんだったら、家から一歩でも外に出たら車にひかれて死ぬかもしれないから、ずっと家に引きこもっていた方が良いね」と言ったら、「その通りだ」と言われました。その時に感じたのが「ああ、もうダメだなこの人・・・」ということ。

 

今なら、このような姿勢の何が不愉快であったのかが良く分かります。要は、この人は自分自身の主体的な価値を一切持たず、なおかつ自分の身の回りの人間がそれを持つことに関しても徹底的に否定していたワケです。そこで、一体何を基準に生きていたのかと言えば、抽象的な他者、抽象的な世間の価値観であってそれ以上のものを一切持たなかったし、多分持てなかった。もちろん、そんなニヒリスティックな姿勢で人生を生きることは大いに結構なのですが、問題だったのはそれを自分の近しい人すべてに求めた。

 

私の父親は、私が小学生の時に脱サラして起業し、海外と食品などの貿易を行う会社を立ち上げたのですが、このような母とのコミュニケーションは死ぬほどの苦痛だったのではないかと思います。事実、二人が仲良く楽しそうにしているところなど見たこともないし、おそらく今後見ることもないでしょう。

 

まあ、現在では、この人との接し方も良く分かってきて、言っていることを「ああ、そうですね」と生返事だけしておいて、実際にはいう事は何も聞かない、と。長い経験から、この人に何かを説明して説得して納得してもらうなどということが不可能であることは良く分かっているので、まともにやり取りしようと思えば気が狂いそうになることが分かっているので、何のやりとりもしません。

 

ただ、子供の時というのは、自由に使えるお金がないので、どうしても何をするにも何を買うにも一つ一つ親の許可と承認が必要になる。そのような状況で、(抽象的な世間が積極的に承認しうるような)あらゆる活動の価値を否定する人間を親に持ったことは結構しんどかっただろうなと思います。今、「もし子供時代に戻ったとしたらどうするか?」と考えますが、結局やっぱり自分で金を稼げるようになるまで色々我慢するという選択肢しかないのかな?と。ちなみに、南条あやも同じようなことを書いていて・・・

 

「とにもかくにも私は我慢をして、自分の幸せをつかみ取りたいと思っています。そう簡単には幸せはつかめないものだろうけど、今の状況よりは絶対に幸せなはずです。これから専門学校に行って就職して親の元から離れるまで、私の心は冷凍保存しておくことにします」(南条、一九九八年七月八日)

 

と。こういった気持ちは案外多くの人が理解できるのではないでしょうか。人はえてして、「幸福になるためには○○である」という強烈な思い込みに囚われる。そのような思い込みの中で、限られた条件の中で出来る限りのベストを尽くそうという気概が失われ、いつか訪れるかもしれない好条件に心を奪われます。まあ、言い換えるなら根本病というヤツですかね、「こういった状況は改善するにはまず○○が実現しなければならない!!」と、このように思い込むことで、○○が得られない状況で自分がみじめな状態であることの免罪符を得る。南条の場合であれば、「専門学校に行って就職して親の元から離れるまで」自分は幸福になれないと信じて、親元にいながら少しでも自分が幸せになるための努力を放棄し、なおかつ自分が幸せでないことの責任を親に押し付けて心の免罪符としていたのかもしれません。もちろん、当の本人は本気で「自分が幸せでないのはこういった親の元に生まれたからだ」と強く信じ込んでいるのですが・・・。ただし、この南条あやの不幸な点は、「親元を離れて就職すれば自分は幸せになれるのだ!!」と本気で信じることも出来ず、やはり将来に漠然とした不安を抱いていたことかもしれませんが。

 

「これからの人生のシミュレーションをしてみると、どんなに沢山の良い要素があっても最終的には真っ黒になってしまうんです。閉塞感に押し込まれて過呼吸。ひぃはぁ」(南条、一九九八年十二月一日)

 

まあ、なんというか現在というは、確かに一方では分かりやすい抽象化された親世代子世代の対立は表面上解消されたものの、その表面上の抽象化された対立関係の覆いが取れた状況でその下に隠されていたより具体的でリアリティーを持ちながら、同時にフワフワした分かりにくい個別的でパーソナルな対立構造が多くの人物を苦しめているのかもしれません。

 

また、私が最近街中などでたまに気になるのが、泣きわめいている子供に対して本気で怒っている母親などの姿です。一方で、まるでペットでも飼っているような気分で好き放題暴れまわる子供を放置してる親がいて、他方で、子供が泣いているときにその子を慰めるでもあやすでもなく、本気で怒って怒鳴りつける母親がいる。結局、これも親と子供とはかくあるべしという典型的な親子関係のモデルが失われ、何か自分の身に着けるアクセサリーの一部であるかのように非人格化され物質化された子供(とそのようにしか子供を扱えない親)と、まるで自分と子供が対等であるかのように考え、会社や学校の後輩を𠮟りつけるような感覚で子供に怒鳴り散らす親が出てきているのかな?と。

 

現在は、近代化を超えてポストモダンの時代に突入し、中世、近代を経て形作られてきた人々の生き方のモデルが失われすべての人々がフワフワと宙に浮いたような感覚で時代と社会を眺め、自分自身の人生を生きています。このような状況で人々は皆で共有していた価値観や確かなものを失い、かとって自分自身で独自の価値を形成するだけの強さや気概も持っていない。私は、このブログやニコニコ生放送などで、非常に単純化された分かりやすいネトウヨ思想、ネトサヨ思想を批判していますが、やはりこのような単純化された思想に飛びつく人々が多いということは、やはり皆が分かりやすい確かなものにすがりたいという願望を抱いていることの証左であるのかもしれません。

 

 

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