『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』土井 隆義のレビュー第三弾です。

 

『『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』レビュー①~メンヘラ少女の系譜~』

『『友だち地獄ー「空気を読む」世代のサバイバル』レビュー②~ジェネレーションコンフリクト~』

 

この本の第五章「ネット自殺のねじれたリアリティ」では、現代の若者が生の希薄化を感じる中でトラウマというものが生の実感を与えてくれる機能を持つと解説し、「トラウマのポジティブな希求」という奇妙な表現を用いて解説しています。

 

このようなメンタリティの下では、死を前提としない恋愛は不純なものとなり、傷のない身体も不純なものとなってしまう。このように考えるなら、前章で触れた現代のリストカットのような自傷行為も自らの純度を高めようとする試みとして理解することができる。だからそこには、イノセンス(純粋無垢)に対する憧れがつねに漂っているのだろう。たとえば、悲惨なトラウマ(心の傷)の持ち主が、傷ついた存在として自らの純粋さを誇示しうるように、手首に傷痕を負った若者も、イノセントな主体として自らの純粋さを自認できるのだろう。

 

それと同じく、大平光代の『だから、あなたも生きぬいて』や飯島愛の『プラトニック・セックス』、星野夏の『あおぞら』など、赤坂が「壮絶人生系」と名づけるセルフ・ノンフィクションの著者も、その多くは心の傷を負った人びとである。もちろん、その傷は、親子関係や友人関係など社会的な関係のなかで背負わされたものかもしれない。しかし、その尋常でない生き方や自助努力の凄まじさは、とうてい一般の人びとには真似のできるようなものではなく、彼らは自分たちとは根本的に異なった特別な人間であるかのような印象を与える。(中略)

 

どんな目標を選んでも相対化され、そこにいくらかコミットしても偽りの感覚に苛まれてしまう現実のリアリティ不足に慢性的に晒されているとき、そうした日常性の膜を突き破って、「現実の中の現実」に少しでも近づこうとすれば、その行為は、この現実を全否定するような極度に暴力的な形にならざるをえない。たとえば、自分自身では制御が不可能であり、しかも自らの存在のあり方を全規定してしまうような強圧的な現実として語られるトラウマ体験が、きわめて暴力的な様相を伴っているのもおそらくそのためだろう。

 

トラウマは、それをもたらした体験を全否定してしまいたくなるような、きわめてネガティブな現実にちがいない。健全であることが望ましいことだとすれば、トラウマの持ち主と診断されることは、回復の困難な病人という烙印を押されたに等しい。しかし、だからこそ、それは絶対的な拠り所としての役割を果たし、自らのアイデンティティを全面的に規定するものとして作用しうることになる。(中略)

 

ここに究極のネガティブな現実であるはずのトラウマを、きわめてポジティブに希求するという、一見すると奇妙だが、しかし現代的なメンタリティが生じることになる。近年、自らのトラウマ体験をむしろ積極的に語ることで、それを自らのアイデンティティの核にしようとする若者が目立つようになっている。このような人びとにとっては、自らの人生にトラウマ体験のないことのほうが、むしろ自らの生きづらさを増幅させる要因となっている。(中略)衝撃的なトラウマ体験を題材としたセルフ・ノンフィクションが大流行している背景もここにあるだろう。トラウマ語りが魅力的なのは、いわばねじれた憧れがそこに存在するからである。(前掲書)

 

かなり長い引用になってしまったのですが、順を追って解説します。まず、第一にキーワードになっているのが生や現実のリアリティの希薄化です。過去の解説記事でも説明しているように、現在においては人々の生きる型のようなものが解体され、文化的、思想的に社会や文化によって規定される生き方や思考の様式の重要性は低下し、むしろ自ら自由に自分自身の生き方や思想・心情を主体的に選択していくことが望ましいとされているワケです。しかし実はここで、ある種の逆説が発生します。社会が豊かになり、文化的な規定力、つまり社会や文化による抑圧が薄らぎ、人びとのライフスタイルが多様化することで、人々は逆に自分自身の選択に自信や確信が持てなくなってくるのです。

 

つまり、それまでAという文化圏に生まれたらA'という生き方を強いられた、そして、Bという文化圏に生まれればB’という生き方を強いられた、このような状況においては人々はほとんど何の疑問もなくA’という生き方B’という生き方をまっとうすることができます。

 

しかし現在、特に日本のような先進国では社会は人々に「A'でもB'でもC'でもD’でも自分の生きたい人生を生きろ!!」と要求する。このような状況では人々はA'という生き方を選択すれば「B'あるいはC'D'という生き方選択した方が良かったのではないか?」という思いに苛まれ、B'という生き方を選択すれば「A'あるいはC'D'という生き方を選択した方が良かったのではないか?」という思いに悩まされる・・・。このような状況で人々は自分自身の目標や選択が常に相対化されます。

 

これまではリベラルな思想潮流の中で「A'でもB'でもC'でもD'でも選べること」が良いことだと思われてきたのですが、現実に選択肢が多様化した時点で「A'にもB'にもC'にもD'にも満足できない」という状況が生まれてしまったというワケです。これが、どんな目標も相対化され、どれだけコミットしても偽りの感覚に苛まれてしまうという言葉の意味です。

 

では、なぜこのような状況でトラウマがアイデンティティの全面的な規定に繋がるのか?それは、一つにはトラウマ体験というものが自ら選択的に選び取った経験ではないということが根拠となります。「片親のもとで生まれた」「肉親から虐待を受けた」「生まれついての障害を持っている」「不治の病に侵された」「悪い男に騙されてソープに沈められた」「望まない妊娠から中絶を余儀なくなされた」etc…どれも自分自身で主体的に選び取った選択ではない。つまり、ある意味で自分自身の意思を超越した運命の中で起きた出来事なワケです。

 

ですので、これは非常に逆説的な状況として(あるいは単なるないものねだりとして)人々は自由になればなるほど、運命や必然といったものを希求するようになるのです。さらに、このような必然が自分自身のアイデンティティを規定するものであり、かつそれが人生のリアリティの希薄さ、生の空虚さを補うものであれば、必然的に(その体験の良い、悪いは別にして)より強烈な体験であることを願う。

 

過去には、漫画やアニメなどの作品でスポ根モノが流行し、少年ジャンプでは「友情・努力・勝利」が三原則となっていましたが、現在ではむしろ運命や才能、血筋や血統、他者から授けられた特殊能力などが重要な要素になることが多いです。つまり、主体的な選択や、後天的に努力によって身に着けた能力といったものの重要性が軽視され、なにか自分自身の関与が及ばない力によって運命が定められ、なおかつそれが劇的であればあるほど魅力的に映る。これこそが、「壮絶人生系」への憧れの衝動の本質なのではないでしょうか?

 

ちなみに、自分自身のことを振り返っても自分の努力で何かを勝ち得た経験以上に、自分にとって非常に不愉快でなおかつ過去の時点において避け難がったであろう体験が、何か原体験として自分自身の世界観やアイデンティティを形成しているように思います。一つには、高校を中退して引きこもり毎日一日15,6時間も寝たりしてほとんど他人と関わらずに過ごした時期の経験あって、それをさらに遡れば、四歳だか五歳くらいの時に自分の部屋の隣で自分以外の家族が家族会議を開いており、皆で「カツトシはどうやら頭がオカシイみたいだけど、果たして今後の人生をまともに生きていけるでしょうか?」などと本気で心配されていた場面を覗き見していた経験です。

 

 まあ、どちらも不愉快な体験であったのは確かだし、特に引きこもり時代は人生の最も良い時期であろう3年間ほどをドブに捨て、尚且つ現在に至るまで生活リズムイカレまくったまま修正が効かなかったりと結構強烈にネガティブな体験ではあるのですが、まあ言われてみればある種の生きづらさのようなものをこの辺りに責任転嫁して心の安定を得ているような気もします。もちろん、一人の人間がある環境において生きづらさのようなものを感じる場合にはその理由は極めて複合的であり、特定の単一の要因に帰することなど現実には不可能なのですが、とりあえず物語としてスッキリする、「まあ、自分はこういう人間なのだから・・・」と、それはある種の言い訳であり、自己正当化でもあるのですが、とりあえず自分の人生を物語として捉えた際に、収まりが良いのです。人は現実の状況の悪さよりもある種の不安感や不確定さみたいなものに恐怖し不快感を覚えるのであって、強烈なトラウマとか不快な体験というものはある種のスケープゴートして機能しうるのかなと。

 

 かつて精神分析は、なんの変哲もない普通の生き方をしてきた人々の記憶を捏造して、偽りの幼少期のトラウマを植え付けるということで批判されましたが、結局人はトラウマを求めるような精神性を有していて、そのようなトラウマ経験がなければ記憶を捏造してでっち上げてでもそのようなトラウマを欲しがるのでしょう。

 

最後に、この辺りの問題に関する本書の引用で終わりにしたいと思います。

 

したがって、このような現象は、トラウマを与えたと解釈される衝撃的な出来事の真偽とは区別して検討されなければならない。仮に、現在の生きづらさが衝撃的な過去の出来事のトラウマによるものだと専門家に診断されたとしよう。そして、その診断のおかげで自らの生きづらさの原因が分かり、その苦しみから幾らかでも 解放されたとしよう。楽になれたのは、はたして専門家の診断が正確に真理を突いていたからだろうか。確かにそうなのかもしれない。しかし、ここで重要なポイントとしは、トラウマをもたらした出来事が真実だったかどうか、あるいはトラウマという心の状態が真理であるかどうかではなく、むしろトラウマという心の状態についての説明が、現在の生きづらさを語る根拠として納得され、積極的に受容されえたという点にある。(前掲書)

 

 

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