以前、知人の女性に「お前が何を語っても言論の自由だが、それでもお前に恋愛についてだけは語って欲しくない」と言われたくらいの恋愛オンチのカツトシさんですが、先日超珍しく恋愛映画を観に行ったので感想を・・・。

 

まあ、感想としては「こんなもんかなぁ」と・・・やたらとカップルが多かったですが、まあカップルが○×▲の前に気分も盛り上げていく映画としては良いのかなぁと思いました。ちなみに、隣にオッサン一人で見てた客もいましたが終了後になんとも言えない表情で席を立っていきました。

 

個人的に気になったのはラストシーンです。この作品ではある日を境に主人公とヒロインが身体が入れ替わって生活を行うようになり、次第に入れ替わりになった男女が恋に落ちるという内容なのですが、ある日から完全に入れ替わっていた時のことを忘れ、また誰と入れ替わっていたのかや、相手の名前も忘れてしまうのですが、その後、普通の日常生活に戻った二人は互いにきっと自分には運命の人がいるのだという予感を感じて互いを探し合います。そして最後に二人の男女がすれ違った時に、「この人だ!!」という直観を得て互いに「君の名は?」と名前を聞き合うシーンで終わるのですが、個人的には最後はすれ違って終わりにして欲しかったなーと。

 

理由は二つあって、一つはやはり必然性がないんですね。例えば、完全な記憶喪失に陥った二人の男女のカップルがある時にすれ違った際に「アレ?」と思って互いに相手の名前を確認し合うとかあり得ないじゃないですか?

 

一方で、なんとなく「この人は自分の運命の人なんじゃないか?」て何の根拠も無しに感じてしまうくらいのことはあるかもしれない(往々にしてそれは単なる勘違いであることが多いのですがw)。さらに、作品を観ている観客は記憶を失ったこの二人の過去を知っているから、二人で運命の二人であることも知っている。本当は運命で結ばれているハズで、お互いに直感で「二人は運命の絆で結ばれてるんだ・・・」と理解しているハズの二人で道ですれ違う・・・互いに、「この人こそ運命の人だ・・・」と予感しながら声を掛けられずに通り過ぎてしまう。多分、この映画で最高に切ないシーンなのですが、結局、ご都合主義で結ばれちゃうんですねーw

 

あと、この作品はある大学教授の先生の解説によると、ケータイやネットで繋がっていて決してすれ違わない、いつでも待ち合わせでは確実に会えてしまう現代におけるすれ違い物語を描いているそうです。つまり、二人の運命がより沿いながら決して交わらない平行線のような関係として描かれているんですね。個人的には、こういう交わりそうで交わらない、互いに惹かれ合ってるのに決して結びつくことがないって関係に凄く切なさを感じるタイプなので、最後にご都合主義で結ばれてしまうと、「ここまで周到に準備した並行ラインの伏線はどうなったんだよおおお?!」ってなってしまいますw

 

そして、主人公とヒロインが結ばれて欲しくなかった二つ目の理由が、二人が交わってしまった瞬間に頭の中にしかなかったハズの二人の完璧な関係性が、現実世界の不完全に不格好な恋愛に堕ちてしまうように感じたからです。だって、主人公は就職も決まってないフリーター予備軍でヒロインは田舎からやってきて都会の生活に免疫のない家出した巫女様なワケで、まあ、凄くひ弱というか生活力がないカップルなんですね・・・こんなカップルが結ばれたって、大して幸せな道を歩めるとも思わないし、おそらく現実に交際がスタートした時点で互いの嫌な面が次々に露呈してくる。ちなみに、ニコ生で『君の名は』について解説した時に、コメントで書かれたのが「あのヒロインとか、現実世界だったら風俗堕ちしてるだろ・・・」というもので、収入の少ないフリーター主人公との生活を支えるために風俗で働くヒロインとかもう目も当てられないじゃないですか( ̄▽ ̄;)

 

一方で、二人が結ばれなければ、どこまでも理想の二人の関係性を夢想することが出来る。つまり、ヒロインを100%求める主人公に、主人公を100%求めるヒロインという理想的な(しかし、全く現実味のない)調和の取れた関係性がそこに存在するワケです。

 

現実世界では、もっと現実的なパートナーと結ばれつつ、心の中では自分の中にあったハズの運命の相手との理想の関係性があったはずなのだと信じて生きる・・・まあ、それも虚しいっちゃ虚しい心の在り方かもしれませんが、少なくとも二人の関係性だけを切り取って観ている観客にとっては、二人の完璧な恋愛を完璧なままで終わらせるためには、やはりあそこですれ違ったままにしておくべきだったんじゃないかなーと思います。

 

あとまあ、嫌な話をすると、結局、完璧な恋とか完璧な恋愛ってものは、「叶わなかった恋」と「舞い上がってしまって互いの現実が見えていない恋」と「すでに終わって心の中で美化された恋」(あとは「将来に実現すると予感している未来の恋」)の中にしかないんじゃないかと思うんですね。

 

大黒摩季の『いちばん近くにいてね』という曲の歌詞では、「愛が生活に負けたから~♪」なんてフレーズがあるのですが、片想いの時には頭の中で理想化されていた関係性が実際に結ばれてしまった瞬間に現実の日常生活の中に埋め込まれてしまう(もしかしたら、生活感のないホストなんかがモテるのは、こういう日常とか現実を感じさせないためかもしれません)。

 

ともかく、さすがに、どんなにピュアな視聴者でも、「君の名は」の二人が結婚して幸せな二人の生活を切り拓いていけると純粋に信じたりはしないと思うんですよ。

 

こういう認識が理想主義的と感じるか、全く夢のない現実主義とか感じるかは人それぞれでしょうけど、とりあえず俺はこんなふうに作品を見て感じました。

 

 

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