過去3回に渡って展開させてきた「愛国心」に関する議論ですが、ヤン・ウェイリーさんが、ここまでの議論をまとめてくれていたのでコメントとブログ記事を紹介します。
 
↓過去の愛国心議論についてはコチラ
 
 
↓ヤン・ウェンリーさんのブログ記事
 

無題
ちと長いですが、できるだけ端的に。
基本的に仰るとおりで、近代国家の形成と戦争は切っても切り離せませんし、フランスの国民皆兵制度に脅威を感じて、イタリアやドイツなどが近代国家化をすすめたのが事実でしょう。日本も同様でアメリカの脅威から近代国家化をすすめたのが事実でしょう。

最も近代国家以前も忠誠、忠義という概念があったわけで、これはヨーロッパでは騎士道だとか呼ばれるようなものですね。
国民皆兵制度になって忠誠だとか忠義という言葉が似合わなくなったので、愛国心という「大衆扇動型プロパガンダ」の必要性が出てきた、と言ったところでしょうか。
これは第2次世界大戦までの世界に当てはまることだと思うんですが、現在においては結構微妙になってきてますよね(笑)

なぜなら戦争技術が高度化して、職業軍人しか必要がなくなったわけですから。また国家の総力戦という事態も考えにくくなりましたし。
こうなると国家、特に先進国では「国民の愛国心に応えなくてもよくなる」わけで、それが福祉国家の衰退などなんじゃないでしょうか?
もっぱら愛国心が「戦争という実際的な闘争のため」ではなく、政治権力の争いに用いられる空疎なプロパガンダになってしまった、というような構造がカツトシ氏が「なんか変だぞ?」と思われる原因かもしれないなぁと。

私の場合は英語もしゃべれないし、日本食が好きだし、外国では生きていけないので「なんでこーなんの!もうちょっとやりようが有るでしょう!」なんですが(笑)
私はローカリストなんです(笑)グローバリストじゃなくて(笑)

この議題、面白そうなので私の方でも書いてみますですよ~
ヤン・ウェンリー命◆OgIneQVpHWWz
 
↑複数回にまたがったややこしい議論を簡潔にまとめていただきありがとうございました。総力戦が起こらなくなったことと愛国心の衰退と、福祉国家の衰退という視点は面白いと思いました。中野剛志さんや柴山桂太さんなどは、第二次大戦などのヨーロッパで起こった全面戦争、総力戦による国民の動員が、国民からの政府に対する福祉の要求の高まりに繋がったということを指摘していますが、そう考えると確かに全面戦争や国民の動員が無くなった現在において国民全体で助け合っていこうという福祉政策への支持が失われていったという過程は感覚的にも納得できる気はします。
 
愛国心には良いも悪いもない
愛国心がプロパガンダに利用されるだけで愛国心=プロパガンダではない。
国家の文化的側面に愛着を持つことが自然発生的な感情だからこそプロパガンダに利用される。
現在の日本で宗教が戦争のプロパガンダに利用できそうにないことを考えると、ある種の妥当性を持っているからこそプロパガンダに利用できると考えます。
戦争のために無から愛国心を作り出したのではなく、人間の感情を利用しているというわけです。

また、形成された要因により社会学的産物に愛着を持つのが特殊な感情であると考えるのは無理があると感じます。
現状がどうであろうと関係ない言っているに等しいからです。

愛国心が自然な感情だからこそ利用され、危険性があるのであって、
それを取るに足らないものであるというような論は不誠実に感じます。

ネトウヨがクソだ!
⇒愛国心は悪い
というように反対に振れているようにしか見えません。
gege 2017-01-31 00:42:55
 
えー、一応愛国心を全面的に否定しているというワケではなく、少なくとも現在保守を自称する論壇やコミュニティーの中であまりにもナイーブに愛国心を肯定し過ぎているのではないか?という点に関して疑問を提示したつもりです。また、国民国家がすでに形成された現状において愛国心が自然な感情であるという側面は否定しませんが、また同時にそのもともとあった自然な感情が妙なプロパガンダによって歪んだカタチで増幅されている可能性も考慮に入れるべきではないでしょうか。特に、先のヤン・ウェンリーさんのコメントにあるように、かつての状況では愛国心を国民の戦争動員のためのプロパガンダに利用することが仕方なかったという側面があるものの現状においては明らかに特定の団体や組織への歪んだ忠誠心を高めるためのプロパガンダに利用されている(可能性がある)ということを考慮に入れるなら、やはりそのような胡散臭いカタチに変容されつつある(ある程度自然な感情としての側面を持った)「愛国心」という感情について一定の猜疑心、警戒心を持つこともおそらく必要でしょう。

愛国心や愛社精神、その他の義務感も、扇動や大義名分に利用されやすいことは事実。
>そもそも、「自分の国を愛する」という概念自体が日本では国民国家が
>形成された明治以降に発明されたものであり、様々な要因によって政治的意図を
>もって引かれた国境線の内側の地域や人間のみに特別の愛情や親近感を抱くという
>感情がそもそも自然発生的な感情であるワケがありません。

とりあえず日本の場合、明治以降の愛国心というものは、私は愛郷心に言い換えられると思っています。

>そもそも国家というものがある種の人工物、政治的、社会学的産物であり、
>そのような人工物に対する愛が人間本来の自然な感情であると考えるのは
>あまりにもナイーブすぎると私は考えます

移民国家や人工国家の場合は、教育や法律等々により矯正された「人工的産物」と考えられなくはないです。

ただ、同胞や同郷の者との連帯に快感を覚えるのは人間らしい自然な感情のように私は思っていて、たとえば兄弟や親戚に成功者がいれば誇らしいし、地元の学校が全国大会へ出場すれば地域をあげて支援しますし、特に阪神ファンでもないけれど優勝すれば活気付くから応援するし、ノンポリであっても野球やサッカーの国際試合では日の丸を背負った選手を懸命に応援します。

そういった「連帯可能なコミュニティの最大」が現在は国民国家だというだけのことで、これも例えば宇宙人との貿易や戦争を経験するようになれば、「地球を……なめるなよ!」(ピッコロ or テラフォーマーズ)みたいに、連帯できるコミュニティの最大は「地球」になると私は考えています。
ポルシェ万次郎 2017-01-31 16:11:31
 
大分テーマから逸れてしまうと思うのですが、最後の連帯できるコミュニティーという議論は面白いかなーと。文化的な同質性、差異性というものはあくまで相対的なものであって、東京と大阪の文化は、日本人の感覚からすると違うものとして認識されるものですが、アメリカ人やヨーロッパ人からすると同じ「日本文化」でくくられる同質的な文化として認識されるわけです。同様に、欧州文化だって、日本人からすれば大きなヨーロッパという括りですが、欧州圏内ではおそらくドイツとフランスなどは全然違う文化として認識しているでしょう。
 
つまり、火星から巨大ゴキブリ生物が襲来してきた時に、その巨大ゴキブリという強烈な差異性が現れ、それが認識された瞬間にアジアとヨーロッパというような全然違うハズの文化が総体的に認識の中で同質化されるワケです(人間とゴキブリでは全然違いますからねw)。
 
ですので、差異性、同質性はあくまでどこまでも相対的なもので、絶対的な差異性を持つと思える文化も、より強烈な差異性と遭遇した場合、その差異性は相対化されて、一定の同質性が現れる。
 
えー、大分回数を重ねて深めてきた「愛国心」議論なのですが、まだまだ様々な重要な論点が残されていると思いますので、今後も保守思想のあり方などを交えながらさらに議論を継続し論点を深めていきたいと思います。
 
 
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