森友学園と、森友学園の経営者が運営していた愛国幼稚園の件で話題になっている教育勅語ですが、現在相も変わらず右派と左派で教育勅語反対派と賛成派に分かれて議論という名の罵り合戦を繰り広げています・・・まあ、私自身は教育勅語反対派なのですが、とりあえず、今回の問題について簡単に論点整理していきたいと思います。

 

今回参考にするのは、『脱「愛国カルト」のススメ』というブログのこちらの記事です。

 

『なぜ教育勅語を学校で教えてはいけないのかわかるページ』

 

とりあえず、教育勅語を学校で教えることの問題点を挙げていくと私が考えるに大きく分けて3つに分類することが出来ます。

 

①一条校(学校教育法第1条で定められた学校)である幼稚園で教育勅語を教えることが、教育基本法に反すること

 

②個人の内面の問題であるべき道徳に関して、天皇からの勅語というカタチで外部から(上から)押し付けられるカタチで規範を形成することの問題

 

③個別の徳目の問題

 

まず、①の一条校で教育勅語を教えることが教育基本法違反であることは、教育勅語が失効した経緯から明らかです。

 

教育勅語 戦前の教育の基本原理を示すものとして1890年に明治天皇の言葉として出されました。親孝行や兄弟仲良くなど当たり前に思える徳目を並べていますが、それらをすべて天皇への命がけの忠義に結び付け、「重大事態があれば天皇のために命を投げ出せ」と徹底して教え込んだのが特徴で、軍国主義教育の主柱となりました。敗戦後、憲法、教育基本法の理念に反するとして1948年、国会の決議で公式に否定されました。

 

(しんぶん赤旗 「教育勅語」教育は不適切 森友学園の幼稚園教育内容 宮本議員追及に文科相 衆院予算委分科会 より)

 

さらに、詳しい経緯に関しては、コチラのブログで解説してあります。

 

『古村治彦の政治情報紹介・分析ブログ』

「教育勅語が廃止されたのは日本国憲法に反するから」

 

ちなみに、先日私が観たとある報道番組では、元文科省官僚の寺脇研氏が、今回このような幼稚園が設立の許認可を得たことに関して、「許認可を与えるチェック機関も、まさかこのような明らかに教育基本法に反する時代錯誤な教育の強制が行われているとは想像もしなかったのではないか?」という趣旨の発言をしていました。現在の学校や幼稚園で、まさか、「いざという時には天皇陛下のために命を投げ出せ!!」と説く教育勅語を教えるとは考えもしなかったという事でしょう・・・つまり、余りにも論外中の論外であってチェックしようなどとも思わなかったということです( ̄▽ ̄;)

 

 

で、まあ②の問題は結構ややこしい問題になっていくのでそのうち解説するとして、②と③の問題が結構ややこしい複合的な問題になっていることについて解説しますね。

 

先の『脱「愛国カルト」のススメ』ブログでは、教育勅語の賛成派が多い理由の一つとして、現代語訳の意図的な誤訳、もしくは改竄という問題を挙げています。

 

かなり長くなってしまうのですが、引用しますね。

 

・天皇から下賜された教育勅語という点を隠す現代語訳


まず、明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」(以下「現代語訳」)は、出だしがこうなっています。


>>私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。


しかし、原文はこうなのです。


>>朕󠄁惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ


現代語訳では「私は」で始まっていますが、原文は「朕」です。つまり、教育勅語の主語は天皇であり、国民に与えたという形をとっています。まず、そこをしっかり認識しましょう。


つぎに、現代語訳では「私たちの祖先が…日本の国をおはじめになった」と書いてありますが、これは明確に意図的な誤訳です。


原文は、「我が皇祖皇宗国を肇(はじ)むること…」となっています。「皇祖皇宗」とは「天照大神に始まるとされる、天皇歴代の祖先」という意味です(コトバンク参照)。現代語訳だと「私たちの祖先が…」なんて書き、あたかも「国民のみんなで頑張って国を作ってきた」と勘違いしそうですが、実際には「日本は皇室が作った」ということが書いてあるのです。原文は「我が皇祖皇宗」なのに、現代語訳は「私『たち』の祖先」となっていて、明らかに騙す意図がある、卑怯な意図的誤訳です。


後半でも、原文には


>>斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓


と書いてあるのに、現代語訳は


>>このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として


となっており、「我カ皇祖皇宗ノ遺訓」(皇室代々の教え)を、我々国民の先祖が守ってきた教訓であるかのように改竄しています。教育勅語においては、日本を作ったのも、「国民の歩むべき道」を決めたのも、「皇祖皇宗」であるとしているのですが、そこを現代語訳は意図的に改竄し、隠蔽しているのです。


・「皇運」を「国の平和と安全」と訳す卑怯な現代語訳


さらに、


>>一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ


という箇所を、「国民道徳協会訳文」は


>>非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。


と訳してあります。


はっきり言って、この訳は卑怯にもほどがあります。これだと現代のわれわれの道徳観とも特別反することがない普通の内容に聞こえますが、原文は「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ」です。「天壌無窮」とは、「天と地とともに永遠に極まりなく続くさま」を意味します(新明解四字熟語辞典)。「皇運」とは言うまでもなく「皇室の運命」(大辞林)。「扶翼」とは「助け守る」という意味です(大辞林)。


つまり、ここの正しい現代語訳は、


「一旦危機があれば、勇気をもって公(おおやけ)に奉仕して、永遠に続く皇室の運命を助けて守るようにしなさい」


となるのです。


明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、「国と平和と安全に奉仕」という、現代人の感覚としても問題がないことが書いてあるかのように騙していますが、実際には「皇室を守れ」と書いてあるのです。


「『国』に危機が迫ったら『皇運』(皇室の運命)を守れ」となってるわけですし、「皇運」を現代語訳が「国」と訳していることからも、教育勅語は皇室と日本とを同一視していることがわかります。教育勅語は明治憲法史観に基づいていることがはっきりとわかるのですが、ここも「国民道徳協会」という謎組織に改竄された現代語訳を読んだだけではわからないところです。

・「臣民」を隠す現代語訳


現代語訳のもう一つ卑怯な点は、「臣民」という言葉を隠しているところです。


「臣」という字が「家臣」「臣下」「忠臣」という言葉に用いられることからもわかる通り、「臣」とは「主君に仕える者。統治をうける者。けらい」という意味です。そして「臣民」とは「君主国において、君主の支配の対象となる人々」(デジタル大辞泉)であり、国民を天皇の支配下に置く、天皇主権の明治憲法の考え方です。現代の日本国憲法の国民主権とは相いれない言葉なのです。


ところが、原文と現代語訳を比べると、このようになっています。


「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ」
→「国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて」


「爾臣民父母ニ孝ニ」
→「 国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし」


「朕󠄁爾臣民ト俱ニ」
→「私もまた国民の皆さんと共に」


「爾(なんじ)」とは「多く、対等またはそれ以下の人に用いられる」二人称です(デジタル大辞泉)。「我カ臣民」「爾臣民」という表現からもわかる通り、教育勅語は天皇が家来である国民に命令する形をとっているのですが、現代語訳は「国民の皆さんは」などと訳して、実に卑怯なものです。


さらに、教育勅語の最大の問題点が、以下の個所です。


>>一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ
>>是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン
>>斯ノ道󠄁ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺󠄁訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵󠄁守スヘキ所󠄁


明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、卑怯にも「非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります」などと、ごく当たり前のことが書いてあるかのように偽装して訳していますが、実際には、


「皇運ヲ扶翼」(天皇家の運命を助けること)は「朕カ忠良ノ臣民」(天皇の忠実な家来)として当然の努めであり、それは「皇祖皇宗ノ遺訓」(代々の天皇家が残してきた教え)であり、「子孫臣民」が順守しなくてはならないものだ


と言っているのです。明治神宮HPの「国民道徳協会訳文」は、「皇祖皇宗ノ遺訓」を「私たちの祖先が今日まで身をもって示し残された伝統的美風」などと、全く原文に書いていない大嘘を書いているのです。完全に改竄ですね。古文の現代語訳の試験なら0点になるところです。


教育勅語には、いわゆる「12の徳目」が書かれています。「親孝行しろ」とか「友達と仲良くしろ」とか「勉学に励め」とか、すごく当たり前のいいことが書いてあります。ここを読んで、「教育勅語は素晴らしい」と言う人が少なくありませんが、それらの徳目はすべて「朕カ忠良ノ臣民」(天皇の忠実な家来)として守るべき当然の務めだと書いてあるのです。


教育勅語の目的は、天皇の「忠良な臣民」を作ることです。いいことが書いてあるように見える12の徳目も、その目的は天皇の「忠良な臣民」になることです。教育勅語がいかに現代の国民主権の考え方と相いれないものか、お分かりいただけるのではないでしょうか。「教育勅語が民主的でない」と言われるのは、この明治憲法の天皇主権に基づき、国民を天皇の臣下(臣民)とみなす考え方に貫かれているからなのです。


端的に言いますと、「朕カ忠良ノ臣民」というこの7文字だけで、教育勅語は現在の日本国で使う文言としては余裕でアウトです。

 

つまり、教育勅語というのは、国民精神としての道徳規範を示したものではなく、天皇の「忠実な臣民」を作ることが目的です。

 

「教育勅語には良いことも書いてある!!」という主張は、これらの批判に耐え得るものではなく、教育勅語に良いことが書いてあったとしても、最低でもそのエッセンスを抽出したカタチで現代社会あるいは日本国憲法の精神に適合したカタチで作り直す必要があります。

 

今回の問題に関して思ったのが、結構保守派にとって厳しい現実で、ここにも道徳的不可逆性が生じていることです(道徳的な不可逆性については過去記事で参照して下さい『愛国幼稚園と大日本帝国パロディーと戦後民主主義批判の難しさについて・・・(※コメント返し中心)』)。

 

GHQから押し付けられた憲法を否定するためには、いわゆる戦後民主主義を超えた権威、つまり明治維新の時に活用されたようないわゆる天皇のご意向のようなものが必要になるのですが、日本国憲法や教育基本法では、そのような国民の内面の自由、思想の信条の自由を超越するような規範や権威をシステマチックに否定しています。

 

戦後レジームの克服を唱え、日本国憲法を否定したいと考えている保守派の多くが教育基本法の改正を重視したのはある意味で当然の帰結で、現行憲法を否定するためには、まず内面の自由を天皇や皇室の権威の下位に位置付ける必要があります。つまり、天皇、皇室のご意向に適う範囲まで内面の自由の範囲を狭める必要があるワケです。

 

一応、議論を分かりやすく整理するために、二つの志向に思想を単純化すると、

 

天皇の権威⇒戦後レジーム・現行憲法の否定⇒内面の自由の部分的制限

 

という戦後レジーム脱却志向(もっとも私としてはより単純に「戦前回帰志向」と呼びたいのですが)のトライアングルが一方に存在し、それを現行のシステムによる

 

現行憲法⇒教育基本法⇒内面の自由の肯定と個の内面の自由を超越した権威の否定

 

というトライアングルによってガードしているのですね(具体的には、憲法を改正するには教育基本法を改正しなければならないが、憲法改正しやすいように教育基本法を改正するには憲法を変えなければいけないというジレンマ)。

 

これを、もっと極限まで単純化すると

 

天皇の権威>内面の自由

 

という権威派と、

 

内面の自由>天皇の権威

 

という個人主義派の二つに分類することが出来るのではないかと思います。

 

もっとも、このような単純な図式をややこしくしているのは、当の今上天皇が日本国憲法を重視するリベラルな後者の志向を示していること、それから、前者の権威派が異様なまでに不敬であり、どう見ても皇室の御意向と様々な面で対立しているように見える点です。前者を天皇派や皇室派とせずに、あえて「権威派」と表現したのは、この前者の「権威派」がどう見ても、天皇皇室を敬っているようには見えないからです。

 

また、前者の権威派の主張が明らかに矛盾していたり、意味不明で妙に歯切れの悪い印象を残すことが多い理由の一つは、彼らも完全に表立っては民主主義的な価値観を否定出来ないからです。つまり、民主主義的な価値観を否定したいのに、表立って「私たちは民主主義的な価値やプロセスを重視しません!!」と宣言することは出来ない。なので、明らかに矛盾した主張をしたままとりあえず、メディアコントロールや数の論理でゴリ押ししていくみたいなことを繰り返すことになります。

 

とりあえず、教育勅語の問題点をいくつかまとめて、補足でアレコレ解説してみましたが長くなってしまったので今回はここまでで・・・また次回以降で議論を深めていきたいと思います。

 

 

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