えー、最近ひたすら『進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来』(著 マット・ リドレー)のレビューを書いてアクセスがだだ下がり状態なのですが、それでも今回もこの本のレビューを書きますw今回は第五弾ですね。

 

『『進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来』著 マット・ リドレー レビュー①』

『『進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来』レビュー②~実存主義と生きる意味について~』

『『進化は万能である』レビュー③~公的教育プログラムと創発的学習 前編~』

『『進化は万能である』レビュー④~公的教育プログラムと創発的学習 中編~』

 

前回記事では、テクノロジーの進化による新しいオンライン学習のあり方について解説しましたが、今回は学習の評価の在り方、要は試験の方法の変化について考えてみたいと思います。

 

ところで、本題に入る前に、少し前回のオンラインの学習に関する問題について補足の説明を加えておくと、とりあえず、現在の状況でおおよそあらゆる講義などが(少なくとも先進国においては)一応オンラインで受講可能に出来るだけの技術的な条件は揃っているように思います。

 

アメリカでは、現時点で次々にオンラインの優れた講義が公開されているそうですが、日本では中々進んでいないというのが現状でしょう。では、何故日本ではオンラインの優れた公開講座の数が少ないのかと言えば、まず一つはコストや労力がかかる割に公開講座を行うことにほとんどメリットがないということだと思います。

 

そして、もう一つは、講座を公開してもほとんど誰も観ないという問題もあります。まあ、要は講義をネット上で公開する労力に対してメリットはほとんどないのでインセンティブが存在せず、また、インターネットの利用者もほとんどは下らないなんとかしゃちょーとかなんとかキンとかのしょーもない下らない内容のコンテンツをダラダラと消費することが目的なので、真面目に哲学や歴史や思想などに関する講義用のコンテンツを頑張って作ってもほとんど誰も観ないという現状があります。

 

あと、まあ朗読音声などで優れた書籍の内容をそのまま朗読してアップするなどという方法もあり得ますが、ただこの場合は著作権に引っかかるので違法行為になってしまいます。書籍の著作権は作者の死後五〇年間は継続するので、結構この著作権の壁は大きいですね・・・( ̄▽ ̄;)

 

もちろん、コンテンツの受け手の意識が変化すれば状況も変わってくるのかもしれませんが、一方で学習意欲の高い方や、学校の試験などとは関係ないしに知性やら教養やらを身に着けたいと考える人の割合は常におおよそ一定割合でしょうからなかなか難しいのが現状でしょう。

 

まあ、残念なことに現状では比較的政治意識の高い人であっても、KAZUYAチャンネルやらSAKURAチャンネルやらのヘイトコンテンツを観て民進党やら中国やら韓国の悪口を言ってそれで満足して終わってします人間が大多数です。

 

KAZUYA氏に関しては、「僕の動画は入り口です!!」などと言い続けながらかれこれ4年以上2分間政治時事ネタクッキング劇場みたいな動画を作り続けてますからね・・・入口がそのまま出口になってるどこでもドア状態です。まあ、「この程度の民度の国民に対して真面目に優れたコンテンツを提供しても無駄だ」というプラグマティックな判断のもとにオンラインの公開講座を作らないという判断をしている大学教授などがいるとするなら、私はその判断を否定しません(´-∀-`;)

 

と、まあ初っ端から嫌な感じの話をしてしまいましたが、ここから本題、今後の学習や教育プログラムにおける試験制度のあり方についてです。

 

この自己学習最大の難点は評価システムにある、とミトラは考えている。試験が記憶と暗記能力を調べるものである限り、自分で自分を教育することにさしたる意味はなく、学校も新たな形態を生み出すことにはならないだろう。たとえば、最近イギリスで行われた試験に出た設問に、「牛角湖(ぎゅうかくこ)とは何か?」というものがある。これについて、少し考えてみよう。植民地の責任者が何らかの問題について判断を求められ、地元民の案内で川を下るようなことがあった時代なら、この問いの答えはあらかじめ知っていれば有益な情報かもしれない。だが現在では、牛角湖について何か知る必要があると思われる一握りの人にしても、スマートフォンで調べればすぐにわかる。しかし、試験に「自己相似性とは何か、この分野で最新の発見は何か?」のような問いが出るなら、試験会場でインターネットの使用を許可するしかない、そうなればすべてが変わる、とミトラは述べる。

 

ちなみに、自己相似性でググるとWikipediaの『自己相似』の項がトップに表示されます。

 

自己相似 (じこそうじ; self-similar) とは、何らかの意味で全体と部分とが相似であることをさす言葉である。(中略)図形においては、ある図形の断片を取ってきたとき、それより小さな断片の形状と図形全体の形状とが相似である場合を指す。

 

(Wikipedia『自己相似』 より)

 

画像検索で調べるともっと分かりやすいですね。

 

 

↑こんな感じの図形のことらしいです。

 

ついでに「自己相似性 最新の研究成果」でググると、「高トラフィック観測・分析法に関する技術調査」と題する100ページ超のレポートが検索トップに表示されます・・・うむ分からん(;'∀')

 

ところで、先の文章を読んでいた思い出したのが大学の、ノートや参考書の持ち込み可のテストに関してです。学生だった当時は「参考書持ち込み自由だったら、誰でも問題解けるだろ!!」と思ったのですが、今後は参考書の持ち込み可どころか、インターネットの末端まで持ち込みが可能になるかもしれません。

 

また、現在Googleグラスというメガネにコンピューターを埋め込んでネットに接続できるようなツールも開発されており、今後さらに技術が進んでコンタクトレンズのような末端(あるいはそこからさらに進んで眼球や脳内に埋め込むような末端)が開発されたら、「試験中のカンニングを防止することは現実的に不可能になるのでは?」と思っていたのですが、先のような試験形式であれば、もしかしたらカンニングという概念すら無くなり、試験はインターネットを活用して複数人で協力しながら課題を解いていくような形式になっているかもしれません・・・複数人で与えられた課題を解いていくとか少し前に流行ったデスゲームみたいですね(笑)

 

ともあれ、前回取り上げた学習形態の変化と、今回の取り上げた試験制度の変化の二つの変化が起これば自ずと、それまでのトップダウン式に教師が生徒に上からモノを教えて暗記させるという形態の教育方法は時代遅れの産物となってくるでしょう。もちろん、一定程度の基礎的な知識は必ず必要ですし、現在の教育形態がそのような基本的な知識を学習するために体系化されたという意味においては優れたプログラムであることは間違いありません。しかし、このようなプログラムの最大の問題点の一つは学習者の意欲を全く喚起しないということでしょうw

 

まあ、かつて文科省の主導したゆとり学習が失敗し、再度「詰込み型」の学習の効果の見直しなどの流れも起こったものの、今後のテクノロジーの進化と共に、何度も自発的学習、創発的学習への教育プログラムの進化への試みは続けられるでしょう。

 

このような新たなボトムアップ型の自発的学習においては、生徒に対する学習への意欲づけは非常に重要な要素の一つとなります。その時、親や教師は生徒の「何故、勉強する必要があるのですか?」という問いかけに対して、「良い大学に入って、良い企業に就職するためです!!」とか「とにかく、この数学の公式と歴史の年号を頭に入れなさい!!」とかそういった何の返答にもなっていないような返答をすることは出来なくなります(そもそも、「良い大学に入るため」という答えはある意味メタな次元の返答であって、「そもそもこの知識に何の意味があるのか?」という問いの返答としては斜め上の受け答えであると言わざるを得ません)。

 

生徒が、自分自身で課題を定めて、その自分で定めた課題に対して答えを見つけていく。教師は、その生徒が自分で定めた課題、生徒が見つけ出した応えに対して意味付けを与えていく。このような意味付けに関して定型的な回答は存在しません。それぞれの課題、それぞれの答えに関してそれぞれ固有の意味付けと解釈が存在するでしょう。このような問いかけは初等中等教育の段階で行う。

 

あらゆる行動や思考、インプットとアウトプットに一個一個意識的に意味付けを与えていくというのはある意味でしんどい作業ではありますが、しかしこれをしんどいと感じるのはそれまで私たちがそのような作業を怠ってきた証拠であるかもしれません。

 

また、意味を定義づけられないモノ、価値を定義づけられないモノに関して価値を認めないような人間が溢れてくればそれはそれで社会的には不安定になるかもしれません(我々は、往々にして社会的慣習に対して意味を感じるという点において不感症のまま従うことで社会生活を円滑に行っているという面がありますから)。

 

短期的には様々な失敗や混乱もあるかもしれませんが、新しい教育の形態への移行が完成した時点から過去の(つまり現在の)古い教育方法を眺めた時、現在の我々が遠い過去の奴隷の労働や人生を無為で抑圧的で無味乾燥な悲惨な労働であり人生であると感じるのと同程度に、「この時代の学習形態は無為で抑圧的で無味乾燥な学習形態であった」と感じるかもしれません。もっとも、そのような新しい形態の学習がそのようなものであるかを、現在の時点から正確に予測することは不可能なのですが・・・。

 

教育の真の目的は、トップダウンの幻想によって歪められていることがあまりに多い。公教育が奨学金を増やし、知識を拡大しようとしている例はないか、あったにしても稀だ。むしろ公教育は、従順で愛国心を持ち、経済成長に貢献し、最新のイデオロギーに洗脳された国民の育成を目指すことがほとんどだ。「公教育の目的が啓蒙であることはまずない。それはできる限り大勢の国民を画一的で安全な型にはめ込み、標準的な国民を育てて意見の相違や独自性をなくすことにある」とH・L・メンケンは述べた。これが、イノベーションや教育の進歩がひどく欠如していても、権力者が憂慮しない理由の一つだ。スティーヴン・デイヴィスによると、今日の学校教育を終えているかどうかはその若者が与えられた仕事に取組み、言われたとおり行動するよう教化されているかどうかの指標でしかないが、これこそまさにホーレス・マンが臨んだことだった。とにかく左翼の政治家は予算の用途にこだわり、右翼の政治家はカリキュラムや指導法の改革にこだわる。けれども、どちらも教育は個人ではなく国家レベルの問題と考えている。教育が個人に及ぼす影響は、それは国家にもたらす影響に比べれば二の次の問題なのだ。

 

結局、ここでもインセンティブの問題が出てきます。そもそも、教育とは国家や企業(あるいは場合によっては軍隊)の命令を忠実に遂行するコマを作るためのプロセスであるという意識が存在し続ける限り、自発的、創発的学習プロセスへの転換は成功しないでしょう。

 

しかし、それでも少しづつ変化は起こっており、未来のどこかの段階で確実に変革は起こっているのではないかと思います。

 

教育は特殊創造説的な思考に支配されている。カリキュラムはあまりに杓子定規で、柔軟性に乏しい。教師は生徒や自分自身の力を伸ばすというより、試験に備えて教えるよう奨励される。教科書は自分で考えるのではなく模範的な考えを学ぶための指針に満ち、教育メソッドは学びより指導に詳しく、自己学習の可能性は無視され、政府主導型の学校教育は何の疑いもなく受け入れられ、ある教育支出が正当であるか否かは、個人ではなく国家が被るとされる恩恵の多寡によって測られる。だが私は、教育が学校なくして起き、教師は必要なく、小学校での児童中心の学習が答えであり、政府が教育にある程度関与することが望ましくないと主張しているわけではない。こうしたことはもちろん大事だ。しかし、まだ誰も試したことのない道がある。政治家と教師がともに手を携え、最高の教育が進化によって生まれ出るよう仕向け、国家は独裁者ではなく支援者となり、生徒や学生は考えを上から押しつけられるのではなく学ぶよう促され、熱心な学習者が体制の奴隷ではなく主人であるような教育だ。

教育を進化させようではないか。

 

一応、今回後編としましたが、もう少しこの創発的学習に関しては書きたいことがあるので、次回は実践編と題して、この創発的学習の実践例を挙げていきたいと思います。

 

 

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