原発事故に揺れる街へ~常磐線不通区間を結ぶ仙台-相馬・原ノ町高速バスと相馬-原ノ町部分開通区間~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成25年5月の土曜日の昼下がり、仕事を終えた僕は、腕時計をにらみながら、タクシーで仙台駅前に乗りつけた。

駅前広場を覆う巨大なペデストリアンデッキや、緑の並木が豊かな大通りを行き交う大勢の人々の姿は活気に溢れていて、車の往来も激しい。
さんさんと降り注ぐ陽の光を浴びている並木の葉ずれと輝きが目にしみる。


僕が目指しているのは、仙台駅西口から1ブロック離れたあおば通りの高速バスターミナルを、14時20分に出発する相馬行き高速バスである。

東日本大震災後、初めての東北訪問で、ぜひとも実行したかったこと、それは被災地をこの目で見ることだった。
特に、未だに事故収束の目処が立たない福島第一原子力発電所周辺まで、公共交通機関で、近づけるだけ近づいてみたかったのである。

首都圏や東北各地へ向かう高速バスがひっきりなしに出入りする乗り場では、バスを待つ乗客の列が錯綜し、発車時刻の数分前に横付けされた相馬行きには地元客らしい風体の20人ほどが乗り込んだ。
バスに乗り合わせた人々を見れば、心が粛然とする。
この方々が、2年前の災厄を乗り越えてきたのだ、と。
福島原発周辺に住み、その不安定な動向に影響を受け続けてきた人々なのだ、と。

このバスが走る沿線は、津波と原発事故の影響で鉄道が寸断され、住民は地元の大切な足を奪われたままである。
東京の日暮里駅から仙台の手前の岩沼駅までを結んでいた常磐線は、いわき市の北にある広野駅と南相馬市の原ノ町駅の間、そして相馬駅と浜吉田駅の間が不通のままとなっている。
事故から既に2年以上が経過し、東北新幹線などが早々と常態に復しているにも関わらず、利用者が少ない赤字ローカル線ならばともかく、主要幹線が復旧していない状況はどこか異様である。
それだけ深刻な被害を受けたということなのだろう。

相馬行き高速バスは、ひしめく車の波にもまれるように杜の都の市街地を走り抜け、踊るような日光がきらめく広瀬川に沿って南下し、長町ICから仙台南道路に駆け上った。
ぎっしりと黒い屋根が入り乱れてひしめく街並みが、いつしか、一面に緑の絨毯を敷き詰めたような水田地帯に変わる。
広々とした平野を真っ直ぐに貫くハイウェイの走り心地は、実に爽快だった。


しかし、目を凝らせば、水田に稲は育っておらず、不規則に雑草が生えていたり、水を張っているだけのように見える。
綺麗に生え揃った水田の瑞々しさではない。
まだ田植えの季節ではない、ということなのであろうか。

震災で海水をかぶった水田の被害面積は約2万haに及ぶという。
塩害を被った耕地で稲が育つように、元に復するためには、大変な労力と手間が必要だと聞いたことがある。
僕が目の当たりにしているのが回復し切れていない災害の爪痕だとするならば、胸が塞がる思いがする。

仙台若林JCTで仙台東部道路に合流、進路を東から南へと変えて仙台空港を過ぎれば、左手の遙か彼方に、青々とした太平洋が見えるようになった。
2年前に、凶暴な牙を剝いて多くの生命を奪い、瓦礫の山を築いたことが信じられないほど、穏やかな海だった。


岩沼ICを過ぎ、往復2車線の対面通行になって間もなく、運転手さんが「おや?」とつぶやいてアクセルを緩めた。
道路の速度標識が「50」に変わり、どの車も速度を落としている。
工事や事故などの規制情報は全くなく、五月晴れの田園風景にも何ら変わりはない。

「うん……うん……あ、そう……わかりました、はい」

どこかと電話していた運転手さんが、若干緊張気味の声でアナウンスを始めた。

「ただいま、仙台地方を中心に大きな地震があった模様で、高速道路に速度制限がかかっています。これからの到着時刻に遅れが生じるかも知れませんが、どうか御了承下さい」

慌ててスマホを確認すると、午後2時47分に、福島沖の深さ46kmを震源とするM6.0の地震が発生、石巻市で最大震度5強を観測したとの速報が入っているではないか。
東北一円や北海道、首都圏や甲信越まで広く揺れたようである。
仙台は震度3。
これから向かう相馬市や、南相馬市、浪江町、飯館村は震度4だった。

家族や知人から、心配そうなメールが何本も入ってくる。
東京にいても、地震が起きるたびに、福島原発は大丈夫か、汚染水や燃料棒の貯蔵施設の破損はないか、という不安に駆られるのだが、これから原発に近づいている真っ最中に起きる地震は、まさに恐怖以外の何物でもない。
地元の方々は、常に、このように切羽詰まった不安感の中で暮らしているのだと思い知らされた。

車内の人々に動揺の気配はなく、誰もがじっと押し黙って、移りゆく外の景色に目を向けたままである。

しばらくしてから、

「東京電力の発表では、福島第一原子力発電所に異常は認めず、放射線線量にも変化は表れていないとのことです」

という速報が流れて、ひとまず胸をなで下ろした。

ただし、不安が完全に払拭されたわけではなく、その後も、重い石が常に胸の奥に置かれているような心持ちで過ごすことになった。
この旅に出てきたことを、少しばかり後悔したくらいである。
決して生半可な気持ちで行ってはいけない土地に向かっているんだぞ、と、いきなり浴びせられた洗礼だった。


間もなく、バスは高速道路終点の山元ICを出て、国道6号線を南へ向かい、県境を越えて福島県に入っていく。
ここは常磐線不通区間の南端、浜吉田駅のすぐ南である。
案外にすれ違う車の量が多い。

出発しておよそ1時間あまり、定刻15時20分よりやや遅れて、最初の降車停留所の新地町役場前に到着した。
バスは国道から外れ、狭い横道のバス停で数人の客を下ろしてから、真新しい庁舎前の転回場でUターンする。
亘理駅と相馬駅を結ぶ鉄道代替バスと転回場の入り口で鉢合わせになり、狭い路地で譲り合いながらの行き違いに少しばかり苦労していた様子だった。

簡素なプレハブの建物や、古びたスーパーなどが建ち、西部劇に出てくる開拓村のような、あっけらかんとした町並みのすぐ向こう、ドキッとするほど間近に、海が見えた。


なだらかに連なる丘陵を上り下りする単調なドライブが続くが、時折、

「ここから過去の津波浸水区間」

という大きな標識が現れる。

「東日本大震災 津波浸水区間」

という標識もある。
いわゆる「津波情報掲示板」と呼ばれている標識で、津波警報が発令したらこの区間には立ち入らないよう、注意を促すために国土交通省が設けたらしい。

驚いたのは、標識が立っている場所の大半が丘の頂上付近か、坂を少しばかり下り始めたばかりの位置だったことである。
決して低い標高ではなく、地図を見れば海から1km程度は離れている。
こんな奥にまで津波が到達したのか、と愕然とした。


この掲示板が現れると、国道は擂り鉢のような窪地に下っていく。
左右を見渡しても残骸や瓦礫が残っているわけではない。
目に写るのは、変わらぬ阿武隈山地のなだらかな峰々と、その前景として田畑や木立に囲まれた古びた家々が散在する、至って平和な風景だけだった。
曲がりなりにも2年が経ったのだな、と思う。
歳月は、表向きだけは、災害の爪痕を消し去って過ぎていったようである。

ただ、国道6号線よりやや海寄りに平行して敷かれていた常磐線の不通が続いているという事実が、押し寄せた津波の凄まじさを端的に物語っている。

次の丘を登り詰めれば、

「過去の津波浸水区間 ここまで」

という標識が現れる。


相馬市に入り、公立相馬病院の手前で県道に右折したバスは、市街地に入っていく。
その交差点の向こうに、

「いわき 102km」

の標識が見えた。

これまで道端に立っていた標識はどれも真新しく、距離表示の行き先としては「相馬」「南相馬」の文字が書かれているだけであった。
相馬に入って初めて見かけた「いわき」の文字である。
車でも鉄道でも寸断されたままの陸前浜街道が、いつか開通することへの祈りをこめて、標識を残したのだろうか。

この日にたどって来た道を走るのは、実は初めてではない。
10年ほど前に、職場の仲間とのバイクツーリングで走ったことがある。
常磐道から国道6号線を北上し、仙台東道路まで走り抜いたのだ。
遠くに見えた福島原発の煙突を、今でもありありと瞼に浮かべることもできる。
途中で驟雨に見舞われ、慌てて駆け込んで雨具をつけたコンビニの優しかった店員さん。
あの時に出会った人々は、今、どうしているのだろうか。
無事であることを心から祈りたい。(http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11217476329.html)。

相馬駅の脇に建つ福島交通相馬営業所で、僕はバスを降りた。
仙台行きのバスが待機している。
続いて降りてきた幼い女の子がとても可憐で、母親と手をつないで街の中に歩み去っていく姿が微笑ましかった。


ここは、福島原発から48kmの位置である。

わずか1時間半あまりのバス旅の車窓には、ただただ圧倒されっぱなしだったけれども、ついに来たのだな、と思う。
こぢんまりとした和風建築の相馬駅に人影はまばらだったが、電車の発車時刻が近づくと、ちらほらと人が集まってきた。


相馬駅から原ノ町駅までは常磐線が部分開通しており、各駅停車がおよそ1時間に1往復、朝の7時・8時台は2往復が運行され、か細いながらも地域の足を死守しているのである。
ホームにゆっくりと進入してきたのは、シルバーの車体に緑色のラインが入った、2両編成の701系電車だった。
原ノ町からやってきた下り電車で、わずか数分の滞留で16時26分に折り返す。
素っ気ないロングシートには、10人に満たない乗客が座っているだけだった。


東京方面とも仙台方面とも途絶した孤立区間であるだけに、震災当時、付近に残っていた車両は修理や点検ができず、使い物にならなかったという。
そのため、701系3編成6両が、平成23年12月にトレーラーで搬入された。
バス代行でも足りる需要なのかもしれないけれど、何としても鉄道を蘇らせたかったという心意気が感じられる。

動き出せばなかなか走りっぷりのいい電車で、よく揺れるけれども、加速がバスと比べものにならないほど小気味良い。
線路は、内陸側に入りこんだ山あいの狭い隙間を縫うように伸び、斜面に生い繁った木々の枝が窓をこすらんばかりである。
このような地形だから、津波の被害を免れたのかも知れないと思う。


相馬を発車した電車は、日立木、鹿島、原ノ町と停車していく。
目まぐるしく過ぎ去る車窓を眺めれば、思いは千々に乱れるけれども、わずか3駅、20.1kmを所要18分間という短い旅だった。

16時44分に到着した原ノ町駅は、がっしりしたコンクリート造りの立派な駅舎だった。
西日が差し込む駅前は閑散として、一緒に電車に乗ってきた人々が足早に町なかへ消え去ると、人っ子1人いなくなってしまう。

広い構内には、上野といわき、原ノ町、仙台を結んでいた常磐線の特急「スーパーひたち」用の特急車両651系と、東京でもよく見かけるシルバーに青い帯が入った普通列車用415系が、雨ざらしのまま放置されていた。
常磐線の女王として疾走していた651系の往年の勇姿を知っているだけに、純白の塗装が薄汚れている無残な姿は哀れである。

駅の南側へ歩いてみれば、決して遮断機が下りることのない踏切がある。
赤錆が浮き、雑草が生い茂った鉄路を見れば、僕らの国はかけがえのない国土を失ったのだ、という哀しい実感が、ひしひしと胸に迫る。

南へ延びている赤錆びたレールに、再び、軽快な車輪の響きが蘇る日は来るのだろうか。


車だけが行き交う駅前通りに戻り、コンビニに入ってみれば、部活か補習でもあったのだろうか、制服姿の高校生が三々五々とたむろし、談笑していた。
相馬でも南相馬でも、元気な子供たちの姿は救いであると感じる。

ここは福島第一原発から、直線距離にして28kmである。
この街に住むということは、どのような思いがするのであろうか、と思う。

南相馬市内の放射線量は0.3~0.6μSv/時であると発表されている。
換算すれば、年間2.6~5.2mSv/年になる。
一部の専門家や政府は、20mSv/年以下ならば影響はないと言っているけれど、5mSv/年以上とはチェルノブイリでは避難推奨地域に指定されている線量である。
15mSv/年以上ならば強制移住の対象である。
国連から派遣された調査官は、1mSv/年以下の被爆線量を遵守するよう勧告を出したとも聞く。

この地域で暮らす子供たちの未来を、僕は、ただ祈るしかない。


南相馬市からも、仙台と福島に向けて高速バスが運行されている。
震災の前までは、東京駅からいわき・広野・富岡・大熊・双葉・浪江を経由して南相馬に至る常磐高速バスも走っていたのだが、今ではどの時刻表にも、

「下記路線は当分の間運休」

とそっけなく書かれて、空欄の状態が続いている。

当分の間……。


ツーリングの思い出を偲びながら、いつか乗ってみたかった高速バス路線であるだけに、そのページを見るたびに悔しさが募る。

僕は、「はらまち旅行」という地元の事業者(最近「東北アクセス」と改称)が運行する、17時30分発の福島行きに乗るつもりでいたが、駅前には暇つぶしができるお店など1軒も見当たらない。


不意に、17時ちょうどの仙台行き高速バスが姿を現した。
このバスも、はらまち旅行による運行である。

「仙台行きですよ」

扉を開けてにこやかに告げた運転手さんの声に誘われるように、僕は思わずステップを上がってしまった。
前払い方式で、運賃を支払うと運転手さんが乗車券を渡してくれる。


相馬まで乗ってきた高速バスよりも豪華な観光タイプのバスで、ふかふかの座席の座り心地も申し分なかったけれども、すぐに激しい後悔の念に襲われた。

阿武隈山地を越えて福島県の浜通りと中通りを結ぶバスの歴史は古く、特に浪江駅と福島駅を結ぶ国鉄バスの存在は、時刻表を見て子供の頃から知っていた。
原ノ町駅、もしくは相馬駅と福島駅を結ぶバス路線も存在し、現在も運行を続けている。
途中で、残留放射能の多い飯館村を通過しなければならない経路である。
はらまち旅行のバスは、仙台線・福島線ともに、平成24年11月より新たに運行を開始したのだが、陸の孤島になってしまった地元のために一肌脱ぐか、という企業の心意気だったように思えてならない。
おそらくツアーバス方式での運行だから、時刻表には掲載されていない。

広大な福島県を横断する長距離路線バスに憧れて、いつか乗ってみたいと思っていた僕は、その夢を、この機会に叶えようと目論んでいた。
しかし、夕闇が迫る南相馬の街に、わずか30分とは言え、それ以上滞在できる心の余裕はなかった。
仙台を発ってから見聞きし経験した様々な出来事は、僕にとって、予想以上に衝撃的だった。
一刻も早く、この地を離れて、心の奥底に沈みっぱなしの重石を取り払ってしまいたかった。


坦々と丘陵を上り下りする国道。
震災の津波浸水区間を示す標識。
夕暮れを背景に、黒々とした稜線が連なる阿武隈山地。
何も植えられていない田畑の向こうに覗く穏やかな太平洋の海原。

1度見た絵巻物を逆から巻き戻しているような2時間が過ぎ、とっぷりと日が暮れた仙台駅前でバスを降りると、僕は大きく吐息をついた。
静から動へ。
止まっていた時間が不意に動き出したかのように、仙台駅前の雑踏は、僕を一気に現実へと引き戻した。


初夏の週末に出かけた、わずか4時間半あまりのささやかな旅のことを、僕は一生忘れないだろう。
車窓から見つめ続けた景色と、ともに乗り合わせ、すれ違った人々のことも。

いつの日か、長期運休中の東京-南相馬間高速バスと、乗り残した原ノ町-福島間特急バスを乗り継いで、または甦った常磐線の列車に乗って、失われた国土を再び行き来が出来る日が来ることを、心から祈ってやまない。

*この旅の半年後に、今度は原ノ町と福島第一原発を挟んだ常磐線不通区間の南端、広野を訪れました。
http://s.ameblo.jp/kazkazgonta/entry-11712285298.html
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