私はダニエルが貸してくれたTシャツとスウェットパンツを着て、バスルームから出る。
ダニエルはキッチンのテーブルに座っていた。
「さっぱりしたか?」
「うん、ありがとう。」
「クラス飛び出して、何処に居たんだ?」
「…セントラルパーク。」
「で、泣いてたのか。」
「…泣いて…ない…」
「目、真っ赤だ。」
今度は顔が赤くなる。
「座れ。」
私はタオルで髪を拭きながら、ダニエルの正面に座った。
幾度となく訪れているダニエルのアパートだが、今夜はまるで違う空間の様に思えた。
なんと言うか、非常に神妙な、それでいて気持ちがざわつく様な、何とも言えない感じがする。
私は椅子に座ると、タオルを膝の上に置き、正面のダニエルを見た。
此処に来た目的を果たさねばならない。
ダニエルにバスルームに押し込まれ、一時、気が逸れてしまっていた。
「あ…あの、今日は…その…ごめんなさい。」
ダニエルは真顔で言った。
「謝るなんて珍しいな。どうした風の吹き回しだ?」
私は、ダニエルが腹を立てているだろうと覚悟の上で、此処に来た訳ではなかった事に気づく。
単純に謝りたい一心の勢いだけで、押し掛けて来たのだった。
ダニエルの表情からは、何の感情もうかがい知る事が出来ず、私は急に怖くなった。
もしかしたら、自分の想像以上に、ダニエルは憤慨しているのではないか?
私は、シドロモドロに続けた。
「あ…あんな態度…とるべきじゃなかった…ホント…ごめん。なんか…その…どうやって踊ればいいのか…分かんなくなっちゃって…その…」
「いつも通りのオマエで居れば良かったんだ。」
「でも!」
「でも?なんだ?」
「リチャードもブライアントも、凄い個性を持ってて、俺は…俺なんか…何も無いから…その…凄く焦っちゃって…二人はダニエルの振りをカッコよく踊れてて…だから…その…」
ダニエルはいつも、私に最後まで喋らせる。
決して話の途中で遮る様な事はしない。
私の英語がどんなに拙い物であろうと、言葉がシドロモドロであろうと、私の言葉を最後まで聞いてくれる。
「だから…なんか…情けなくなっちゃって…俺も、もっと上手に、個性的になりたいって…思って…」
私の言葉が途絶え、下うつ向くのを見たダニエルは言った。
「オマエは充分に個性的だ。」
私は、耳を疑って顔を上げた。
「………俺…が…?」
「そうさ。誰と一緒に居ようと、誰の隣で踊っていようと、オマエはオマエにしか出来ない事をやっているじゃないか。」
私は解せなかった。
ダニエルは何を言っているのだろうか?
「踊る事だけじゃない。着る物も、稽古着も、髪型も、選ぶアクセサリーも、選ぶ言葉も、気の強い所も、気分屋な所も、全部がオマエの持ち味で一杯だ。」
「いや!それは…」
「そうやって、人の意見に対抗して自分の意見をストレートに言おうとする所もだ。」
私は黙った。
「俺の知る限りの日本人の中で、オマエほど真っ直ぐに自分を主張して来る奴は居ない。我が儘なくらいにな。」
ダニエルは立ち上がると、冷蔵庫からバドワイザーの缶を二本取り出し、一本を私に差し出した。
「そして、オマエのそうした全ては、オマエの踊りの中に持ち味として現れている。」
私は言った。
「ダニエルの真似しかしてないのに?」
「そうだ。」
「ずっと…ダニエルの真似ばっかり…してる…のに…?」
「そうだ。どんなに俺の踊りを真似ようと、オマエは俺じゃない。」
私の顔を見たダニエルが続けた。
「オマエの体内には、一体どれだけ涙が蓄積されてんだ?」
私が個性的?
そう言われても、全くピンと来なかったが、ダニエルは下手な慰めを言う人ではない。
私は膝の上のタオルで顔を拭った。
「大体、リチャードもブライアントも、オマエとではキャリアが違う。比べた所で今はどうにもならん。そんな事に惑わされて、自分を見失ってどうなる?」
私はうつ向いたままだった。
「オマエは俺を真似る事で成長して来たし、今も成長を続けている。それを信じてニューヨークまで来たんじゃないのか?」
そう…そうだ…。
「そんなオマエが、今のオマエ自身を信じる事が出来ずに迷うと言う事は、俺を信じてないって事だ。そうなのか?」
私は顔を上げてダニエルを見た。
そして、必死に首を横に振った。
言葉を発する事は出来なかった。
何か…非常に熱い物が胸の中いっぱいに広がり、喋る事が出来なくなってしまっていた。
「ならば、もっとしっかりしろ!オマエ、幾つだ?」
「22…」
「もう大人だ。」
この、心地よい恥ずかしさは一体何だろう?
先程までの熱い物が、その温度を下げ、ホンワカとした温かい物に変わった。
「個性は作る物じゃない。生まれる物だ。」
私は黙って頷いた。
その晩、ダニエルは私に泊まって行く様に命じ、私はダニエルの傍らで眠った。
あんなに荒くれ立っていた気持ちは、平静を取り戻し、私は深い眠りを得た。
思えば…
ニューヨーク生活の中で、一番安らかで、一番深い眠りであった。