こころの故郷でもある沖縄から生まれ故郷の大阪に戻ってきてからの10年間


働きはじめてあと先を考えず、逆算をせずに、目の前のこと、求められること、断らずにしてきたあっという間の10年間だった


そして、会社でも地域でも学校でも頼まれもしないことにも着手し、大体34割増で仕事に取り組んだ


まだまだやれそうなこと、やらないといけないことが山積みだ



この3月のある日、晩ごはんの前に、妻からの提案で将来のことを一緒にじっくりと考えた


提案の意図はこうだ


「これからやりたいことをやっていくために、時間もお金を無駄にしないためにも、目に見えるように書いて出してみて、ただシンプルにしたい」


そのなかで、


自分たち、子どもたちの年齢から、そのときは大学何回生?小学、中学、高校何年生?そのときは就職、結婚、子育て


仕事や生活、暮らし、遊びのなかでやってみたいことはなにか?

 

「沖縄にもゆっくり帰りたいな」


「みんなで旅もしたいな」


「孫のお世話もしたいな」


書き出すとどんどんクリアになってきて、シンプルに



将来のことを考えたり、目標をもつことの大切さとそれらと現実と折り合いをつける難しさはもう知っている


先のことはわからないと思いつつ、周りがどうこうというよりも自分との付き合い方を考えることになる


それによって不安や焦りより、むしろたのしみが増した感じ


それも歳を重ねてきた時熟の味わいかな※


※『時熟の味』池田晶子(哲学者)

「考えることは人間として生まれたことの醍醐味。思索が美味しくなるのは、人生の果実が熟する晩年に決まっている」



訪問介護の身体介護「共に行う家事の調理と買い物」の経験から


味のおいしさ、盛りつけの美しさ、この材料からどんなものができるのかわからないからこそうまれるたのしさやおもしろさ、健やかさがあった


共に行う家事は、生活をデザインしなおして家事を自分でやり続けられるようお手伝いする仕事


訪問介護という在宅生活者のケアは、アートの塊であり、ブリコラージュ(あり合わせの材料で何とかする)の連続


その人ならではのもの


他の掃除や洗濯、片付け、整理整頓などの家事も暮らしの中でたのしみなりうるもの


便利な現代社会では、お金でサービスを買うことで、暮らしの中で自分でするというたのしみを簡単に手放して、他の人たちに外注してきた


いよいよ高齢者、要介護状態になると、介護保険サービスもあり、在宅生活で自分ですることを自らあきらめてしまいやすい状況が揃っているのかもしれない


デイサービスに通っていても、やりたいことを"なかったこと"にして、みんなと同じように過ごす時間が大半になっている方々が多いだろう



それこそ、訪問介護の身体介護「共に行う家事」の出番ではないか


日々の暮らしの中のたのしみでもあるはずの家事


要介護・要支援者自分自身でできることはするということが最大の介護予防、重度化予防になる


"よくする介護"


そのお手伝いを真っ先にできるのが、訪問介護の身体介護の見守り的援助、共に行う家事だろう


要介護・要支援者と一緒に、台所に立ち、必要あれば、買い物にも同行し、在庫も確認しながら、ありあわせの材料で、美しいものを作って、おいしく食べる


そして健やかに暮らす


そこからうまれるのは、暮らしのたのしさしかない


たのしさは継続するための原動力にもなる


たのしさがあれば、ケア者と被ケア者という関係性もぼやけて溶け合うような感触がある


訪問介護の利用者さんから逆に元気をもらうことの方も多い


そこには、ケアする・されるの関係に逆転もありうる


そして、お互いの成長がある


互いが互いを必要とする関係性、この相互依存的な関係性こそがケアの醍醐味


訪問介護の仕事は、専門性が高いというより奥深すぎる


訪問介護と暮らし、ケアとデザインやアートはつながりあっている


マンションの炊き出し訓練にて



ロマンチスト(理想主義)は、どうありたいという姿を見据えながら可能性を追求する姿勢なのか


リアリスト(現実主義)は、今ある現実をみてそれをどうするのがいいのか考える姿勢なのか


beingdoingの関係性にも少し似ている


より良くあるべき姿に近づこうというbeing


だだ決められたことを忠実にするというdoing


とにかくこの2つのYESNOかの二項対立で考えないのが肝要だ


議会政治制の多数決だけで決めるのでもなく、ただ少数派を否定するだけでもなく


多数決が民主主義というのはまさに妄信


それらは格差拡大や差別を生み出すだけだろう


今そこにある現実だけをみて、少し偏狭なとらえ方をしようとするのも同じことだろう


相手とのとらえ方の中で、エンパシーを発揮しながら、自分を失わずに自分のとらえ方に折り合いをつける作法がアナキズム


これがほんとうの意味での民主主義なのかもしれない


可能性を追求する姿勢やこうありたいという理想をみながら行動できるのは、その人の生活背景や元々の性格も大きく関わるはずだ


現実をみて、未来志向で何をどうするかというところが大事になる


いずれにしても、現実主義と理想主義を二項対立で考えることなく、そのふたつを往来するとらえ方は欠かせない


それには、自分や他者のその人ならではの価値観やとらえ方、その人の人生の物語りを能動的にとらえようとするナラティブ・アプローチを磨くことが必要になるだろう


そのなかで、これからの人間が必要な能力と、グレーバーも言った「reasonableリーズナブル穏当さ」を身につけて生活の中で発揮していきたい


自分の考えをしっかりと持ちながらも、エンパシーによる他者視点取得(パースペクティブテイキング)にもコミットし、対話を繰り返して落とし所を一緒に探していく


日々の暮らしのなかでも、地域活動に参加するなかでもそんな姿勢でいたい

表題のお二人は、学者さんのなかで理想主義者、ロマン派といわれているそうだ


コロナ禍真っ只中で、たまたま本屋さんで出会った本「エレガント・シンプリシティ」サティシュ・クマール著(NHK出版、2021年)




この本をどうにか半分以上まで読んだものの、自分の頭では全く消化しきれないまま本棚に置いてあった


ここ最近でジョン・ラスキンやウィリアム・モリスのことを知る中で、この本のことをふと思い出した


なぜ今、19世紀に生きたラスキンやモリスなのか?


「人生こそ財産である」ラスキン


「生活者はみなアーティストである」モリス


これらの金言から、日々の暮らしや仕事のなかでの美しさや楽しさ、健やかさとは何かを問い直す機会を得た


読了をあきらめていた前出の本「エレガント・シンプリシティElegant  Simplicity」サティシュ・クマール著(NHK出版、2021年)の副題を思い出した


The Art of Living Well  簡素に美しく生きる〜


もう一度読み始めてみた


読み進めては、またページを戻って読み返したりして、


さらに読み進める中で、ラスキンの言葉に出合った


「明らかに見ることは、詩であり、預言であり、宗教である」


深く見ることを重視したラスキンならではの言葉なのかもしれない


deep seeing 深く見る」


自分のなかでジョン・ラスキンとサティシュ・クマールがはじめてつながった瞬間だ


そこから"わかる"が自分のなかで大きく進んだ


難しくて仕方なかった一冊が一転してたのしくなってきた


美しい言葉たちに魅了されている


「シンプルさのなかにこそ美しさが宿る」


「より少ないモノでよりよく生きるアート(技術)」


「大切なのは所有より存在、持つことhavingより、あることbeing


「私たちのだれもがアーティストにも職人にもなれる可能性を秘めている」


Learning by Doing ラーニング・バイ・ドゥーイング "することによって学ぶ"という考え方をとり戻すこと」


「頭head、こころHeart、手handsの3つのHの調和が必要だ」


「人と人とのつながりは義務ではない。それはむしろ、わたしたちの存在そのものの基盤だ」


「関係性と友情は、正真正銘の根源的な愛から生まれる果実なのだ」


「ありのままの自分を受けいれることと、その自分を愛することで、ありのままの他者を受けいれ、愛することが可能となる。これが"あいだ存在 Inter Beingインタービーイング"のありようだ」


「わたしたちはみな相互に依存しあう存在」


「科学を通して、スピリチュアリティを通して、私たちはいつも新しい洞察や知恵を探している」


「自分を大切にすることは利己主義ではない」


「第一、隣に住んでいる人のことも知らないで、どうやってスピリチュアリティを発揮したり、よき関係を結んだりすることができるだろう?」


「意味ある人間関係を培うには、小さなコミュニティが必要であり、人間らしいスケールをもつ社会をつくる必要がある」


「モノが余計にない、簡素でスッキリした生きかたをすることは、快適な生活をあきらめることではない。『美』は所有するものを最小化し、同時に心地よさを最大化することのなかに内在している。過剰は混乱を、簡素は清澄を生む」


それら言葉の端々に、日々の生活や暮らし、仕事とのつながりを少しずつではあるが感じることができるようになってきた


これらは、今住んでいるマンションの方々と試みているゆるやかなつながりづくりのヒントにもなるはずだ


これからもいろいろと難しいことはあるでしょう


でも…


「正と誤の違いを超えたところに野原がある、そこで会おう」

ジャラール・ウッディーン・ルーミー(詩人)


広井先生と山崎さんの対談





19世紀に生きたラスキンらの思想や生き方を知ることは、コミュニティデザインの源流にふれるとともに、現代社会における学び、つながりのタネになる


便利、効率化、経済成長を優先、重視、志向した現代社会では、暮らしや仕事の中で多くの人たちが置きざりにしてきたであろう

"楽しさ、美しさ、健やかさとは何か?"


これらを問いかけることにもなる


ということが、ラスキン本を読んでから「ラスキン+」に参加してわかったことだ


とにかくおもろかった



広井先生が書籍のなかでも2000年ごろから提唱されている人類史上3回目の定常社会、心のビッグバン、地球倫理や生命についても、「ラスキン+」本会でも話題提供があった


今とこれからの時代について、広井先生によると、

「潮目が変わる時代を生きている」

「きっとおもしろい時代」

「拡大成長の後、山の頂上に登って、360度の視野が拡がったイメージかな」

上記の文献より作成


山崎さんのほとばしるラスキン愛と中世に生きた人たちの思想や人間関係などの超マニアックな込み入ったお話し、めっちゃおもろかった。


山崎さんやstudioLの方々、過去に催されたラスキンフェスティバルに関わる方々のおもいや熱量がぎっしり詰まった500部限定販売盤のラスキン本は必読書だ

わたしのようなラスキン初心者には入門書として最適!


「何を美しいと考えるか」ラスキン本より


不可視なものを見ていこうとするには、何が美しくて、どんなものが健やかなのか、を日頃から考えておかないといけないのではないか


それには哲学的思考やその手法として哲学対話が、子どもたちと接するなかでも、地域でのコミュニティづくりにも適しているだろう

上記の文献より作成




上記の文献より作成

現代人のこれからの暮らしや働きかたにもつながる中世のラスキンらが遺した生き方や思想を学んでいこうと思う


それらをまずは自分の子どもたちに残していきながら、地域の人たちとも続けている対話の場を通して少しずつ共有していきたい

わたしが豊かさについて思っていること



会場のインパクトハブ京都


インパクトハブ京都、至近のマチ中華のラーメン旨かった。