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聖書が教える勝利者への道…Kenのブログ

『勝利者』とは、この世の成功概念をはるかに超越した、この世の価値観に一切束縛されない、真の自由なる存在であり、天国へ入ることを許された者たちである。世でもてはやされる「成功者」の概念を遥かに超越した、「神の著書」聖書に基づく『勝利者』への道を共に歩もう。

 ”兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。”
  新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1章 11-12節

  
 前回に第二コリント書を読了し、今回からはガラテヤ人への手紙(ガラテヤ書)に入っていきます。

 

 ガラテヤとは現在のトルコにある一地方であり、紀元前にはガラテヤ王国という独立国家であったのが、紀元直後にローマ帝国の侵入によってローマの一属州となりました。使徒パウロが福音伝道の旅でこの地方を訪れたのもちょうどその時期であり、その働きの実(成果)としての教会をガラテヤに立てたのでした。

 

 ガラテヤ書は、そんなガラテヤ教会の人々に向けてパウロが書いた書簡です。実は、コリント教会と同様、ガラテヤ教会にも問題が勃発していました。新約聖書における書簡の数々は、各地の教会において起こった人間のしがらみに起因する様々な問題に対する使徒たちによる諭しや戒めを伴った奮闘の記録でもあります。

 

 さて、ガラテヤの人々は、キリストに救われて本物の神への信仰に入る以前には、元々その国にあった人間の作った教えである「宗教」を信じていました。その人々が、せっかく得た本物の神への「信仰」を捨てて、元の「宗教」、あるいはまったく別の異端の教えに傾こうとしていました。

 

 それに対して、冒頭の11-12節では、「私(パウロ)が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」と言っています。キリストの福音は人間から来たものではなく神から来たものである、と改めて宣言したのです。コリント教会の人々が、人間の教えである「宗教」に逆戻りしようとしていたので、改めて諭す必要があったわけです。

 

 なぜそんなことなったのか。パウロは同じ1章で以下のように記録しています。

 

 ”ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。”
 新約聖書 ガラテヤ人への手紙 1章 7節

 

 「あなたがたをかき乱す者たち」つまり、教会内の異分子か、あるいは外部から間違った人間の教え=宗教を持ち掛けてくる者と思われますが、そのような存在がいて、「キリスト(神)の福音を変えてしまおうとしている」ということです。神から来た本来のキリストの福音に対して、それを曲解したり、あるいは人間の思想を混ぜ合わせたりして、教会内の権力闘争や金銭において自分たちの欲望を満たすのに都合のよい形で解釈し、それをまだ経験の浅い信仰者に信じ込ませて取り込もうとする動きがあったということです。

 

 正しい神(唯一の神と言いながら奇妙な表現ではあるのですが)について述べ伝えたり、それによって人々が「正しい信仰」を得たりすると、その後で人間的な利己心や嫉妬心(コレがじつに厄介です)に燃えて必ずやそれを妨害・阻止せんとする動きが起こるというのは、「(4つの)福音書」や「使徒の働き」にも延々と記録されていたキリストや使徒たちへの迫害そのものです(これがいわゆるサタンの思惑でもあるのですが)。まさにキリストの十字架による死とは、この人間の最も陰湿な心の暗部が極まった結果であるといえましょう。

 

 ここで学べることは、私たちが神への信仰から逸脱して宗教などの人間の教えに迷いこみそうになったときは、常に基本である「聖書=神の言葉」に立ち返れ、ということです。ガラテヤ教会の人々に限らず、私たちは元来から肉欲に支配されているので、簡単に神を忘れて人間の教え=宗教に傾倒してしまいます。これでは、せっかく罪に気付いて悔い改めて救われて、神からの大切な知恵や悟りを得たとしても、再び人間の罪なる行いの中に身を置くことになってしまい、全てが逆戻りで台無しになってしまいます。さらに言うならば、ただ単に台無しならまだ少しの望みはあるかもしれませんが、一度得た信仰を捨てることは以下のごとくの恐ろしい事態を招くことを聖書は警告しています。

 

 ”主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義(=神)の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。”

 新約聖書 ペテロの手紙 第二 2章 20-21節

 

 神を忘れないための唯一の方法は、つねに聖書を手元に置いて聖書を読み、聖書を通して神と親しい関係をしっかりと築いて、神の言葉を通して与えられた知恵と悟りとをけっして手放さないことです。そして、迷ったらすぐの聖書に立ちかえって、神の言葉から常に気付きと戒めを得るように心がけることです。

 

 ”知恵を得よ。悟りを得よ。忘れてはならない。私(ソロモン=史上最高の智者にして神の言葉の預言者)の口の授けたことばからそれてはならない。知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、 知恵を得よ。 あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ。”

 旧約聖書 箴言 4章 5-7節

 

 ガラテヤ教会が出来た頃の時代には、じつはまだ新約聖書は現在のような形に編纂されてはいませんでした。しかし、現代の私たちには完成された形の完全な聖書が手元にあり、当時の各教会において発生した様々な問題とそれに対する対処について、全て知ることができる立場にあります。そこから学べる神の知恵は、人間の浅知恵とは比べるべくもないほど大きいものです。せっかくこの時代に生まれて、聖書も自由に手に入るのですから、それを読まないというのは人生におけるたいへんな損失でもあるわけです。神からの啓示を記録した書である聖書のご一読を改めてオススメする次第です。


 皆さまに聖書によって神からの素晴らしい知恵と悟りの啓示が与えられますようお祈り申し上げます。