リングス-W★ING-FMW-全日本-そして最後までFMW…保坂秀樹の「あの技を受ける誇り」 | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

最後に会ったのは2018年3月28日、元FMWリングアナウンサー・平岩豪氏の呼びかけでハヤブサ三回忌に併せたトークイベントが開催された。そこには田中将斗、リッキー・フジ、黒田哲広、マンモス佐々木、中川浩二、金村キンタロー、宮本裕向、ミス・モンゴルとともに保坂秀樹も出演。ステージ上もさることながら、控室の雰囲気はあの頃のFMWそのもので、唯一当時を体験していなかった宮本(FMW活動休止後のWMFでデビュー)は「この中に自分がいられるなんて夢のようです」と、しみじみ言っていたことが思い出される。

もちろん、保坂選手も懐かしいノリにニコニコ顔。千葉の袖ケ浦からバスでやってきたとあり、出発時間の都合で一人早めに会場を出なければならず、後ろ髪を引かれるような表情で去っていった。やはりFMW時代の仲間たちと時間をともにするのは、人生においてもっとも心が休まるかけがえのない場だったに違いない。

翌年10月、手術を受けたあとに保坂選手は大腸がんと肝臓がんを公にする。8月の大日本プロレス住之江大会後に体調不良を訴え9月に入院、腸閉塞が発覚しステージ4のがんと告げられた。

闘病生活が続く中、12月27日にはプロレスリングA-TEAMが音頭をとり新木場1stRINGで保坂秀樹AIDがおこなわれ、興行収益による見舞金及びチャリティーグッズオークション売上金だけでなく、来場記帳名簿と集まったファンによる寄せ書きメッセージを病床の保坂選手へ送って励ました。保坂AIDの2日後には退院し、病院を出たら最初に食べようと思っていた鴨南蛮蕎麦の旨さに生きている実感を味わった保坂選手。ところが年が明けた1月3日に化学療法を受けるために再度入院するよう告げられる。

 

26日に退院したあとも抗がん剤治療を受け、副作用の辛さに加えコロナとの闘いを続けたのが2020年。その間、常に前向きな気持ちをFacebookへ綴っていた。最後のエントリーとなってしまった2021年6月26日には前日の手術を終え、以下のように報告している。

また1つ大きなヤマを乗り越えられました!
ほんとうにほんとうに皆様方の大きな大きな『力』を頂いたからです!
ほんとうに『ありがとうございます』
『倒れたって敗れたって何度でも立ち上がる!今日を今を精いっぱい力の限り生きてやる!』


最期まで保坂選手は前向きな姿勢を示すことでプロレスラーであり続けた。そして何よりも、報告には必ず感謝の意が添えられていた。

30年前にW★INGが旗揚げした8月7日の5日前、そして50歳を迎える3日前となる8月2日午前3時32分、保坂選手はプロレスラーとしての闘いを終えた。リングを離れてもその強さを体現し続けた上で、天寿を全うした。でも、それでも…49歳はあまりに若すぎる。もう一度、FMWの仲間たちに囲まれた至福の場を味わってほしかった――。

 



“ワイルドベアー”保坂秀樹は小学生の時点で中学生に間違えられるほど体が大きかった。祖父には体格を生かすべく「相撲取りになれ」と言われたが、小学4年の時にテレビの中で躍動する初代タイガーマスクを見て「世の中の見方が変わっちゃうほどのショックを受けた」という。

中学時、新潟県糸魚川市から埼玉県越谷市に引っ越し、その体に可能性を見いだされレスリングの名門・関東学園大学付属高校にスカウトされレスリングを始めた保坂。「アマレスをやればプロレスの世界に一歩近づける!」と、夢を実現させるために厳しい練習にも耐え、3年時には関東大会グレコローマン部門最優秀選手へ選ばれるまでになる。

スポーツ特待生として東京農業大学へ進学すると、大学から近いところに全日本プロレスとUWFの道場があり、よく見学へいった。この時、高校のレスリング部先輩にあたる折原昌夫からプロレスラーになることを勧められたが、大学在学中というのがネックとなり実現せず。その後、同じく高校の先輩・木村浩一郎の誘いでサブミッションアーツレスリングを学ぶ。

SAW主宰・麻生秀孝氏が前田日明と関係があったことから、リングス旗揚げ戦(1991年5月10日)のエキシビションマッチへ木村とともに出場し、サブミッションアーツを披露。プロレスラーにあこがれた保坂は、いきなり横浜アリーナという大会場で試合をする稀有な経験を味わう。リングス闘いの歴史は、この2人から始まったことになる。

その3ヵ月後にはW★INGで正式プロデビューを果たすのだから、この1991年という年は保坂の人生における一大転機だった。格闘技路線(W★INGの正式名は「世界格闘技連合W★ING」)と聞いて参加するや、そこはミスター・ポーゴが大手を振るう真逆の路線。それでも旗揚げ当初はその2つを両立させるべく、保坂は格闘技部門要員とされた。

旗揚げ戦では“ローラン・ボックの再来”との触れ込みでやってきたグレート・ウォージョ(グレッグ・ウォジョコスキー=モスクワ五輪幻のレスリング代表。レオン・スピンクスと異種格闘技戦で闘った実績も)の相手を務めることになった保坂。言うまでもなく、SAWの下地を持っていることが見込まれてのものだった。

とはいえプロレスの技術をまったく備えていなかった保坂は、プロの凄みを味わわされた上で完敗。そこからあこがれだった道が始まったわけだが、ポーゴとの闘いで凶器攻撃を食らわされ格闘技路線は早々となかったことに。ただ、本人としてはプロレスラーになりたかったからその方がよかったのだと思われる。

わずか3シリーズでW★INGが活動停止したあとはジョージ高野&高野俊二(現・拳磁)が旗揚げしたPWCへ直談判し入団。「弁慶」のリングネームで活動する中、1993年9月にFMWからヘッドハンティングされ黒田哲広、戸井マサル(現・克成)、ダークレンジャー(南条隼人)らと移籍、ポーゴ・松永同盟のメンバーとなる。

ポーゴ同様、顔にペイントを施した保坂は当初、ジュニアヘビー級で闘っていた。1995年2月6日にはリッキーを破り第3代インディペンデントワールドジュニアヘビー級王座を獲得。この時点で横幅のあるガッチリした体型をしていたため「僕がベルトを獲っても全然ジュニアらしくないですよね」と頭をかいたものだった。当時、得意技として使ったスピーディーなフランケンシュタイナーは、そんな自分がジュニアらしく見えるために考えついたムーブだった。

ポーゴ・松永同盟からW★ING同盟に変わっても、保坂は常にポーゴの傍らへ立っていた。それはつまり、大仁田厚と連日のごとく闘うことを意味する。1994年から1995年5月までの引退ツアーの熱戦譜を見れば、その7割ぐらいが「メインイベント=ノーロープ有刺鉄線ストリートファイト・トルネード6人(or8人)タッグデスマッチ(時間無制限1本勝負)○大仁田厚(○分×秒、エビ固め)保坂秀樹●※サンダーファイアー・パワーボム」となっているはずである。「大仁田の必殺技を世界一受けた男」の呼称は大袈裟でもなんでもない。

「(2度目の)引退前、最後にサンダーファイアー・パワーボムを食らって3カウントを獲られた直後、大仁田さんに耳元で『ありがとうよ』と言われたんです。それほど受けられたということは、プロレスラーとして誇りですよね」

そんな話を本人から明かされたことがあった。大仁田が去ったあとの新生FMWではW★ING金村、非道と新生W★INGを掲げ、正規軍との闘いを繰り広げる。1995年10月29日、当時はまだ開発されていなかったJR品川駅東口広場で黒田を葬ったシットダウン式パワーボムが、隣接するビルよりも高々と抱え上げたように映ったことから「ビルディングボム」の技名がついた。

1997年9月23日、川崎球場で金村が前年12月にカムバックした大仁田との電流爆破デスマッチに敗れ、W★INGの名を封印したあとは大仁田が設立したZENのメンバーに。1998年5月1日、全日本の東京ドーム大会へ出場したことは(ザ・グラジエーター&黒田と組み、田上明&大森隆男&井上雅央と対戦。大森に敗れる)レスラー人生の中で指折りの勲章として、保坂の中へ刻み込まれた。

「プロレスラーになったからには、いつかメジャーで自分の力を試したいという気持ちをずっと持っていました。あの日のことは絶対に忘れられない。全日本のリングでファイトしたことと、FMWの一員である自負は俺にとって同じ意味で並ぶプライドなんですよ。本当に、俺の人生の中でも永遠に残る出来事ですね」

エンターテイメントFMWでは佐々木嘉則(マンモス佐々木)とWEWハードコアタッグ王座を3度保持。アルマゲドン1号(ジャマール)&アルマゲドン2号(ロージー)ともド迫力バウトを生み出したが、方向性の違いから2001年2月に退団し、全日本所属となった。大学生時代に道場を見学し、あこがれていた団体へ紆余曲折を経て入団することになるとは、保坂自身も思っていなかっただろう。

 

▲WEWハードコアタッグ王者時代のパートナー・マンモス佐々木と肉弾戦を繰り広げる(2017年10月31日、大仁田厚ファイナル後楽園ホール大会)

ここで保坂は生涯の恩人となる天龍源一郎に出逢う。付き人を命じられ、ZERO-ONEにもレギュラー参戦しつつ6年間務めた。2004年6月10日、長野・塩尻市立体育館におけるディーロ・ブラウン戦でトペ・スイシーダを放ったさい右ヒザを負傷。わずか132秒で試合を止められ病院に直行するとヒザが反対に曲がり、骨が縦に割れ陥没骨折していた。

そこから2年間、保坂は表舞台から姿を消した。週刊プロレスでケガからのカムバックを目指す選手をとりあげる企画があり、久しぶりにコンタクトをとったところ、いかに大変な状況にあったかを2時間以上も電話越しに伝えてきた。

そこでは、収入も途絶え何を希望に生きていけばいいかわからなくなったこと、それでも家の近い佐々木健介&北斗晶夫妻が見舞いに来てくれたのと天龍、大仁田からもらった連絡によってカムバックを諦めない気になれたことを語った。その後も保坂は、何かあるたびに4人の名前と感謝を口にし続けた。

2006年9月24日、維新力が主宰するどすこいプロモーション旗揚げ戦の新宿FACEで保坂は2年3ヵ月ぶりの復帰を果たす。これも当日、メインに出場する天龍が用意した場だった。第1試合前、特別試合として予告なくおこなわれた復帰戦で保坂は菅原伊織をビルディングボムで叩きつけて勝利。バックステージでは「やっぱり自分の居場所はここじゃないかと。どこでもいいじゃないですか、プロレスができれば。今日、ここに帰ってこられたのは天龍源一郎さん、佐々木健介さん、北斗晶さんたちのおかげ。2年間、いろんなことがあってものすごく長くて、それに比べたらなんでもできます」と喜びを語った。

気がつけば大仁田の得意技を誰よりも食らった男は、大仁田とともにFMWの三文字を背負う立場になり、UWF軍との抗争の最前線に立っていた。常にバイプレイヤー的ポジションを務めながら、保坂は小さい頃に見た初代タイガーマスクによって味わったプロレスの初期衝動を忘れることなくリングに上がり続けた。

 

▲2019年2月19日、大仁田のパートナーとしてジャイアント馬場没20年追善興行両国国技館大会に出場。テーブルクラッシュ・パイルドライバーをサポートする(写真右)

「全日本の東京ドーム大会に出た時、リングへ向かう通路がそれまで経験していない長さだったんです。あの長い長い通路を歩いている時のワクワク感…どこかで味わったよなあって考えたら、タイガーマスクさんを初めて見た時の気持ちと同じだった。やる側になってからも、こういう気持ちを味わうことができるのもプロレスのいいところじゃないですか。まあ、それは自己満足であってお客さんには関係ないことなのかもしれないけど、どんなに大人になっても子どもの頃の気持ちを忘れることなくずっと好きでいられるものに出逢っただけでも、俺の人生よかったって思えるんです」

もう20年ほど前のこと。ある団体の地方興行取材にいき、その日のうちに東京へ戻って入稿作業をしなければならないため会場にタクシーを呼び試合後、駅へと急いだ。そのさい、たまたま近くにいた中学生ぐらいの男の子も待っていたため、同行していた石川一雄カメラマンが「駅までだったら一緒に乗りなさい」と声をかけた。

男の子は当時、WWEスーパースターとして活躍していたビッグ・ボスマンのコスプレをやっていた。黒のSWATスタイル…今でいうと植木嵩行のアレを想像していただければいい。ずいぶんとマニアックなコスプレをしているなと思い聞くと、彼はこう言った。

「違います。これはボスマンじゃなく保坂秀樹選手です」

エンターテイメントFMW時代の保坂は、確かにボスマン同様黒ずくめのSWATコスチュームだった。その姿がカッコいいと言うのだ。

たとえバイプレイヤーであっても、こうして保坂秀樹の存在が突き刺さったファンもいる。それを知った時、嬉しかった。そして――FMWの時代性をリアルタイム体感した“共友”が一人いなくなった喪失感とともに、その追憶が蘇ってきた。

アクの強いFMW勢の中で、一歩引いて全体のバランスをとろうとする人物だった。2006年のカムバック後、顔を合わせるたびに「2年間もリングを離れた中で、俺のことなんか忘れているだろうと思っていた時に週プロさんで取材していただいて、あの時点でたまっていたことを伝えてもらえたことによって気の持ち方も変わり、今もプロレスを続けられています」と、何度も礼を言われた。そのたびに、荒井昌一さんみたいだなと思ったものだった。今頃、20年ぶりに顔を合わせて荒井さんは「保坂選手、早すぎますよ!」と言っている…そんな気がしてならない――。

 

▲超戦闘プロレスFMWとなってからも、その三文字を身につけてリングに上がっていた保坂さん