フジタ“Jr”ハヤトがあこがれた男にエールを――藤田孝之さん&勇人父子物語 | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

BGM:J-REXXX『H.Y.T~RIP~』

 

みちのくプロレス7・1後楽園ホール大会でおこなわれたフジタ“Jr”ハヤト5年ぶりの復帰戦は、とてつもないインパクトで見る者の心に響き、大きな反響を呼びました。それぞれが、それぞれの言葉で受けた感銘を言葉にし、SNSを通じてその凄みと人間力、プロレスで描けるドラマ性を共有できたのだと思われます。

 

 

本日発売の『週刊プロレス』で表紙になったハヤト。実は復帰戦前に取材したさい「まだピンで表紙になっていないんで、狙いたいです」と言っていたのですが、それを現実にやってのけたのだから敬服します。ガンとの闘いに打ち勝ちリングへ戻ってくるハヤトは、試合を迎える前も各メディアの取材を受け、ヒザの負傷から続いた5年間を包み隠すことなく自身の言葉で伝えました。

 

 

 

私自身がインタビューするにあたり、闘病生活においてご両親が重要な存在となったはずという考えがありました。これまでハヤト選手を取材する中で、もっとも彼を突き動かしてきたのが家族の存在だったからです。

 

それを抜きに5年間の真実は伝えられないと思って取材に臨んだところ、ハヤト選手の口からガン告知を受けた時にショックよりもそのことをご両親に伝えなければならないのが辛かったと明かされました。さらに欠場へ入る1年ほど前に父・孝之さんが脳腫瘍で倒れ、現在も自分でトイレにいけないほどの状態にある事実も。

 

孝之さん、そして母・薫さんとは私が高校3年のハヤト選手とレスリングのインターハイ会場で初めて出逢った時から、取材でご協力いただいてきました。いつか藤田家の話を多くの人々に伝えるノンフィクションが書けたら…と思っていたところ、2013年に『ダッディズム 俺たちの父親道』(小学館集英社プロダクション・刊)という単行本でその機会が得られました。

 

▲2013年11月27日発刊の『Dadism』。藤田父子以外にもプロレス界からは佐々木健介、アニマル浜口&京子父娘を掲載(現在は絶版)。奇しくも6年後の同日に「ハヤトエール」が開催された

 

今こそハヤト選手だけでなく、両親とも脳性麻痺という運命を背負いながら一人息子をここまで育てた父と母のことを知ってほしい。ハヤト選手から感銘を受けた一人ひとりに、より深みを味わっていただけたら…何より、ガンと闘った息子とともに自身も脳腫瘍と向き合っている孝之さんへエールを送りたい。

 

▲復帰戦で王者・MUSASHIを30分超えの激闘の末に破り、9年ぶりに東北ジュニアヘビー級のベルトを手にしたハヤトは、応援に駆けつけた孝之さんと薫さんのもとへ(写真を提供していただいたのは長きに渡りみちのくを撮影し続け、この日を待っていたペペ田中さん。ありがとうござます)

 

ただ、9年も前に発刊されたため絶版状態にあり、Amazonを見ても中古品しかないようです。本来ならば、本書を購入いただくことで伝えるべきところなのですが、手に入らないとなるとどうするべきか――そこで当時、同書の編集を担当した佐久間一彦・元週刊プロレス編集長に相談したところ版元さんと交渉していただき、ブログへの転載を承諾していただけました。

 

こちらの意図を理解し、特例として転載を認めていただいた小学館集英社プロダクション様、並びに力を貸していただい佐久間元編集長に御礼を申し上げます。本当にありがとうございます。

 

以下に掲載した文を読んで感じるものがありましたら、後楽園でハヤト選手へ送ったエールのように、フジタ“Jr”ハヤトほどの人間を震え上がらせ、そして幼き頃に涙を流すほどカッコいいと思わせたプロレスラー・ゴッドファーザーこと孝之さんにエールをお送りいただきますよう、心よりお願い申し上げます。

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みちのくのエースを震え

上がらせた障がい者の父

 

 

障がい者の両親に育てられたプロレスラー

 

アントニオ猪木が設立した新日本プロレスとジャイアント馬場率いる全日本プロレスが業界をシェアし、ライバル団体として並び立っていた昭和の時代。その後、90年代を境に「インディー」と呼ばれる中小規模の団体が急増、岩手県議会議員も務め史上初の覆面政治家として話題になったザ・グレート・サスケにより、1992年に旗揚げされたのがみちのくプロレスだった。
 

日本初の地方発信型ローカルプロモーションであるみちのくは、サスケの故郷である盛岡を拠点とし東北六県を中心にサーキット。老舗2団体がまわらぬような町や村の小さな体育館を巡業し、新たな形で陸奥路にプロレス文化を根づかせる。
 

現在、このみちのくでエースとして君臨するのがフジタ“Jr”ハヤト。2004年入団だから来年でキャリア10年となる27歳のファイターだ。攻撃性の高い打撃と、持って生まれたカリスマ性から、業界的にもトップどころの一角を担っているといっていい。
 

ハヤトのデビューは、一般メディアにとりあげられるほど大きな話題となった。ひとつは、現役高校生としてのプロ初マットだったこと。そしてもうひとつは、両親がいずれも脳性麻痺による身障者という境遇。
 

デビュー戦の日、父・藤田孝之さんと母・薫さんがリングサイド1列目から息子の晴れ姿を観戦。その一部始終を地上波のテレビカメラが追った。
 

生まれながらのハンディを背負った上で、健常者である息子を育てあげた父と母。そして、障がい者の両親に支えられプロレスラーになった若者。それは、世間にも響く人間ドラマだった。とはいえ、そこで描かれたのは藤田家が歩んできた過程のほんの一端に過ぎない。
 

「何かがひとつ違っていたら、今の俺はなかった。その中でも、親父の影響はやはり大きかったです」と語るハヤトが経験してきたいくつかの分岐点…父はそこで、どんな存在であり続けたのか――。

 

子どもを授かった時の希望と覚悟
 

福島県いわき市で生まれた孝之さんは、ごく普通の幼少時代を過ごした。祖父がプロレスを見るために我が家へテレビを購入。物心がついた頃にはブルーノ・サンマルチノやボボ・ブラジルといった鬼のように体が大きな外国人選手へ夢中となった。
 

そんな孝之少年が、自分とクラスメイトたちが“違う”ことを意識したのは小学校に入ってから。体育の時間になると「藤田君はやらなくていい」と、見学するよう先生に命じられた。
 

できないのではなくやらせてもらえないのに、通信簿で体育が“1”であることに納得いかなかった孝之さんは、先生へ「どうしてですか!」と抗議。その結果、5年生からは一緒に体育の授業を受けられるよう変わったが、中学へ進むと郡山の養護学校へ転入させられる。
 

自身が障がい者である現実を意識しつつも、悲観はしなかった。「周りの友達がよかったからだろうねえ。差別を受けるようなこともないんで、辛いとは思わなかった」と笑いながら振り返る。体育の授業を外された反動もあり、とにかくスポーツがしたくて孝之さんは陸上競技を始める。
 

この時に獲得したメダルや賞状は今も家で飾られているが、一番好きだったのは球技。野球やサッカー、バスケット…アメリカンフットボールとラグビー以外のほとんどを経験した。
 

健常者の中に交ざり、汗を流す。他者にとってはごく当たり前のことが、孝之さんにとっては楽しく、情熱を注げる環境だった。
 

高校を卒業した孝之さんは、学校の斡旋で洗濯業を営む会社に就職するべく上京。稲城市をスタートとし、ヘッドハンティングされるごとに住まいを転々とし、給料も上がっていく。そしてクリーンマットを扱う足立区の洗濯屋で一緒になった健常者3人と「お金を貯めて健常者も障がい者も一緒にいられる保育園を創りたい」との夢を持った。
 

養護施設でなく、保育園であることがこだわりだった。話を聞けば辛さも悔しさもなかったとしか語らぬ孝之さんだが、その言葉の裏にこそ動機があったのでは…と思えてしまう。身障者の中には、そのハンディから自信が持てずに物事を諦めてしまう人もいる。


孝之さんはポジティヴな姿勢を持ち続け、かつ感服させられるほどの行動派だった。どうすれば夢を実現させられるか学ぶべく、4人でアメリカ、カナダ、北欧をまわった。
 

脳性麻痺の体で長距離移動はキツかったが、仲間とともにキャンピングカーで各地をまわるのは楽しくもあった。だがそこで見たのは、バリアフリーに関する意識の違いだった。
 

海外と比べると、日本の障がい者に対する認識がいかに低いか…大志を抱き海外で研修してきたのに、ショックのあまり帰国後は2ヵ月ほど何もやる気が起こらなかった。それでも食っていかなければと洗濯業を再開。足立区に身障者のボランティア組織がないため、貯めたお金で自分が始める。
 

障がい者介護グループで活動していた24歳の薫さんと友人を介し出逢ったのは、孝之さんが32歳の時。周りがどんどん結婚していく中で自分も…と思っていたところでの運命的な初対面だった。
 

同じ脳性麻痺を背負いながら明るく生きる薫さんに恋心を抱いた孝之さんは、1年後にプロポーズ。受けてもらったものの、その直後自宅へ泥棒に入られお金がスッカラカンとなってしまう。それで結婚を半年先に延ばしてくれないかと頼んだところ、ちゃんと待っていてくれた。

 

結婚を機に花畑から同じ足立区の保木間へ移り、そこでハヤトを授かる。“勇人”(本名=同じ読み)と名づけたのは、言語障がいのある自分たちでも発音しやすかったからだ。
 

いずれも障がいを背負う中で健常者の息子として生まれたことが、2人にとってどれほど希望となったかは容易に想像がつく。同時に、家庭を築いていく上で相当な覚悟も要したはずだ。聞くと、喜びより「これから大変だなあ」が本音だったらしい。
 

今の収入で育てていけるかという不安も大きかった。ところが、勇人が生まれて3ヵ月後に孝之さんは仕事をやめてしまう。
 

「これはよくおかんに聞かされたんですけど、上司から障がいを理由に何かを言われてブチ切れたらしいんです。その日に限って帰りが遅くて、携帯もない時代だから心配して待っていたんですけど、ようやく帰ってきたら『やめた』と。これから子どもを育てていかなければいけないのに…って頭を抱えたそうです」
 

取材中も孝之さんは常にニコニコしていた。ハヤトの試合を観戦しに会場へ来た時も同じだ。だから、我を忘れるほどに怒る姿が想像できない。


「俺が学校で、親をバカにされていじめられる。それでケンカになるとその相手の親が学校やウチに電話をかけてくる。俺はバカにされたことも言わないようにしていたんだけど、親父はその親に向かって『子どものケンカに口を出すな!』と言ったり、先生には『あんたが見ている生徒で障がいを理由にいじめられているのも見抜けずに、いったに何を教えているんだ!』と怒ったりした。


今も年に2回ぐらいキレることがあるんですけど、差別はなくなってきたと言われているけどやっぱり実際は全然違っていて。役所の人とかは『俺たちが支援してやってんだから何も言うなよ、障がい者は』って感じで露骨に上から目線の対応をする。そういう態度を見ると、相手が誰だろうといくのが親父なんです」(ハヤト)

 

身障者プロレス「ドッグレッグス」でデビュー


学生時代も、そして現在も勇人はそんな父の姿を見てきた。孝之さんが怒るのは障がい者に対する差別的な言動、この一点に尽きた。
 

自分の両親が身障者であることを勇人が初めて自覚したのは保育園に入った頃だった。街中で中学生や高校生が、下半身に麻痺を持つ母の歩き方を真似し、ニヤついている。それがバカにした行為なのは、子ども心にもわかった。
 

「なんでバカにされているの?」
「……母さんと父さんがね、障がい者だからなんだよ」
 

見ると、父は「おまえら、ちょっと来い!」と怒鳴っている。5歳の勇人は、その状況にパニックへと陥りながら得体の知れぬ嫌な思いを抱いた。
 

顔を曇らせる息子へ、意を決した母は帰宅するや自分たちの体について初めて詳しく話した。そして「これからもこういうことがあるかもしれない。私たちがこういう体だから、勇人に辛い思いをさせてしまって……ごめんねえ」と、嗚咽を漏らした。
 

この時の言葉は今も強く、深く勇人の中に刻まれている。おかんが泣いているのに、いつもやさしい親父があんなに怒っているのに、何もできない自分に腹が立った。
 

そして、だからこそその言葉を言わせないように強くなりたいと思った。小学1年でプロレスに出逢い、カッコよさへあこがれたのは必然だった。
 

一方、父も子どもの頃のあこがれと再会を果たす。「おまえ、プロレス好きだったよな。こういうのがあるんだけど、取材するから一緒に来るか?」と、友人に誘われたのがドッグレッグスだった。
 

ドッグレッグスとは、身障者がおこなうプロレス。仕事を始めた以後はスポーツから離れていた孝之さんだが、久々にアスリートとしての血が騒いだ。体を動かすのはもちろんだが、健常者とマットの上で殴り合い、技を掛け合うのがたまらないと思った。
 

基本は身障者同士の対戦となるが、健常者との対戦も組まれる。そこには区別も差別もない。“ゴッドファーザー”のリングネームでプロレスラーデビューを果たした孝之さんがチャンピオンになるまで、そう時間はかからなかった。
 

その時のことを勇人は鮮明に憶えている。勝って手をあげる後ろ姿にライトが当たり、観客が「ウォーッ!」と興奮している。まるで、一枚の写真を見ているかのようなシーンに、気づいたらボロボロと涙をこぼしていた。
 

父は強かった。そして、バカにしている連中の何百倍もカッコよかった。あの日以来、いつまた嫌な思いをさせられるのかとビクビクしていた気持ちが、スーッと消えた。
 

「お父ちゃん、すっげーカッコよかったよ! 僕もお父ちゃんみたいになる!!」
 

その言葉通り、勇人は父を相手に小学2年で“ゴッドファーザーJr”としてドッグレッグスのマットに立った。現在のリングネームに“Jr”とあるのは、その名残。8歳のプロレスラーは、言うまでもなく当時の日本最年少だった。
 

こうして勇人は小学生の時点で大人たちに囲まれた環境で育った。手が不自由な者、片脚を失った者、中には全盲でありながら皮膚感覚で技を決めていく選手もいるのがドッグレッグスの世界だが、そんな仲間たちが心からカッコよく、誇りに思えた。
 

そうした日々が、中学入学を機に大きく変わる。「ヤンキーはモテる」と、ダボダボの制服を着るようになったあたりまではまだよかったのだが、そこからつるむうちに悪いことへ手を染めていくようになった。
 

「俺はいつまでこんなバカなことを続けているんだ!」とわかっていた。親に迷惑をかけ、泣かせているのも。にもかかわらず、今の仲間たちから離れたら自分の居場所がなくなってしまうとの不安が上回った。
 

孤立することが怖くて、勇人は荒んだ毎日を続けた。ドッグレッグスからも姿を消し、気がつけばあれほど仲がよかった父との会話がまったく途絶えていた。
 

孝之さんは、言葉はおろか怒ることも哀しむこともしなかった。それを勇人は「親父は俺に関心がねえんだ」と受け取る。会話とともに、両親と一緒に撮った写真が2年分ポッカリと抜け、残っていない。
 

そんな孝之さんが一度だけ、怒髪天を突く。中2の時、勇人が問題を起こし大ごとに発展。先に学校へ呼び出された母が号泣していると、あとからやってきた父は無言で近づき人前で息子を思いっきり殴った。
 

普段は突っ張っている自分が、あまりの剣幕に後ずさりしていた。プロレスラーになった今でも「人生で最大の恐怖を感じた」と勇人は回想する。
 

自分の子どもを叱れない親が多い。ましてや身障者の身で中学にもなった息子とケンカなどしたら、逆にやられかねない。けれども孝之さんに迷いは微塵もなく、勇人も「勝てる気がしなかった」のが本音だった。
 

「あれは自然と手が出ちゃったなあ、ウハハハハ。まあ、薄々わかっていたし、勇人を信じていたから。親が子を信じなくて誰が信じるのか。ダメになって帰って来た時に話してやればいいんだ。最終的には親が責任を取ればいいこと」
 

父親として息子を信じる――物心がつく前の時点で母と別れた父の顔を知らずに育った孝之さんは、男親のお手本とできる存在がいなかった。にもかかわらず、ここまで信念を持っていられたのは、生きてきた中での経験によるものだという。
 

健常者には知り得ぬ現実を、孝之さんは自身に刻み込んできた。勇人が道を踏み外しそうになった時、それが生かされたのかもしれない。

 

ゴッドファーザーとの卒業マッチ
 

この件を機に、勇人は変わることができた。さらに担任がレスリングの強豪である自由ヶ丘学園へ推薦、プロレスラーになるための道が拓けた。
 

高校進学を機に悪い仲間との関係を断ち切れた勇人はレスリングに没頭。大会に出場すると、地方で開催されても両親と介助の仲間たちが夜通し車を飛ばし応援に駆けつける。これは今も同じだ。


そして…高2の時、ドッグレッグスのリングドクターを務めていた精神科医・香山リカさんの紹介で、みちのくの新崎人生がスカウトに訪れた。藤田家の運命が大きく動き出す。
 

当時、創業者であるサスケが岩手県議員となったため社長を引き継いだ新崎がやろうとしたのは、数年先を見据えての新しい力の導入だった。障がい者の両親に育てられたという境遇に感じるものがあり、会う前から勇人を入団させるつもりでいた。
 

あとはじっさいに話し、人間性を確認するだけ。ドッグレッグスの会場でひとめ見た瞬間、新崎は「みちのくの3年後のエースとして、この男に懸ける」と決意した。
 

高3の12月に後楽園ホールでデビューすることが決まった勇人は、1ヵ月前にゴッドファーザーJrとしてドッグレッグス卒業マッチをおこなった。相手は言うまでもなく、ゴッドファーザー。
 

レスリング部で鍛え抜いたJrだったが、父に対し一切の手加減はしなかった。そうしなければ勝てないと本気で思ったからだ。
 

関節技のSTFで父から初勝利をあげた勇人。逆に言えば初対決から10年間も、孝之さんは身障者でありながら息子に負けなかった。
 

「やっぱりウチの親父はサイコーです!」
 

それが、ゴッドファーザーJrがドッグレッグスに残していった最後の言葉だった。
 

2004年12月3日、対角線上の反対コーナー下に父と母が座る中、勇人はフジタ“Jr”ハヤトとしてプロレスデビューを果たす。2歳年下ながら業界の先輩に当たる中嶋勝彦の厳しい攻めに玉砕したが、試合を終えリングサイドの孝之さんと抱擁を交わす姿に万雷の拍手が送られ、その横では車イスに座る薫さんが顔をクシャクシャにしていた。


「あの時は、言葉は交わさなかったんですよね。感謝の思いはあっても出てこない。でも別々に家へ戻って、見にいった仲間たちが『今日は感動したよ!』とか言って迎えてくれる中で、親父が言った第一声が『これからが大変だぞ』でした。さすが、俺の親父だなと」


我が子がプロレスラーになってよかったと孝之さんが思えたのは、4年後にハヤトが初めてみちのくのチャンピオン(東北ジュニアヘビー級王者)になった時だった。「3年後のエース」と目されながら、その通りにいくほどこの業界は甘くなかった。


期待されているのに応えられず、大事な試合で負け続ける日々。スランプに陥ったハヤトは、何日も自室へ引き籠ることもあった。
 

そういう時も、孝之さんは黙っていた。あの時と同じだった。自分の力で困難な状況を切り抜けることを信じた。
 

苦悩や辛さは、吐き出した方がラクになる。その相手になれたはずだが、孝之さんは息子・勇人ではなくプロレスラー・ハヤトを見守っていた。
 

そんな日常を間近で見てきたからこそ、4年目にしてチャンピオンになった時に心から喜べたのだ。フジタ“Jr”ハヤトというプロレスラーのどこが魅力かと振ると、孝之さんははにかんだ笑みを浮かべながら答える。
 

「ハングリー精神だろうなあ。それがなかったら終わりだな。まあ、お客さんを楽しませてくれればそれでいい」
 

現在、孝之さんは老人・障がい者の介護者を派遣する会社の社長を務め7年になる。形は少しばかり変わったが、健常者と身障者が一緒にいられる場を本当に築いた。


雇うのは全員学生で、親子ほど年が離れていても友達のようにタメ口で会話された方が嬉しいらしい。マニュアル通りの“やってあげている感”丸出しのものではない会社が理想だから、自分もフラットに接したいのだ。


「俺、本当にこの両親でよかったって思います。あの2人が身近にいなかったら、もしかすると自分も障がい者をバカにするような人間になっていたかもしれない。試合では親父に勝ったけど、今も超えられてはいないですから…」


そんな息子の言葉を聞いて、孝之さんはまた「ウハハー」と笑った。ヒザを痛めたため試合からは離れているが、ゴッドファーザーは今も引退はしておらず、現役のまま。どうやらハヤトが超えるには、もう少し時間を要すようだ――。

 

藤田孝之(ふじた・たかゆき/写真右)――1952年7月7日、福島県出身(取材時の年齢は61歳)。脳性麻痺の障がいを持って生まれる。85年に結婚し、翌86年に長男・勇人が誕生。94年に障がい者プロレス「ドッグレッグス」でゴッドファーザーのリングでデビューした