新選組の日々。のブログ

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慶応三年十二月七日(1869年1月1日)は天満屋事件が起こった日。

 

慶応三年四月二十三日(1867年5月26日)におこったいろは丸事件http://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/iroha-maru/により、紀州藩は坂本龍馬を好く思っていなかったとされる。

 

慶応三年十一月十五日(1867年12月10日)の近江屋事件坂本龍馬は即日死亡、中岡慎太郎も十七日に死亡した。

海援隊を主とするメンバーは、紀州藩が坂本を暗殺したのだと思い、いろは丸事件に関わった紀州藩士・三浦休太郎が滞留する天満屋を襲撃する(天満屋事件)。

 

襲撃を前に、会津藩から新選組に、三浦休太郎の警護を任された。そのリーダーが山口二郎と改名した斎藤一である。

 

斎藤一は慶応三年十一月十日(1867年12月5日)、御陵衛士が屯所としていた月真院を脱走(秦林親日記)。身柄は三浦休太郎に預けられていたようだ。

伊東甲子太郎藤堂平助らが新選組によって討たれた油小路の変 慶応三年十一月十八日(1867年12月13日)の当日、三浦休太郎から新選組に復隊している。

 

三浦休太郎様       近藤勇

 机下

 時下向寒之節益御清穆奉南山候。陳二郎事潜伏之義、如之御配慮奉多謝候。就而者同人義少々相用候事件出来候間、無御断引取申候。併逼迫之事御談話不申上多罪之至、何レ近々拝顔縷々御礼可申上候」

十一月十八日、近藤勇が三浦に充てた書簡の「二郎」が、改名した斎藤一をさすと思われる。

 

 

三浦の警護にあたったのは山口二郎(斎藤一)、大石鍬次郎、宮川信吉、中村小二郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎の7名(浪士文久報国記事)。

 

 

 

 

続く。