「神は完全である」、とする思考そのものが間違っている。 | 浅利幸彦の預言解読講座

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預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

このブログのアクセス者数も増えてきたので、最近このブログの存在を知った、という人もいると思う。
そういう人達はいきなり預言の解説を読んでも理解しにくいかもしれない。
それで、私の説の基本となる考えをもう一度まとめてみよう。


既にこのブログで説明したことと重複する内容もあると思うが、重要なことなので新しく書き直した。

なお、これは、テーマ別では「神の計画」に属するので、右側の「テーマ」の中の「神の計画」をクリックしていただければ同様の記事を読める。


キリスト教では「神は完全、完璧な存在である」と考えられている。
そして、「神は創造主であり、人間(人類、アダム)は神の創造物(被創造物)である」と考えられている。

しかし、この思考そのものが間違っているのだ。
この思考に囚われている限りは絶対に、神も人類も神の計画も理解できない。

そもそも、この思考には矛盾があると思わないだろうか?
神が最初から完全だったら、この世界も完全で、全人類が天使的人間であり、この世に悩みや苦しみ、悲しみ、不平等などが存在するはずはない。
神が完全だったら、いきなり神の国、地上天国がこの地球に出現したはずだ。
何故、人類、人間、各人はこんなに悩み、苦しんでいるのだろうか?


完全な神は「不完全な世界を創ること」は許されない。
しかし、現実の世界は完全ではない。


地上の人達は様々な辛酸を舐め、苦難に喘ぎ、悲惨な人生を強いられている(人が多い)。

悲しみ、怒り、貧困、病苦などの負の連鎖が充満している。

また、様々な不合理、不平等が存在している。
どうして人々、人類はこんなに悲惨な状況にあるのだろうか?


これを解決する答えはただひとつ、
それは、「神が完全、完璧ではなかった」からだ。


キリスト教では「主、神は完全である」と説いているが、実際に神は完全ではないのだから、
「神は完全であると決め付けていること、こう決め付けて考えていくこと」自体が間違っているのだ。
「神は完全ではなかった」と認め、理解するところから始めないと「神の計画」は理解できない。


私は「神が人類になった。神の意識が分裂していって人類になった」と考える。
全ての人類の想念、意識、性格を総合したものが神だった。

今の人類(現地球人)が不完全なんだから、その元となった神も不完全だったのである。
神は不完全で、むしろ、闇の部分、エゴが勝っている部分の方が多いのである。


聖書でも、「私は嫉む神である」と言っているように、もともと非常に嫉妬深い性格なのだ。

では、どう考えたらこの矛盾を解決して整合性をとることができるのだろうか?
それは、「神は不完全でも、神の計画は完全である」と考えることだ。
こう考えないと「神の計画そのもの」を理解できない。

つまり、不完全な神が、自らが完全になろうとして、完全なプラン、計画を立てて実行中である、と考えるのだ。
まあ、ぐうたらで嫉妬深く、怠け者の学生が、勉強の計画表だけは完璧なものを作って、いざ始めてみたら、

「果たして本当に実行できるのかな」、と悩んでいる、こんなところだろう。
このぐうたら学生=人類、の目標は、

完全な世界=地上天国を現実化させること、完全な作品を創って、自らそこに住むこと」である。


つまり、不完全だった神は、「完全な計画を立案してから人類になった」のである。

そして、人類になっておきながら、その自分で事前に立案しておいた「神の計画」を忘れてしまっているのだ。

この忘れていた神の計画を思い出すことが「目覚め、覚醒」である。


ただ、神=人類はこの計画の最終達成時点だけは予め決めておいた。
それが、今の西暦では1999年にあたる。
その「天のしるし」が1999年に起きた占星術でいうグランドクロスだった。


ただし、どの時間系、どの歴史でそれが達成できるのかは、神自身にも判らなかったし、今も判らない。
今現在も模索中である。


教会や信者が「審判の時、再臨の時」について、馬鹿の一つ覚えのように言う言葉、


13:32その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
(マルコによる福音書)


はこれについて述べたのではないか?
と思われる。
これについては翻訳の問題もあるのかもしれないが。


これはイエスの言葉だが、この言葉の「子」とはイエス自身を、「父」とは神を指している、と考えられる。
そうすると、「父(神)は知っているのに子(イエス)は知らない」となる。


となると、父=子ではない。
これは、三位一体論=父と子と聖霊は一体である、と矛盾しているのではないか?
この言葉が間違っているのか?
それとも三位一体論という思考が間違っているのだろうか?


教会は、三位一体論を基本教義に掲げておきながら、これと矛盾しているこの言葉をよく取り上げて、信者に

「審判の時、イエス様の再臨の時は解らないんですよ。

こう書かれてあるから探っても無駄ですよ。」

と説教しているのである。

おかしいと思わないだろうか?


三位一体論を推進してきた教会は、これについて、どう説明しているのだろうか?