「選ばれる」の前に、自分で選ばなければ救済=携挙されない | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

10月になった。
携挙の予定期間は2016年の3月から6月までだから、来年の3月まではあと5ヶ月間しかない。
そして、私の現在の預言解釈では「4月末までには携挙された方がいいのではないか?」
という気がするので、4月末までというと、最大限残り7ヶ月間である。

何故「4月末までに携挙された方がいいのか?」
というと、「5月6月は、天使が幼児を拉致して補填する期間、と考えているのではないか?」
という気がするからだ。


さて、以前から気になっていた言葉だが、よく、
「選ばれた」
「選ばれた人」
「神に選ばれた人(だけが救済される)」
と言う人がいる。

この「選ばれた」という表現が非常に気になる。
酷く受動的に思えるのである。
こう言う人は何を基準にして「選ばれた」と言っているのだろうか?
何となく「信心深くて善良な人を神が選んで救済してくれる」
という漠然とした気分で言っているようにしか思えない。
こう言っている人は救済(携挙)の構造も実態も予定期間も何も解っていないのである。


私からすると、

「携挙の予定期間に天使(のUFO)を自分から呼ばなければ携挙されない」

のだから、
その期間中に天使を呼ぶか呼ばないか?
はまず、自分が決める=自分で選択すること、が先である。
だから「選ばれた」ではなくて、まず「自分で選ぶ」という方が先である。


天使にしても、呼ばれたから迎えに行くのであり、呼ばれなければ迎えには行かない。


ただし、天使を呼んだ者が全員携挙される訳ではない。
天使にしてみれば、「その者を引き取っていいかどうか?」
を当然審査する。
「真理を理論的に理解していて、かつ波動が合う者(性格的、思考的、行動的に天使と同調できた者)」

しか連れていかない。
いい加減な気持ちで呼んだからといって、直ぐに天使が迎えに来てくれる訳ではない。

つまり、「まず、自分が(天使を呼ぶかどうかを)選ぶ」
が第1段階であり、次に
天使が「その者が基準に合格しているかどうか?」
を審査するのである。


まず、自分が選ぶ、次に、その中から天使が選ぶ、

という構造になっている。
この2段階をパスした者のところだけに天使は迎えのUFOを差し向けるのである。
この構造をよく理解しなければならない。