天使が迎えに来てくれる? そのためにはどうしたらよいだろうか? その2 | 浅利幸彦の預言解読講座

浅利幸彦の預言解読講座

預言書(主に聖書とノストラダムス)を解読して未来を明らかにしていきます。
未来において艱難が起きますが、その前に天使軍団(天使的未来人)による義人救出=携挙、が行われる、と預言されています。

キリスト(天使軍団)の救済計画というものをもう一度おさらいしておこう。

 

ナザレのイエスはキリストとして活動し、十字架に架けられた後復活し、雲に乗って昇天していった。
実際にはこれは天使軍団の中の預言作成班がシナリオを書き、俳優部のメンバーに頼んでその通りに演じてもらったのだが。
それで、昇天する時に、「いつかまた同じような姿で還って来る」
と預言した。
「雲」はUFOの喩えであるから、実際にはUFOに乗って宇宙に戻っていき、またUFOに乗って地上に降り立つ、という予定である。


これを「再臨」というが、

「この時には地上の全ての人間をそれぞれの行いに応じて裁く」
と預言した。
いわゆる「この世の終わりの時の最後の審判」である。


そしてまた、

「その時には地上に大きな艱難がもたらされるが、義人は天に引き上げられて難を逃れられる」
というような預言もある。
いわゆる「携挙」である。


しかし、この再臨と艱難と携挙の時間的関係がはっきりしないので艱難前携挙説やら艱難後携挙説など様々な説、解釈が出された。
更にここに「前半の3年半の小艱難期と後半の3年半の大艱難期が入り込む」と解釈する人もいる。
このように、キリスト教では宗派により人により様々な説、解釈が入り乱れている。
これは、歴史の変遷が理解できないで

「預言されていることは全て(この歴史において)成就する」

という誤った思考に起因している混乱である。

 

では、そのこの世の終わり=再臨、艱難、携挙がいつ起きるのか?
というと、キリスト教徒はイエスの例の「その時は解らない」という言葉を馬鹿の一つ覚えのように唱えて、その時を探るのを放棄してしまった。

 

では、実際はどうなのだろうか?
というと、

再臨(天使軍団の地上復帰)の予定時は1999年であり、それが叶わなかった場合は(2017年の7月に)携挙=義人救出を行う予定だ、
というのが私の解釈である。

 

更に、「イエスの昇天から再臨までの期間、イエス不在の期間においてはどうなっているのだろうか?」
という問題がある。
その空白の期間において、天使軍団は何もしないのだろうか?
ということだが、キリスト教ではこれがはっきりとは解っていない。
「イエスは天国の鍵を(弟子の)ペテロに授けた」
という記述があるので、
「イエスの権能はペテロに渡されて、更にそれがその後継者であるローマ教皇(ローマカトリック、その他の教会)に引き継がれているので、教会がイエスの仲介者として再臨の準備をする」
と解釈しているのだが、

実際は教会はイエスの再臨の予定時も解らなかったし、その具体的な仕組み、構造も解らなかったので何もしなかった。

 

私はこのブログでも本でも説明したように、
「イエスが天国の鍵を渡したペテロとは、あの弟子のペテロではなくてノストラダムスだった」
と考えてその根拠も説明した。

 

さて、聖書には

「イエスが不在の期間にその代理人として働く者を出現させる」
という預言がある。
ヨハネの黙示録11章に書かれてある「二人の証人」だ。
イエスはこの二人に自分の権能を託したのである。


この「二人の証人」が誰と誰なのか?
というのも様々な解釈があり議論されてきたが(一般には)いまだに特定はされていない。

 

キリスト教では「それはイエスの弟子のペテロとパウロだ」
という説、解釈があるがこれはおかしい。
というのは、ヨハネの黙示録はイエスの昇天後に書かれた書なので、文脈からすると

「この二人の証人はこの書よりも後に出現する」

という未来の予言として書かれてあるので、ペテロとパウロは該当しないからだ。

 

では誰なのか?
というとヨハネの黙示録ではそのヒントは書かれていない。
ところが、

イエスが天国の鍵を渡したペテロとは実はノストラダムスだった」
と考えると、ノストラダムスはヨハネの黙示録よりもずっと後世の人なので、
「この二人の証人のうちの一人はノストラダムスである」
という考えが成り立つ。

 

では、残るもう一人は誰なのだろうか?
というと、「それはノストラダムスが指名した」
と考えられる。
つまり、「イエス~ノストラダムス~」
というようにリレー式にバトンタッチされている、
と考えられるのだ。

それが誰なのかは本で説明した。

 

さて、聖書では、その二人の証人が誰であるのかは別として、その二人がどういう働きをするのか?
については説明してある。
といっても、それは遥か過去の話として予型、伏線として仄めかされている。
それはこのブログでも何回も取り上げたのだが、創世記のソドム滅亡の話とヨシュア記のエリコ攻略の話である。

 

この二つの話は時代背景と設定が違うので多少の違いはあるが話の本質は驚くほど似ている、というかほぼ同じである。
どちらも、

主(あるいはヨシュア)が背徳の町の住人を探らせるために二人の使者を派遣させた。
そして、「住人は駄目だ、救いようが無い」、と判断し、町が滅ぼされる時に、その二人使者を助けた者だけが救出された。

という内容である。

 

これがヨハネの黙示録の二人の証人の予型、伏線になっている。
いや、そのもの、と考えていいだろう。
つまり、背徳の町、ソドムとエリコの住人はこの地球人そのものの喩えである。
そして、そこに派遣された二人の使者とはノストラダムスとその後継者だ、と考えればよい。

キリスト(天使軍団)は昇天と再臨の間の期間にこの二人を派遣して地球人を探らせて、この二人を助けた者だけを救出する、
という預言なのである。

 

勿論、住人が二人の使者を丁寧にもてなして町をあけ渡したならばその町と住人は救済されたのだが、
この二つの話は「再臨ができなかった場合の携挙についての話」を想定されて作成された話なのである。

 

「でも、ノストラダムスって16世紀のフランスの予言者だろ。
何百年も前に死んだ人だから、助ける、と言われてもどう助けるのさ」

と言うだろう。
この場合の「助ける」とは「尊敬する、尊重する」
と言い換えてよい。
換言すると

「ノストラダムスを尊重しなかった人達=ノストラダムスを嘲笑して罵詈雑言を浴びせた人達は滅ぼされる」
ということだ。


日本でも1999年に、「何も起きなかった=ノストラダムスは外れた、として酷いノストラダムス・バッシングの嵐が吹き荒れた。
あの時にノストラダムスを嘲笑した人達は皆滅ぼされる、助からない、ということだ。
あれから17年も経ったが、いまだにノストラダムスというと、
「ああ、あの外したインチキ予言者ね。ノストラダムスなんてまだやっているの?」
という人が多い。
そういう人達は一人も助けてもらえない。

 

これは聖書ではどのように描写されているのだろうか?

 

19:4ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、
19:5ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。

19:9彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。 (創世記)

 

ソドムの住人は寄ってたかって二人の使者を犯そうとしたのである。
これは、まさに1999年当時の、そしてそれ以後の日本人の姿である。
彼らはソドム滅亡の際に町と一緒に滅ぼされた。

 

あるいは、ノストラダムスでなくても、今、
「もうすぐ地球に酷い艱難が起きる。そして、地球人は悪魔軍団に征服されて奴隷にされてしまう。
だから、艱難が始まるまえに天使のUFOを呼んで、地球から脱出しよう」

と言ったらほとんどの人はどう反応するだろうか?

「宇宙人?、UFO?
あんた本当にそんなこと真面目に考えているの?
頭おかしいんじゃないの?
そんなことが起きる訳ないさ」

と言う人がほとんどだろう。
それは次のように描写されている。


19:12ふたりはロトに言った、「ほかにあなたの身内の者がここにおりますか。あなたのむこ、むすこ、娘およびこの町におるあなたの身内の者を、皆ここから連れ出しなさい。
19:13われわれがこの所を滅ぼそうとしているからです。人々の叫びが主の前に大きくなり、主はこの所を滅ぼすために、われわれをつかわされたのです」。
19:14そこでロトは出て行って、その娘たちをめとるむこたちに告げて言った、「立ってこの所から出なさい。主がこの町を滅ぼされます」。しかしそれはむこたちには戯むれごとに思えた。(創世記)

 

娘婿達はこの「もう直ぐ町が滅ぼされるから町から脱出しよう」
という話を冗談だと思って受け流した。
その結果町に残って滅ぼされたのである。
このように私の話をまともに聞こうとしない人達もいずれ滅ぼされる。
一般的には「良い人」であっても、この説に無関心な人は救済されないのである。

 

預言やUFOの話にしても、

「そんなこと起きる訳ないさ」

とたかをくくる。

あるいは、直ぐに上から目線で馬鹿にして嘲笑する。

という風潮が蔓延している、というか、それがほとんどの人の普通の反応なのである。

まさにソドムの住人だ。

 

さて、ソドムの話だが、これはこのブログでも何回も説明した。
だが、ソドムの話では、このシリーズの主旨に直接関係があると思われる記述はない。
あるとしたらせいぜい次の記述だ。

 

19:15夜が明けて、み使たちはロトを促して言った  「立って、ここにいるあなたの妻とふたりの娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義のために滅ぼされるでしょう」。
19:16彼はためらっていたが、主は彼にあわれみを施されたので、かのふたりは彼の手と、その妻の手と、ふたりの娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。(創世記)

 

ここでロトはためらっていたので、二人の御使いは

「もう時間が無い。ぐずぐずしていると一緒に滅ぼされるぞ」
と判断して、ロトの一家の手を取って町から連れ出した。
かなり強引である。


その理由として、
>主は彼にあわれみを施されたので

と書かれてあるが。


普通なら「もう直ぐ町が滅ぼされるから自力で町から脱出しなさいよ」
というアドバイスをして、「じゃあ」と言い残して消えてもいいはずだ。
「アドバイスしたんだから、それに従うか従わないかはロトが決めることでしょ。
これ以上しなくてもいいんじゃないの?」
としてもいいのではないだろうか?
と思われるが。


ところが二人の御使い、あるいは主は、ためらっているロトを見かねて、手を引いて町から脱出させた。
これを今に当てはめると何を暗示しているのだろうか?

 

携挙希望者に対して、
「未来を教えて、助かる方法を教えたんだから、後は自分でやってよ」
と突き放さなかった。
あるいは、

「自分で脱出しなさいよ」と突き放したら助からない、と解っていた。
「とことん懇切丁寧に面倒みてあげますよ(~つまり、迎えに行って救出してあげますよ)」
という決意を仄めかしているのではないか?


という気がするのだが。