昨日のブログをシェアいただいた皆様、ありがとうございます。僕は金融のプロではないですが、現場の声としてお読みいただきましたら幸いです。

 

さて、Twitterにも抜粋して載せたのですがその中で一番反響良かったのが「家賃交渉」のくだりです。

140文字でしか表現できない中「美談」と捉えられたら申し訳ないので本当のことを書きます。

 

 

2001年の秋でした。仕事を辞めてからバイトもせず、毎日携帯ゲームの「グラディウス」ばっかりやってました。

 

夜は全く眠れず、明け方に少し寝る、昼に起きると、なぜか涙が溢れてきます。インスタント食品を食べてまた寝る。

あれだけたくさんいた友達も、ラグビー仲間も、女友達も、ずっと電話に出ないでいると段々連絡がこなくなります。

 

心療内科へ行けば鬱病と診断されたのでしょが、当時はそんなことさえ考えも及びません。

 

 

 

 

ずっとサラリーマンだったので、月末になると銀行に振り込みがありました。それがないことへの危機感もないのです。

 

国民年金、健康保険、家賃、電気代、ガス代、食費、なんか税金もろもろ・・・

 

給料が入らないとあっという間にお金が無くなります。

 

僕は酒が全く飲めませんし、高い時計とか服とかも欲しいと思いませんでしたからお金は溜まっていました。

 

サラリーマン時代は遊びに行かず仕事ばっかしてました(年間休日は1月1日と8月15日と12月31日の3日くらいでした)

 

それでもあっという間に貯金はなくなりました。

 

 

 

 

 

 

名古屋市中村区中村町の宮本整形外科の前にあった「メゾン宮本」

 

19歳の時に高校の同級生と二人で部屋を借りました。バイト先の名古屋駅にあった雀荘の社長がオーナーです、社長が亡くなったときは奥さんの要望に応えて麻雀好きだった社長の遺体の前でバイト4人で一晩中追悼麻雀しました。

 

 

社長の奥さんがメゾン宮本のオーナーになり、同級生の隆雄が出ていき、就職するころには一人暮らしになりました。

 

最初302号室(ドラゴンズの都裕次郎が住んでた部屋らしいとのウワサも)だったのですが、「女との〇〇〇の声がうるさい」「週末の麻雀の声がうるさい」との苦情を下の部屋の202号室からいただき、1階の101号室へ引っ越しました。

 

 

それから11年後、33歳でニート生活に陥り、いよいよ6万円の家賃が厳しくなりました。

 

中村町内の近くに家賃22,000円のボロアパートがあったのでそこへ引っ越しを決めました。

 

先述したとおりバイト先の社長の持ち物だったから、不動産会社も通さず、敷金も礼金も払っていません「出ていくときは修繕費は払ってもいますからね」と言われていたので少しでも安くしてもらうよう、その交渉をしなければなりませんでした。

 

 

メゾン宮本の1階の階段で大家さんの女社長、宮本さんに恐る恐る聞きます

 

 

「宮本さん、学生時代から14年間大変お世話になりました。僕は仕事を辞めてしまい、実はもうすぐ家賃が払えなくなります。引っ越しますが、どうか修繕費をおまけしていただけないでしょうか?」

 

 

社長はじっと僕を見ています。睨んでいるようにも見えました。

 

 

数十秒の沈黙の後

 

 

「アンタみたいな好青年がなにを情けないことを言っとるの!!!学生時代は4年間も真面目にバイトしてくれて、旦那が死んだときは一緒に泣いてくれて、一晩中死体の前で麻雀してくれて・・・・そりゃあいつも違う女連れ込んどるし、麻雀うるさいし、でもアンタは一回も家賃遅れたことなんかなかったがね!」

 

社長は泣いていました、途中で僕の胸のあたりをリズムよくドンドン叩き始めました。

 

 

 

「いくらなら払えるの!!!!!」

 

 

「え?」

 

 

「うちの息子(医者)と比べたら頭悪いけど、アンタにはウチにおってほしいの!でもタダはいかん!いくらなら払えるの!?」

 

 

「・・・・・」

 

 

 

「答えなさい!払えるだけでいいから!」

 

 

 

「5,000円・・・・」

 

 

「ダメ!」

 

 

「チッ」

 

 

 

「よし!半額にしたる!3万円でいい、だから頑張って働きなさい!」

 

 

そう言うと、11月分の家賃袋から3万円を出し「ホラ!」と僕に返してくれました。

 

 

部屋に戻ると情けなさとカッコ悪さと、いろんな感情が入り乱れて、ベッドにひれ伏して大声を出して泣きました。1時間くらいずっと泣きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌々日、履歴書を書いて柳橋交差点にあったビルの9階の中華料理屋「頤和園(いわえん)」にバイトの面接に行き、マネージャーとして採用されました。

 

 

給料は夜間のみで15万でしたが家賃が3万円だったのでなんとか生活できました。

 

 

かつては天皇家も食事に訪れた頤和園は、当時は名店の面影はなく反社会の関係者や筋の悪い客ばかりで、パートの女性たちは明らかにレジのカネを盗んでいることに気づきました。

 

普通にサラリーマンしていた僕には経験したことのないひどい環境でした。

 

手癖の悪い連中は全員クビにしてスタッフを刷新、売上アップを図りましたが、12月に重い風邪で体調を崩し寝込んでしまいました、その間クビにしたパート全員が中国人オーナーに訴えかけオーナーからは「古株のパートたちには少々のおこずかいは問題なかったのに・・」と告げられクビになりました。

(この時の経験から僕は今でも、会社のカネに手を付ける奴や、姑息な手段で小銭をくすねる奴が大嫌いです。すぐに辞めていただくようにしています)

 

 

 

 

2002年1月6日のことでした。

 

 

その日が僕の人生への挑戦を決意した日です。

 

 

その後、個人で広告会社を始め、今でもずっとdelaがお世話になっているAZパークさん(アオキスーパー)のイベントで初めてお仕事をいただき売り上げは6万円、利益は1万円を計上しました。

 

 

 

そこからはネガティブな「ディフェンスモードから」「オフェンスモード」に切り替わった、

 

いや嘘です。超攻撃的な「野獣モード」にスイッチが切り替わりました。

 

脳が躁状態ですから仕事むちゃくちゃするし、女とも〇〇まくるし、名西高校OBチームでラグビーも再開しました。

 

 

この年、結局一人で年間8,000万円の売上をつくりました。

 

翌年莫大な税金が来るとのことで、今も味方してくれる税理士のTAK(柳橋ビアガーデンのMCです)に勧められ、会社を設立して18年間の荒波に呑まれていきます。

 

 

 

 

 

中村町にあったメゾン宮本の社長には命をつないでいただきました。会社の調子のいい時には何度か新年のあいさつは欠かさず言ってましたが名古屋駅に事務所を構えてからは無礼しっぱなしです。

 

 

まだお元気でしたら、あの時まけていただいた3万円×数か月分を返済しに行こう・・・・とは考えていません。

 

 

今の子たち、つまりdelaのメンバーに交通費として返したり、もし一人暮らしをするのなら家賃を3万円分負担してあげたり、なにか3万円分の小さな冷蔵庫か電子レンジをプレゼントしようと思います。

 

 

「情けは人の為ならず」

 

「ご恩送り」(Pay it Forward)の精神です。

 

 

 

感謝の気持ちを添えて。