日本列島分割案から日本を救ってくれたスリランカ代表の感動スピーチ | 幸食研究所ブログ

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1952年(昭和27年)4月28日、正式に戦争状態を終結させるためにサンフランシスコで調印された日本と連合諸国との講和条約が発行された日です。

この日を以て正式に戦争が終結したのです。(正確にはこの後もアメリカ統治は今を以て続いています)


1945年8月15日、現実的に天皇陛下の玉音放送によって事実上戦争は終結しましたが、その後諸々の手続き、そしてサンフランシスコ講和条約締結までに、日本は徹底的な侵略統治計画を受けました。

それはWGIP(ウォーギルトインフォメーションプログラム)と呼ばれる日本人劣化作戦が繰り広げられ、少なくとも世界で最も長く続いた文化・伝統は徹底的に破壊され、ギネスで認定されているだけの2700年の歴史もことごとく塗り替えられてしまいました。

たった戦後の70年間で、良くも悪くもとても大きな変化を迎えた日本は、それでももっと過酷な民族が絶滅してしまうほどの危機がありました。

今現在、沖縄の反日勢力はこの日4/28を「屈辱の日」と被害妄想を並べてデモなどを行っていますが、日本の戦後統治では、日米だけでなく、イギリス、ロシア、シナを始めとした連合諸国と極限の交渉状態だったのです。

1951年サンフランシスコ講和会議において戦勝国である連合軍は、日本に対して厳しい賠償と制裁措置を求めた。
下図はソ連(当時)が提案した米英中ソの4ヶ国での分割統治の案です。

 
日本の北海道・本州・九州・四国を米・英・露・支(中国の)連合国それぞれが統治しようとした計画がかなり危険な状況まで話し合いが行われていたのです。


特に共産国家ロシアの執念は深く、ロシアがかつてどのような虐殺を行ってきたか、そして現在中国がチベットなどでどれだけの弾圧・殺戮を行っているのかを考えれば、それがどれだけ日本にとって深刻だったのかは想像に難しくはないでしょう。

もちろん様々な駆け引きが行われ、その影響は大きいものではありましたが、その分断統治の危機を救ってくれたのは、セイロン(現スリランカ)代表ジャヤワルデネ氏の演説だったのです。

1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効の前年に行われた連合国家51カ国が集まる講和会議において、この様なスピーチを行ってくれたのです。

 

私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。

アジア諸国民が、日本は自由でなければならないということに関心を持っているのは、なぜでありましょうか。
 
それは日本とのわれわれの長年の関係のためであり、そしてまた、アジアの諸国民の中で日本だけが強力で自由であり、日本を保護者にして盟友として見上げていた時に、アジア隷従人民アジアの諸国民
が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。
 
私は、(日本が掲げた)アジア共栄のスローガン
が隷従人民に魅力のあったこと、そして、ビルマ、インド及びインドネシアの指導者により国々が解放されるかもしれないという希望によって、日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。

空襲や東南アジア軍の指揮下にある膨大な、軍隊の駐屯及びわれわれが連合国に対して天然ゴムの唯一の生産者であった時、われわれの主要商品の一つであるゴムを枯渇せしめたことによって、もたらされた損害は、われわれに対してその賠償を請求するつもりはありません。
 
何故ならば、われわれは、アジアの無数の人々の生命を高貴な言葉、偉大なる教師であり、仏教の創始者である、仏陀のメッセージ、すなわち『憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ、消え去るものである』という言葉を信ずるからであります。
 

故に、この条約の目的とする所は、日本を自由にし、日本の回復に何ら制限をも課さず、日本が外部からの侵略及び内部よりの破壊に対して、自らの軍事的防衛力を組織するようにすること、そうするまでには日本防衛のために友好国家の援助を要請すること、並びに日本経済に害を及ぼすような、いかなる賠償も日本から取り立てないことを保証することであります。

 
スリランカ代表 J.R.ジャヤワルダナ氏


これを目の当たりにした主席全権吉田茂以下、日本の随行員らは、スリランカ代表のJ.R.ジャヤワルダナ氏の演説に大いに感動しました。
       
吉田茂はスリランカの若い代表と会って、スピーチの感謝をました。 

 

この感動の演説が連合国の空気を一変して、日本への講和条約締結に至ったのです。

その影響は計り知れません。

そしてその後、ジャヤワルダナ氏と日本の交流は続き、閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日。

更に政界引退後も日本を訪れています。

また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流にも多大な尽力をしました。      

1989年 昭和天皇の大喪の礼に、本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。

既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として待遇されました。

1991年 日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学しています。
      
1996年11月1日 90歳で死去に際し献眼、角膜提供。

「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られた。彼の遺言通り左目は長野県の女性に移植されたそうです。


 







 

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