手塚治虫 最後の講演 ラストメッセージ  | くまがいくブログ

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ラストメッセージ 最後の講演 昭和63年 11月1日 大阪教育大学附属池田小学校にて

実際の宇宙の中では、こんなちっぽけな小さな星に、何十億の人間が住み 
無数の生物が同棲しているという事は考えられないと思います。
そういう小さな脆い石の固まりに我々がいるなら、お互いに争ったり、
あるいはいつも自分達だけの事を考えるという、
そういうような未来は子供達に絶対あっては困る 
その考えだけは子供達から捨てて欲しい。
そして人間を愛し、同時に生き物のすべてを愛する 
そして人生を歩む そういう子供達に是非なってもらいたい。




(NHKの番組 Youtubeアップ解説)

昭和63年10月31日 大阪の豊中市立第三中学校にて講演 
(半年前にがんの手術後、周囲の反対を押し切って大阪に行く。)  



火の鳥を書いて話す。
命というものはね、スケールの大きいものなんだと、そういう感じがしてきたんで。
宇宙って言うのは 何もかも全部生命力を持ってる。
人間を励ます、人間だけでなく生物を励ます。。。
生きるという事を書いた、ホントの本音のはそういう事です
もう少し命とか地球ってものを、大事にして欲しいなー


体が弱かったが、マンガを書き始める。
中学校の時に、大東亜戦争が勃発 軍需工場に配属 
16歳 戦時下 大阪大空襲で淀川で沢山の被害者をみる。  人生の中で、最高のショックをうけた。

第2のショック 阪大医学部の研修で臨終に立ち会う。 苦しんでいた顔が臨終の間際,ころっといい顔になった、生命はつながりの中でほんのわずかなものじゃなくて 宇宙的な物と実感した。

医者ではなくマンガ家の道を選んだ手塚先生は
こうした体験をもとに子供達へのメッセージを送り続けたのです。

一つ申し上げたいのは、講演の最後のメッセージ
1、皆さんは野次馬だとしてもなんでもかんでも好きな事を全部かじって欲しい!
2、これから皆さんがこれからウケるであろう、一番大きなショックの事を
  一生大事に持って下さい。 忘れないで持っていて下さい。
3、命を大事にして下さい

この三つが、僕のささやかな贈り物です。

昭和20年代末 マンガは子供の成長を阻むと、悪書追放運動があった。 にゃんだって!!
子供の支持があり連載も持っていた手塚治虫は、PTAの呼び出しをうけて、ハレンチと凶弾されていた。動物が言葉をしゃべり、ロボットや世の中に存在しない物を書くのはよくないと。。


昭和40年代 劇画が登場し、手塚は古いと言われた。
  ナウな感覚が、マンガの生命なら、迎合すると、今までの読者が裏切ったと去って行く。
  谷底に落ち込んだ。

劇画を意識しろと言われる。手塚先生は、神田の医療専門の書籍を読みあさり、その時代の事件、事故をテーマにするようになった。
” 人間が、生き物の生き死にを自由にしようと思うなんて、おこがましいと思わんかね。”
よく子供達から人生相談を受ける、子供達が死のうと思うんだがと口にする
どうせ生きていてもしょうがないんでしょ?すぐ第3次世界大戦がはじまって
放射能が全世界に広がったら 逃げたって無駄なんでしょ?
そんな事を人生観にしてしまうことは、寂しい事です。
と、声を荒げる瞬間もあった。



輪廻転生があるのなら、僕はミジンコだったかもしれない。

昭和63年3月激痛に襲われ手術
胃がんが胃を破っていた、4期のがん。

1988年 最後の未完の作品 ネオファウスト 




絶筆 ネオファウスト 最後に書かれた言葉
”誰なんだ”

最後の日記 1月15日 
今日は素晴らしいアイディアを思いついた。
トイレのピエタというのはどうだろう。がんを宣告を受けた患者がトイレの天井に描く話。
ミケランジェロさながらにフレスコ画を描き始める、凄い迫力で傑作と言える作品になる。
浄化と昇天!これがこの死にかけた人間の世界への挑戦だったのだ!



最期の言葉
”頼むから仕事をさせてくれ

最後の講演から3ヶ月後
1989年 平成元年 2月9日 朝 享年60歳

NHKスペシャル

手塚治虫 講演CD集~未来への遺言~CD6枚組~欲しいなー!