何がそんなに疲れさせてるか分からないけど、今日はひどい眠気で何も出来なかった…やっと、目が覚めたけどこんな時間です。


さて、6/23は沖縄慰霊の日。今年で戦後67年。

慰霊の日と定めた由来は、沖縄戦で追い込まれた日本軍・牛島満中将が、糸満市摩文仁の海軍防空壕で、自決した日で、この日を最後に、組織的戦闘は終わった。
しかし、自決前に、軍へは最後まで戦うよう命令したため、この日以降も凄まじい戦闘は続き、沖縄は「鉄の暴風」と言われるほどの、無数の爆弾が吹き荒れた。それは、沖縄の地形が変形してしまうほどだったという。

戦闘に巻き込まれたのは軍人だけでなく、一般の沖縄県民も含まれ、失われた命は20万人以上。

その中には、爆撃による戦没だけでなく、集団自決など、自らの手によるもの、スパイ容疑などの日本軍からの虐殺も含まれる…。


6/23は沖縄では公休日。沖縄戦全戦没者追悼式が行われる。今日も、糸満市摩文仁の平和祈念公園「平和の礎」では、その式典が行われ、平和宣言がなされた。

学校では、毎年6月は、平和教育月間。図書館で、戦時中の痛ましい写真が展示されたり、沖縄戦の実態を勉強する。


そんな平和教育を受けてきたので、このくらいのことは、何を調べなくても話せる。
けど、本土では、報道がなく、慰霊の日というのも知らない人が多い…。私はそれが悲しい。

上京して初めての年、大学で誰一人としてこの日を知らなかったことの衝撃には、やりきれない気持ちになった。

だから、ラジオデビューのときは、このことをまず特集した。



なんで、このことは話題に上ることがないんだろう…??

沖縄では、まだ不発弾処理、戦没者遺骨収集、平和の礎への戦没者名彫刻が行われている。67年たってもまだ、傷跡は残っている。

そして、慰霊の日になると、毎年思うこと。
私の母は、1945年5月生まれ。沖縄戦真っ只中に、祖母は母を生んだ。
その時は、どんな状況だったんだろう?赤ちゃんがいると、泣き声がうるさく、敵に見つかってしまう危険性から、防空壕に入れてもらえなかったことも多いと聞いている。それを考えると祖母の苦労は、想像を絶する…。
その命のバトンがなかったら、私は存在してない。もう会えない祖母だけど、年が経つにつれ、祖母への想いは深くなる。



一昨日、高校の同級生が東京に遊びに来て、雑貨屋さんで花瓶を見ていたら、その形を見て「この形、防空壕に転がっていそう」と言って、顔を歪めた…。
確かに、その花瓶は、色と形が、爆弾の薬莢の様だった。
その一言から、確認したわけではないが、その様子から考えると、今でも沖縄戦を経験した祖父母が家にいると、このような気遣いが必要なんだな…と感じた。
最近の出来事では、衝撃的な一言だった…。


沖縄は、こんな感じです。戦後67年、復帰40年経っても、こんな感じです。

みなさん、どう思われますか?
沖縄は今日梅雨明けし、これから夏。観光の季節。レジャーに眩しい沖縄だけど、こんな実態もあること、少しだけでも、心のなかに留めておいて頂けると嬉しいです。


ちょっと、真面目に話してしまったので、最後くらいカラフルに。
写真は、2月に帰ったときの、母が手入れしてる庭のお花たち






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