昨日の意固地解決編
では、
1.本当の望みを知る
望む結果は「意地悪をやめてもらいたい」ではないのでは?
避けられない相手との人間関係をどうする?
などについて書いてみました。
自分をほめる、小さく認める、そんなことが自信と自分を好きになることに繋がっていきます。


そして、ようやく「親の意固地が子供を冒す」
意固地な親、子供を冒す親にならないためには?その2、と3です。

2.自分以外のモノを自分の存在理由にしない

子供・仕事・他者を自分の存在理由にしないこと。「○○のため」ではなく、どんな場合も主体はあくまで自分にします。

主体が自分以外にあると、どうしてもやらされている感が生まれるので被害者・犠牲者意識が芽生えます。ただ、自分以外のモノのせいにしておけば責任を取らなくて良いという大きなメリットがあるので、なかなか抜けることができません。相当の覚悟が必要になります。


今までは実際に被害に遭ってきたとしても、明日も被害に遭う、相手が誰でも必ず被害に遭うとは限りません。

常に「私は被害に遭う」「私はかわいそう」という前提を持っていると言動や態度に現れます。すると相手も「大変ね」「かわいそうね」という目線で接してくるので、自他ともに認める大変でかわいそうな毎日を送るようになってしまうのです。


相手が大人であれば「あの人被害者意識があるよね。」と判断すれば適当な距離を保つことができます。ところが、これが親子関係になると事態は一層複雑になります。
 子供は親を助けるために来ています。心理学では、子供が親に愛着を持つのは生命維持に必要だからだという事になっていますが、それだけではありません。

  親が子供のために存在しているという気持ちを持っていると子供は必死に期待に応えようとします。例え、親の目論見が「子供の存在を理由にして自分のつまらない意地を通そうとしている」のだとしても、親が「大変」で「かわいそう」なのは自分のせいだと感じます。
結果的に、罪悪感を持つようになる、というのは理解しやすいのですが、おそらく子供の中で起こっていることはもっと複雑です。

心の奥底では、言語化できないとしても親が親自身を正当化したいという願望を持っていることがわかっている。そのために子供である自分を利用しているということも感じている。それでも、親の願望を叶えたい。

一方、日々の「この子に手がかかるから」「育児で自分のしたいことができない」という親の雰囲気から、心のもっと表層的な部分では、自分が悪いという気持ちが生まれる。
 けれども、親自身は親としてのあるべき姿に沿って「子供に手がかかるのは当たり前」「自身の欲求よりも育児を優先するのが当たり前」だと思い込もうとして、できない自分を責めてもいる。責めていながらも、思い込む必要があるために口では当たり前論を語り続け、不安を押し込めようとして大丈夫だと言い続ける。

親自身が葛藤を垂れ流しているので、子供は、親の本音と建前のどちらを採用しても親を満足させることができないことに葛藤を抱き、無力感を覚え、自分に罪悪感を抱く。

そんな構造になっているのだと思います。
葛藤があると、自分自身の心が引き裂かれるので実際に病気になります。


親が子供を理解している(と思っている)以上に、子供は親の無意識の葛藤まで敏感に感じ取っています。だから、それが本当の親の望みだと察知すれば、自ら共依存にはまることも選んでしまいます。


反抗期の子供でも同じことです。
家庭以外の世界に触れ心身ともに成長していく過程で、子供は漠然と親に対して抱いている違和感の正体に気づいていきます。言葉で説明することはできないとしても。そして、今度は違う形で親の本当の願望を叶えようとします。親が抑圧している感情、嫌悪感を抱いているもの、それを具体的な形で子供自身が表現してくれているのです。

親は、反抗期の子供を「どうしたらよいかわからない」と言いますが、それはずっとどうしたらよいのかわからないままにしてきた自分が抑圧している感情です。自分がやりたくてもできなかったことを子供は代わりにしてくれています。
 感心できない友人と付き合う、定職につかない、暴れる
自分は絶対にしない、許せないことばかりで、とても代わりにしてくれているとは思えないでしょう。


子どものやり方は、確かに洗練されてはいませんが、
感心できない友人との交流 ⇒ 無難で安全な人間関係とは
定職につかない ⇒ きちんとした大人・職業・地位・世間体とは
暴れる ⇒ 円滑で波風が立たないコミュニケーションとは

右側が親が信じている「あるべき論」。
抑圧してきたのはそれ以外の可能性、そこから生まれる知覚の広がり、体験によって得られたかもしれないもの。
反抗期の子供は、「親が嫌がること」をすると相場が決まっているわけですが、嫌がってきたものこそ今まで許されないと思って自分に禁止してきたものなのではないでしょうか?

ですから、ここでも②意固地解決編 で触れたように自分の本当の望みを知って、妨害しているものは認識を改め、そこから行動を組なおす必要があります。

親が子どもに望む第一の願いは
言うことを聞く子になることではなく、子供が笑顔で過ごすこと
ですよね?

3.子供を信じる

良く言われていることですから、ご存じだと思います。
ただ、これも知っていると出来ているの違いが大きいものの一つです。

子どものことを心配してしまうのは当然です。
けれども、心配の後ろにある親の程度・心理によって結果は全く違ったものになります。もちろん、心配するのではなく信頼しているからといって、子供を放っておくだけでは子供の心に痛手を負わせてしまいます。
 
具体的には
「失敗するのではないか」とハラハラするのは自分が持っている不安の投影
「うまくいくように」環境を整えるのが適切な配慮

過保護や過干渉では必要以上に傷つきやすい子供を作るだけですが、経済的な支援や安全の保障は最低限の親の保護責任です。

安全の保障は、設備や装備を整えるだけではなく、子供が要求した時には応える。子供が自分にはできると勇気を出すことができ、万一の場合も逃げ込める避難場所を提供することも、保護の義務には含まれていると思います。

その上で、ここで初めて子供の力を信じる、信頼するという保護手順が踏まれているのが望ましい。

そして、最終的な決定は子供を信じて子供にゆだねる。そして責任も持たせる。
「空手もいいけど、バレエも筋肉を結構使うのよ。スタイルも良くなるわよ」と誘導もしない(笑
子供が「じゃあバレエ」と習い始めて早々に「やっぱりやめる」と言い出した時「自分で決めたんでしょ!きちんと責任もって最後までやりなさい」なんて言うのはNGです。




親の意固地は子供を冒す①
意固地解決編