親自身にコンプレックスがあると子供に投影してしまう。子供にとってはイイ迷惑だけれど、子供がその事に気づく事ができるのは、ずいぶん大人になってから。それまでは自分でも原因が分からないまま、身体に不調を出して訴えるしかない。





中学受験のための塾の前を登下校時間に通ると円形脱毛症になってる男児を見かける。


女の子は髪型で目立たないせいか、気づかないのだけれど、男の子は毎年必ず円形脱毛症の子が居る。



やっぱり男児の方がある意味繊細なのかも



今更受験制度が悪い、と言っても始まらないと思う。私が小学生の頃から中学受験はあったし、中学で有名私立を受験する事が義務のようになっていた男の子たちの中には円形脱毛症の同級生もいた。


受験を乗り越えられる子だって居る。
違いは何だろう?
かつて自分が小学生だった時にはわからなかったけれど、今になって思えばおぼろげに覚えている円形脱毛症になる子供たちのお母さんには、ある共通する特徴があったと思う。



受験の時に万一にも体調に変化があってはいけないから、と小学校五年生からお刺身は食べない。っていうお家が実在した。


本人のお腹が弱かったのか、お母さん自身に過去お刺身にあたってえらい思いをしたなんていう余程の「お刺身トラウマ」があったのかもしれないけれど、私は当時小学生ながらになんだか本末転倒っぽいな、と思っていた。



我が家は、娘2人とも小学校受験をしたのだけれど、その時に塾の先生に「受験するのはお母さんじゃなくてお子さんなんですよ!」とたしなめられてる、しかも大泣きしてる(←お母さんが)方々が毎回居て、彼女たちにもやはり共通する気配があった。



そういうお家の子が例えば円形脱毛症になるんだろうなぁ、と思う。



受験するのはお母さんじゃない!
と言われているところから見ると、やはり投影なんだろう。自分の希望が子供の希望だと思いこんでしまっている。


小学校、中学校受験までは、子供本人が得られる情報というのは限られているので、志望校決定のイニシアチブが親にあるのは当然のことだし、子供の特性や気持ちを正しく把握する、ということは親にとっても決して簡単ではない。
  親業というのは手探りしながらそこを見極めていくことの連続で、どのお母さんもその人なりの努力はしている。



だから
だからこそ
親は、自分自身に葛藤があることに気付いたら徹底的に向き合う必要があるんだと今は強く思う。
  子供を犠牲にしちゃいけない。





親自身にコンプレックスがあると子供に投影してしまう。子供にとってはイイ迷惑だけれど、子供がその事に気づく事ができるのはずいぶん大人になってから。それまでは自分でも原因が分からないまま、身体に不調を出して訴えるしかない。



コンプレックスというのは劣等感ばかりではない複雑な感情で、無意識の中に抑圧された感情が、思いがけず強い怒りなどとして出てきてしまう。



挨拶ができない子供を恥ずかしいというお母さんは、子供を見ているのではなくて、子供の振る舞いを通して「親の躾が良いか悪いか評価する世間」を見ているのだな、と感じる事がある。


こんなケースでも、親は子供には「人としてするべき事をしなさい」などともっともらしい事を言うから、子供は、心の中で親に恥をかかせた自分を罰し、人間としての自分の評価も下げる。二重の責め苦だからものすごく辛い。


で、ある日気付くと髪の毛が抜けている。





人間を育てるって大変な事だ。
私は子供が小学校に上がるときに漠然としたものすごい不安を感じて、子供を進学校に入れる一方で女性初の役員に出世している非の打ち所がない上司に愚痴をこぼした。


「子供が小学校に上がったら、毎日ゲラゲラ笑ってばかりいるわけにも行かなくなりますよね。」
すると上司は事もなげに
「良いじゃない、ずっとゲラゲラ笑っていれば」と答えた。
私は密かにため息をついた。



私が感じていた漠然とした不安は、きっと自身がゲラゲラ笑い続けられない事だった。
子供が小規模ながらも社会生活に入っていけば、自分の持っている葛藤が白日の下にさらされる事になる、という事を感じとっての不安だったから。


学校との関係、子供同士の友達関係、その親達との関係、トラブルがあった時、イベントがあった時、その全ての場面で抱えている葛藤を反映した親の考え方が如実に現れてくる。


多分、人間関係を築くことを恐れている人は抱えている葛藤が表面化する事や、対処しなければ自分が傷つく事を無意識に感じとって恐れているのだと思う。私の不安もきっと同じ種類のものだった。


自分一人なら、傷つく事を恐れて引きこもっていれば良いかもしれない。
でも、親自身が自分が傷つく事を恐れてコンプレックスを見ないふりして放置すれば、代わりに子供が静かに病んでいく。



受験の弊害だってたぶん親たちの見ないふりが一因。
ニーズがなければ作らないし売らない、のが資本主義社会の原則だから。
偏差値の高い学校に無条件に価値を感じる親がいる限り、受験戦争は無くならない。



高度な学びの場を必要とするような知能の高い子供も居る。
  でも、その場は自分の子にもふさわしい環境なのか?そこにいる事で自分の子は幸福そうに笑っていられるのか?子供が幸福そうに笑って居るイメージの向こうに満足そうな顔をした自分の姿を見ていないか?
チェックしてみたほうが良い。



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鉄道好きの息子が県庁所在地を覚えないくせに電車の型番は全部覚えてるのを見て「電車なんて覚えても食っていけないわよ!」という思いがムクムクと湧いてきたら「食っていくのは私じゃないわよ!息子よ!」とセルフツッコミ入れてみると良い。




親が自分の葛藤を子供に投影するのではなくて、子供の葛藤を親が吸収できるのがいいなあ、と思う。


親であるための手探りは一生続くんだろう
これからもダメな親だなあと自分を省みながら、なんとか立て直して最善の方向に持っていくトライの繰り返しなんだろう。


そう思っても、漠然とした不安はもうない。葛藤は相変わらずあるけれど、それでいいと思う。
ダメなところが見つかったら、見ないふりをせずに、罪悪感や自己憐憫や自己卑下で時間を浪費せずに、葛藤の原因を丁寧に癒していけば良いだけだと分かっているから。




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