昔は癒しという言葉が嫌いだった

「癒しなんて卑しい」と、確か岡本敏子さん(岡本太郎氏の実質的な妻)が語っていて

そうだよなー、なんて賛同していた。

(確かブログにも書いたはずだけれど、見つけられない)

当時は、鍼灸は代替医療だから、ただの癒しとは違うみたいに粋がっていた覚えがある。

 

 

しかし、

治れば何でもいいのだ

不調が改善されて楽になれば、何でもいい

 

 

たぶん

なごむわー、という感覚を癒しだと、私は勘違いしていたのだ

(岡本さんの解釈は違うだろうし、彼女のことは今でも好きだし尊敬しています。)

 

 

今では、癒しは絶対に必要だと思っている。

治癒の過程で、人間はまず癒されないと先に進めないから。

 

 

擦りむいた傷があると痛いじゃない?

お風呂でもしみるじゃない?

心が傷ついている時もしみるのよ。

何かを言われるたびに、傷が痛むの。

 

 

クリアリングを受けようと思ってくださる方は、満身創痍

擦り傷だらけ

傷ついてるから、どうにかしたい

 

 

傷ついている時は、

出口もヒントも見えない

それで、誰かに救いを求めるのだけれど

実は、そういう時は他人の言葉も聞けない

 

 


ちょうど、しんじゅさんもそのあたりのことを書いてくださっていました

 

 

 

心が傷ついている時は毎日攻撃の最中に身を置いているようなものだから

戦場に居るのと一緒よね?

安全な場所に避難しても、完全に大丈夫だとわかるまでは、とてもじゃないけれどリラックスなんてできない

 

 

だから、まずは傷を癒さないといけない

 

 

心の底から現状を変えたいと願っていて

ヒントやアドバイスを求めているのに

傷ついている状態では、耳に入ってこない

 

 

傷ついている状態のときは

放心したように、ぼーっとしているか 

⇒ 核心に近づくほど耳に入らない

 

攻撃に備えて戦闘態勢でいるか 

⇒ 核心に近づきそうになると抵抗か反発する

 

 

私も、以前カウンセリングでかなりの核心に触れられそうになった時は、その日の夜に胸が苦しくなってて死ぬかと思いました。


自分の全力で蓋をしているような事柄(核心)って、心構えがないままに解放しようとすると自分自身の全力の抵抗に合うんですよね。

 

 


だから、耳に入らなかったり、抵抗や反発をするのは

当然の自己防衛反応なのだと思います。




今まで必死に「無いこと」にして感じないようにして、自分的に辻褄を合わせてきたのに、それが開け放たれたら、過去の頑張り、努力が全て無駄になるという恐怖




 

 

アメリカ人が定期的にカウンセリングに通っている場面が映画に出てきたりするのは、

本題に入る前に、自己防衛の鎧を武装解除させる必要があって、武装解除に初めの3回くらいはかかってしまうことも珍しくないからでしょう


 

 

で、やっと癒しに戻ってきましたが

私のクリアリングに限らず

カウンセリング全般をお受けになるときに

少しでも効率よくお受けいただくためにセルフでできる下準備があります

 

 

セルフで武装解除ですね

もうお分かりのように

ご自分で「ご自分に大丈夫だ、安全だ」とわからせてあげるのです。

 

 

具体的な方法は自己防衛をセルフで武装解除