人の知性から得るもの | ゆらゆらダイアリ

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あたまと性格とウツをこじらせた一人暮らし女子のダメダメな日々。




イベントのたびにもらったアイテムを、シリーズごとには分けないでごちゃごちゃと飾ってる。
もっと整然としたセンスのいい庭ができないかなー、っておもってたけど。
さいきんは、こういうごちゃごちゃしたかんじがじぶんで気に入ってきた。





日曜の夜はできるだけ、旅のラジオ番組聞いてる。
「ここにいても旅はできる」っていうコンセプトの、ひきこもり系にうってつけの番組。

毎回、世界中のいろんな国の話が出てくる。
実際に行った体験の話ばかりだから、どれもリアル。
それにじぶんの想像を乗せて、人の体験にフリーライドする。

実際に旅に出ることにあまり憧れないのは、いろいろめんどくさい、の一言に尽きる。
そのくせ、ドライブは好きなのは、車で出かけることはめんどくさくない、から。

荷物をスーツケースにきっちりまとめなくていい。
外を歩くような重装備な服装じゃなくていい。

真冬だって軽くヒーターいれただけでぽかぽか。
だから、部屋にいるより薄着でいい。
途中でトイレ休憩にコンビニで降りるときのために、適当なジャケット。
それも、極寒を耐えれるほどのコートなんていらない。

お金を余分にもってないと、途中で車が壊れたら、って心配したときもあった。
でも、さいきんはびんぼーに開き直ってるから、壊れたら壊れたで、動けないときはそのままでいいや、なんておもってる。
100km以内はロードサービスは無料の保険にはいってる。
極寒の季節の夜中にエンジンストップしても凍死しないように、トランクには捨てるつもりだった布団と、シミがとれなくて普段着れなくなったひよこ色のダウンコートが入ってるから、これにくるまればなんとかなるはず。

海外には憧れる。
さいきんは現実的に誘ってくれる人もいる。
でも、行かないのはお金がないから、だけじゃないとおもう。
めんどくさいから。
行きたいけど、行くのがめんどくさい。

ギリシャの島に一度行ってみたいな。
それは、春樹おじさんの小説のせいと、この旅のラジオ番組でちょくちょく話題に出るせい。

でも、想像だけでわりと楽しめる。
日本とぜんぜんちがう気候の、空気の匂い。
そんなのいちども嗅いだことないのに、なんか知ってる気がする。

体験、っていうのは、想像力だけで捏造できる記憶じゃないのかな、なんて、おもったりする。

どこにも行かなくても。
体感、を、想像してしまえば、まるでほんとにじぶんの肌でかんじた異国の空気をリアルで知ってる感覚になって、それをそのまま「行ったことある」という記憶にしてしまえば、地元から一歩も出ないのにわたしはほんとに海外旅行ができる気がする。

そういうコンセプトの番組を聞いてるから、その番組に記憶の捏造を肯定されてるかんじ。

それは現実とはちがう。
って、「現実」を知る人は言うだろうけど。
現実を知らないままだったら、現実とちがっていても、なにがちがうのかはわからない。

それに、「現実」というものを知っても。
人によってとらえかたはちがう。
おなじ体験をしてるはずなのに、それぞれの記憶はぜんぜんちがうものになってたり。

恋愛でもあるよね。
わたしが好きな人とわたしと一年間、ありとあらゆる話をして、お互いにたーくさんの話を聞いた。
だけど、最後にこたえあわせをしてみれば、「あのとき」の会話は、それぞれにぜんぜんちがう意味を持たせていた。
まるで正反対の。
おなじ天体を見てたのに、片方はあれをほかの力に依存して光る月だと言い、もう片方は自ら輝いている太陽だと言い、まるでちがうもののようにとらえてる。
(※天体はただの喩え。それぞれの記憶が月と太陽ぐらいにちがう、って言いたかっただけ)

だから、実際に体験することが「現実」の真実を知るわけではない。
そういうことを、いまのわたしは知ってる。

だから、わたしはどこにでも行けるはず。

そんなこと思いながら、日曜の夜は走る車の中で、この旅の番組を貪るように聞く。
そのあとは、佐藤オオキさんとクリス智子さんの番組。

日曜は2時間続けて、知的でステキなオトナ、と出会える。
至福。
人の知性に触れることができるのは、至福。





お店のバイトを辞めた。
いろいろ予定外の流れになったけど。

そのときの話をいろいろ書こうとおもったけど、書いても意味がないからやめた。
記録として残しておく意味すらない。

ピチ子さんにひきとめられたし、いろいろあったピチ子さんと仲よくなれたのはすごいうれしかったけど。
そういう「いいこと」は、わたしをあのお店にひきとめる材料にはならなくなった。

ひとつおもったのは。
一時期深夜帯の大半が辞めて、ぜんぜんやる気のない人たちがヘルプに入ってて、そのあとでいちばん近い場所にあった他系列のコンビニが閉店になっちゃったから、そこから流れてきた学生のバイトが何人か入ってきた。

そこの学生の人たち、ものすごい優秀な人たちばかりで。
(だから、すぐにうちのお店の経営陣がおかしい、っておもったから、年明けにはみんな辞めちゃうらしいけど)
なんとなく大学に進学した、っていう人はいなくて、みんな、目的があって大学に進んでる人たちばかり。
だから、その勉強をホンキでやってて、卒業後は大学で学んだことの延長にある職業を目指してた。
未来に明確な夢を描いてて、それに向かって努力してる人たちなの。

あたまがいいんだよね、みんな。
勉強ができる、っていう意味だけじゃなくて。
じぶんの人生の設計書が描ける知性がある人たち。

こういうあたまのいい人って、仕事もすごいできる。
ひとりの人は何度か早朝のヘルプに入ってて、わたしも一緒に仕事したけど。
早朝の仕事の流れを、わたしの説明以上のことまで掴んで理解するのが早くて、まるでレギュラーメンバーみたいに、言われてから動くんじゃなくて先を読みながら動いていけてる。

「なぜ、それをやるのか」「なぜ、それはNGなのか」
仕事の段取りは、「やる」か「やらない」かだけで覚えてないで、その理由も理解する。
だから、なんのためにその作業をやるのか、なにが理由でそれはやったらいけないのか、ってちゃんと理由をつけて理解してるから、応用がきくんだよね。

たとえば、早朝のときにはつくらない種類のホットスナックは、次のシフトの人が出勤してきてからつくるんだけど。
(早朝はその時間帯の売れ筋しかつくらない)
時間があいたときに、次の時間帯の人の手間を省くために彼がつくっておいてあげようとした。
だから、わたしは「わたしたちはつくらなくていいんだよ」って教えた。
「はい」じゃなくて「なんでですか?」って聞いてきたから、「廃棄の時間がそれだけ早まるでしょ。お昼近くまでそんなに売れないから、つくるのはなるべく遅いほうがいいの」って説明したら、納得してて。

そしたら、「廃棄の時間を早めることのデメリット」を理解した彼が、ほかのものにも応用きかせて、「これが売れるピークタイムは何時ごろか」ってことを気にして、フードの補充の量を調整するようになってた。

一律に、何曜日はなにを何個、ってフードの調理量の目安のメモはそれぞれの什器のとこに貼ってある。
その通りに、セールの日でも天候がどうであっても、メモ通りにしか入れない人もいるけど、「きょうは寒いから肉まんがいつもより売れるだろうから少し多めにつくる」って判断がついてくる人もいる。

その通りに肉まんがぽんぽん売れると、補充も多めにしようとする。
でも、そこで「これからの時間」の売れ行きまで考える必要がある。
うちのお店の場合、肉まんは朝の8時過ぎたらぜんぜん売れなくなる。
次に売れるのはお昼近く。

だから、7時半過ぎた頃に、ものすごい売れた肉まんの補充するのに、おなじぐらいたくさん入れちゃったらダメなのね。
そういうのは毎日それをやってる人はわかってくるけど、あたまのいい人は、フライヤーのホットスナックの廃棄ロスを理解しただけで、即座にほかのフードにもすぐに適用して、その商品の売れるピークタイムを確認して分量を調整する能力があるんだよねー。

いっしょに仕事しててすごいラクだし、そうやって「先」を読んで応用を広げていく仕事の仕方を見てると、わたしも学ぶもの、たくさんある。

なにをひとつおもったか、っていうと。

あたまのいい人と仕事するのはたのしい、ってこと。

それぞれ能力はちがうから、わたしもおなじ場所で働く従業員ぜんいんがおなじ能力を発揮しなければならない、みたいな理想はムリだというのを学習してきた。
マニュアルは、おさえるべき最低ラインはここね、って基準を示してるだけで、理由まで理解する能力が低い人でも、理由なんてどうでもいいからマニュアルに書かれている通りにすれば、最低限の業務ができるようになってる。

マニュアルを導入するメリット、ってそれだよね。
最低ラインが一律に敷かれる、っていうだけで、業務ぜんたいの質はそれ以下にはならない保証がされる。

だけど、仕事っていうのは、マニュアルを超えたぶぶんで学ぶことはたーくさんある。

なにから学ぶか。
だれから学ぶか。

それは、ほんとは人材を育てなければならない経営者とか管理職の役目なんだろうけど。
やるべき役職の人たちがそれをやらない場合もある。
ブラック企業とか。

だったら、そんな職場ではなにも学べないのか、っていうと、そこまで絶望しなくていいんだとおもう。
なにかしら、学べるものはある。

いろいろと人格が残念な人ばかりいる環境で働いてると、精神の消耗が激しすぎて得るものより失うもののほうが多くてじぶんが壊れていくだけになっちゃったりするけど。
そういう環境の中でも、人間的に残念じゃない人、もいる。
優れた人もいる。

そういう存在に気づけると、そこからなにか学べるから、仕事が少しだけでもたのしくなる。
学べる仕事はたのしい。

あたまのいい人は、その人がいちいち人にレクチャーしなくても、その人の働き方を見てるだけで、いろんなことが学びとれる。
あたまのいい人だなー、っておもう存在に気づいたら、ただ尊敬したり憧れてないで、その人の働き方からひとつでもなにか得ようとしたくなる。

辞めた職場は、あまりにバカバカしい消耗が多かった。
だからそれを理由にして、じぶんがバカバカしさに耐えれなくなって辞めた。

でも、そんな職場でも、わたしは得るものはいろいろあった。
ピチ子さんとか、あたまのいい男子バイトとか、店長代理とか。
それに、わたしはお客さんとのいろいろでは、得たものばかり。
クレーマーやモンスターのお客さんだって、そこから学べるものはたくさんあった。
接客業は、お客さんの存在は決して精神の消耗にはならないんだよね。

だから、わたしはお客さんと接する仕事はたのしいとおもうし、接してきたお客さんぜんぶに感謝してる。

これからもたぶん、接客業みたいなバイトするかもしれない。
そしたら、じぶんの経験から、少しでもいい接客サービスができるようなじぶんに進化したい。

従業員との人間関係をうまくやる能力は、わたし自身にないのがよくわかった。
でも、これも自責だけではじぶんが潰れるだけで、なんの意味もないことだともわかってきた。

なんでもいいから、学べる対象を見つける能力。
これをじぶんはもっと磨こうとおもう。
そして、そういうものから、少しでもいろいろ学んで、じぶんを変えていきたい。

辞めるときもイヤな感情しかないゴタゴタで、こんな辞め方したじぶんがイヤにもなるけど。
辞めた、ってことが決定した瞬間、苦々しい感情のなにもかもが霧散して、ものすごいきぶんがラクになった。

じぶんの脚に食い込んでた罠の鉄の歯をはずせたケモノみたい。
自由になった脚は血を流していて痛いけど、解放のよろこびの方が大きい。

じぶんの脚に食い込んでたのは、じぶん自身のどす黒い感情。
その感情を持たせた第三者のことをなじるより、そういう環境でどす黒い感情を育ててたじぶんがイヤになってた。

そういうじぶんから解放された。
また似たようなバイトでおなじような体験をして、わたしはじぶんを腐らせるかもしれないけど。

それでも、じぶんが得たものをこの先のじぶんが有効に活用していくことが、じぶんを救うんだとおもう。











わたしの世界はわたしが統治する。
わたしの感情は、どれもがわたし自身がもたらせたもの。

よそのなにかのせいではない。

(※歌詞とは関係ない戯言です)