クレヨンしんちゃんの作者・臼井義人さんに関して、2チャンネルやTV等で、心無い書き込みや、憶測の域をでない事、真実に近そうなことが色々出ていますが、荒船山にまつわる奇妙な伝承などが微妙に、臼井氏に関連を感じたので、私なりに書いていきたいと思います。

契約先の雑誌社の話によると、臼井氏は、3年くらい前から聖書を読むようになり、その聖書の内容をアレンジし

、作品に出したい、と言っていたようです。相当、聖書を熟読されたようです。映画・クレヨンしんちゃん「暗黒タマタマ大追跡」などは、日本の古代史にまつわるハニワやマガ玉など登場人物が古墳時代・弥生時代を思わせる扮装で登場し、このことにより、日本の記紀やその他の書物にも造詣が深かったのではないかと思われます。メインテーマ・ジャークなどはアーク(聖櫃)を捩ったのでは無いのか?(勝手に私はそう思った。)と思わせるくだりがたくさんでてきました。

私にとって興味のある共通する題材が近年の作品に、多々出てくるので、気になって気になって仕方がありませんでした。(小さいころからクレヨンしんちゃんウォッチャーだったため)


今年、2回ほど荒船山を見に行った私にとって、

群馬・荒船山の事は、これはもう書かずにはいられません。



この荒船山には、不思議な不思議な伝説・伝承が秘められ、少なからず臼井さんのお名前などが、かなりかぶっているように思えて仕方がありません。この内容をもし、臼井さんが知っていたとすれば、荒船山に深遠な興味を抱いていたのではと確信します。それでは、はじまりはじまり・・・・・





いきなりですが、結界という言葉を御存じでしょうか?

どうやら、日本人という民族はこの結界という二文字に異常なまでの執着・賛美・おそれ・祈りを感じ取っていたと思われます。例えば、徳川家康と天海僧正などは日光東照宮と久能山を結ぶ結界で江戸城を守るために、(家康の死後、直立のまま家康の遺体を、北東方面(鬼門)を向けて埋葬し、一年後掘り起こし、日光東照宮に大権現とし埋葬しなおします。眠り猫などを配置しなおかつ、タブルに男体山を鬼門封じとしたり、それはもう想像を絶する儀式を執り行います。その上、天海は江戸から京都まで、天皇家の権力を封じるためわざわざ、東海道の宿場の数を調整し、五十三次にしたほどです。これなどにより、結界を完成し、禁中並に公家諸法度でとどめをさし、270年の幕府存続の基盤をつくり、繁栄を成し遂げたほどです。

平氏の時代の京都御所などは、安部晴明に鬼門封じをさせ(現在も御所で確認できる)とどめに北東にある比叡山をも鬼門封じにするという凝りようです。このほか、枚挙に暇がないほど歴史事実は盛りだくさんです。

否が応でも、後日に書きたいと思います。



この鬼門封じを、くだらないと思うか、思わないかは、別にし、徳川幕府は270年間存続し、京都に至っては1200年を超える都として繁栄しつずけています。これをもって鬼門封じをどう解釈すればよいのでしょうか?ただ単に、言葉遊びとしてかたずけられない歴史的事実があるのです。この鬼門を地図の上に落とし込むと、思わぬほどの正確さで、地域と地域を結び、それはもうGPSで見て、設定しているのかと思うほど神がかりで、とても奇妙であり不思議な事柄、地名がこれでもかとあらわれてきます。まるで遺跡・宝物の発見のような錯覚さえ感じるほどです。このワンダーランドに臼井氏も迷い込んでしまったのではないかと私には思えてならないのです。まして、荒船山・・・・何をかいわんや。地図のない時代に、恐ろしいまでの正確さを持って鬼門を設定する。この考えを考慮に入れつつ臼井氏の作品を通しての(映画や漫画)世界・思想を分析してみたいと思います。それには、どうしても彼が冥府に旅立った場所・荒船山を考察しなければならないのです・・・・・・この荒船山は大変奇妙な形をした山です。群馬県側から見ても、長野県側から見ても、同じ船の形をして船首が南を向き真上から見て、左右対称、の自然の山であるが人工物にさえ見えてしまう不思議な山です。



この不思議な形をした荒船山にまつわる神道集の伝承から解説します。



インドのアショーカ王(阿育王)の時代BC268年からBC232年頃、ウマリヤ朝第3代の王の頃の話です。

荒船山は、もともとの名を万葉集では、笹岡山(さくやまと読みます。このさくやまは咲くであり、佐久市の佐久の転化である)の名で登場し歌われます。神道集という文献にも登場し、この物語は始まっています。



荒船山は、もともと修験者の間では、かなり知られた岩場を持つ奇岩の山であります。群馬・長野県以外ではほとんど無名(日本100名山にも入っていない)に近く、
農業神・雨降り神として西上州や佐久の地でのみ崇められている山です。
神道集に岩船が著されたのは、約650年前の南北朝時代のことです。
 その神道集「上野国一宮事」の項には、概ね次のような内容の記述がなされています。

第三十六 上野国一宮事

上野国一宮の抜鉾大明神は人皇二十八代安閑天皇の御代に日本にやって来た。ある伝によると、阿育大王の姫宮、倶那羅太子の妹である。
南天竺の狗留吠国に玉芳大臣という長者がいた。長者には娘が五人いて、上の四人は波羅奈国・毘舎利国・斯羅奈国・沙陀国の大王の后になっていた。末娘の好美女だけは未婚で家にいた。この姫は国中に並ぶ者が無い美人で、舍留吠国の大王の后に成る事が決まっていた。
狗留吠国の王はこれを聞いて、自分の后にしようとした。父の長者は、十六大国の大王の后ならともかくこんな小国の王の后にはしたくないと断った。狗留吠国の王は大いに瞋り、夜討ちをかけて長者を殺し、好美女を后に迎えようとした。
好美女は父母の敵の国に住むのは口惜しいと、抜提河の真中に降魔の鉾を立て、その上に好玩団を敷いて住んだ。狗留吠国の王がその河も自分の知行地であると云うと、好美女は鉾を抜き、二人の美女に好玩団を持たせて、天の甲船に乗り込んだ。船は信濃・上野の国境の笹岡山に着いた。好美女は船を山の峯に伏せて、船の中に抜提河の水を保ち、劫末の火の雨をこれで消す事を誓った。

諏訪大明神は母神の住む日光山に通う内、好美女と知り合って夫婦と成った。諏訪の下の宮の女神がこれに立腹したので、上野国甘楽郡尾崎郷の成出山に社を建て、好美女を住まわせる事にした。美女の一人は船を守るために笹岡山に留まり、荒船大明神と成った。
抜鉾大明神の本地は弥勒菩薩である。

当国は赤城大明神が一宮だったが、今では赤城は二宮となり、他国の神である抜鉾大明神が一宮である。赤城大明神が絹布を織っている内に絹笳が不足した。狗留吠国の好美女は財の君なので、赤城大明神は絹笳を借用して織り上げた。これほどの財の君を他国に移らせるのは惜しいと思い、赤城大明神は二宮となり、当国の一宮を好美女に譲った。
好美女は抜提河から鉾を抜いて脇に挟んでこの国に来たので、抜鉾大明神という。


上記が神道集より抜粋した文章です。

ここで、注意をしなければならないのが、アショーカ王の時代に好美女が荒船山に漂着をした事柄。この時代、日本はどうだったのかを検証しなければなりません。欠史八代(東京大学の考古学者神話設定)の神話時代は、埼玉県しんちゃんの作者臼井氏の住む春日部市の北部に位置する行田の八幡古墳から出土した鉄剣銘文により覆されます。この時代は孝霊天皇期にあたります。この物語にでてくるタケミナカタ(諏訪大明神)は出雲の神オオクニヌシノ命を父に、越の国の奴奈川姫を母に持つ人物です。このタケミナカタが祀られている諏訪大社の御神体である山は、守屋山と呼ばれ(現代のイスラエルの最高位ラビが訪れ祈りの儀式をしている。日本人にとって、なぜ、ユダヤ民族の宗教最高権威者がわざわざこんな田舎の場所に訪れ、礼拝するのかまったくわからない、不思議な山。)諏訪大社の御神体山に祀られいるのは物部守屋(蘇我氏と争った物部氏)です。ちなみに、この守屋という言葉は古代ヘブル語で光の啓司を受けた者という意味です。英語訳はイルミナティーです。そう、あのハリウッド映画のイルミナティーでなのです。はてさて・・・困ったものです。なぜ、イスラエル(ユダヤ教)がこんなところに?

この奇妙な事実は、いったい何なのでしょうか?ユダヤ人ラビや、次期・イスラエル首相候補の人までが日本になぜ来たのか……そうです。失われた聖櫃の手掛かりを求め、やってきたのです。おそらく、臼井氏もこの事は知っていたのではないのかと私は推察しています。この世界史の最大の謎である、アークが荒船山や信濃・上野・下野に関連している事柄などが、記紀やその他古文書などの書物から匂わせるくだりが、散りばめられているのです。臼井氏のきずいていたのではないのか?私なりに考えた臼井氏の事を、地図に落とし込む作業から始めてみます。しんちゃんの作者・臼井氏の住所・春日部市から荒船山に関係ある諏訪大社の2点を地図上で結びます。なおかつ太平洋までつきぬけて結びます。そうすると、あら不思議、

春日部市(春日姫は諏訪大社の正妻)春日=春日部。

春日部市の延長線上に守谷市=諏訪大社の守屋山。

守谷市の延長上に、なんと・・・・タケミナカタに相撲で勝利した、タケミカツ゛チを祀る鹿島神宮(古事記)があります。この一直線上に、古事記の神話が見事に浮きあがり、なおかつ臼井氏の住む場所を通過し、神道集の好美女と諏訪大明神の子供、興波岐命(娘)に関係の深い秩父神社を通り、両神山(タケミナカタとタカエミカズチ、両者の神のことか?)、諏訪山を浮かび上がらせ、タケミナカタ・タケミカツ゛チ物語(和議は荒船山で結ばれる。古事記より。)の帰結を荒船山で迎えます。



いかがでしょうか・・・・すべては荒船山に導かれているのです。



ちなみに、荒船山の登山口佐久方面は、臼田という町があります。この町の宮沢にタケミナカタノ命と群馬県富岡の貫前神社に祀られていた、抜鉾大明神である好美女の子供・興波岐命(娘)が信濃の守り神として祀られている新海三社神社が現存します。この臼田の臼は、日本武尊の名前・小臼から来ています。碓井峠(下仁田も含む)・碓井川の碓井は臼井の転化です。臼井さんは、臼井氏の臼が、臼田町の臼に深い関係があると思ったのではないでしょうか。



すべては、荒船山につながるのです。



まだまだ書くことがたくさんありますが、本日は、ここでペンを休めます。そろそろ修論書かないとなので。。。。



臼井義人さんの死を悼み、合掌。
























クレヨンしんちゃん作者・臼井義人さん 御冥福をお祈りいたします。