リミッティング・ビリーフとは、自分に制限をかける信念のことです。
親との18年間の歳月で、親との関係に適応するために築き上げた信念。親との関係をうまくやっていくために培った、強固な信念。こうすればうまく生きていけると信じているもの。
完璧であれ……100点とったら「やったね☆」と喜んでもらえるのに、98点だと「あーあ」という声が聞こえてきそう。
他人を喜ばせろ……「お母さんは○○する子が好き」「△△する子は嫌い」という条件付きの肯定。親の顔色を伺うようになる。
一生懸命にやれ……「一人でできる?」一人でできると喜ばれるからやる。一人でやってみたいからではなくて。
強くあれ……「こんなことで弱音吐いちゃいけない」感情を抑えて強く見せかけようとする。
これらの強固な信念が、「仕事に行かなくてはならない」という形をとって出てきています。
親との関係を脱皮して、現実的な考えができるようになれば、「仕事に行かなくてはいけないかどうか」は次のような判断基準になります。
仕事に行かなくてはお金がなく、食べるものに困る。仕事に行かなくては、お金がなく、趣味ができない。自分の生活に重大な支障を及ぼし、人生を豊かにできないから、仕事に行く。
事業主との契約で、「休みは何日以内でお願いします、そうでないと事業主がやりくりできなくなるから、お願いします」という条件を承諾して、雇用されている。どちらが強いとか弱いではなく、お互いに利害関係があるから、条件をつけている。事業主との約束を果たすために、会社に行く。
このように、自分で判断していいわけです。お金に困ってないのなら、働かなくてもいい。約束を守っているのなら、休んでもいい。
それなのに、「働かざるもの食うべからず」「働いてない者は堕落」「自分のためにばかり時間を使ってるのは悪」「仕事をしてないのは怠け」「お金を稼がない者は発言権がない」「収入=存在価値」という、親との関係性の中で、親が喜ぶと思って作り上げた思い込みによって、働いていない自分で自由に使える時間さえも、苦しみ悩むことに時間を費やしてしまいます。
「学校に行く子は良い子」「学校に行けない子は……」というのは、親の価値観であり、親の欲求であり、現実は今の私の人生には何の判断基準にもならないんです。
もう親との関係性の中で生きているのではありません。事業主との契約、夫婦関係、そういった関係の中だけで考えて判断すればいい。
それでも完璧であるほうが、誰かが褒めてくれる気がしますか?完璧でないほうが、現在の周囲の関係性を円滑にするとしても?
それでも他人を喜ばせるほうが、誰かが褒めてくれる気がしますか?あなた自身が喜んでいるほうが、いま周囲の人が喜んでくれるとしても?
それでも一生懸命にやるほうが、誰かが褒めてくれる気がしますか?肩の力を抜いて、適当に、そこそこに、ぼちぼちやってくれたほうが周りは喜んでくれるとしても?
それでも強くあるほうが、誰かが褒めてくれる気がしますか?いまの人間関係では、弱みも見せてくれたほうが、周囲の人が喜んでくれるとしても?
もう、親との関係で学習した信念よりも、いま現在の、身近な人間関係を豊かにすることを、判断基準にしませんか。
私で言えば、有難いことに、すぐさま食べていけなくなるような状況ではありません。また、夫と「共働きで稼いでくれ」という約束を交わしたわけでもありません。事業主と「何日以上休んではいけない」という雇用契約を結んでいるわけでもありません。
それなのに、なぜこんなにも「仕事してない自分は存在価値が低い」と苦しんでいるのでしょうか。
たしかに稼いで貯金したい気持ちもあります。自分の能力を社会で発揮したい気持ちもあります。でもそれ以上に「仕事に行かなくては自分の存在価値がない」と思う気持ちに駆り立てられています。
存在価値を得ようと無理に心身を引きずってまで仕事に行くより、いまの人間関係性の中で、本当に必要なことなのか、判断したいと思います。
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