2019年シナデミー賞 | 品田誠ブログ

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1992年3月2日生まれ
俳優やってます。
品田誠

2020年が始まった。

というか、始まって10日経った。
 
昨年末は忘年会には一度も行けず、12月30日に仕事納めをした。
それから少し時間もできたし年末らしく、1年を振り返る文章でも書こうと思った。
けど、なにか書こうとしても、全く言葉が思うように出てこない。
ふと考えてみると2019年の1年間、一度も振り返るということをしていなかったことに気づく。
 
これまでで1番、「気付いたら過ぎ去っていた」というような1年だった。
それはボーッとしてたから…じゃなく、常に何かをしていて、「今何月だっけか」ということに頭を使う時間があまり割けなかった。
年々この感覚は加速している。来年も同じことを言って"人生で1番早く過ぎ去った年で賞"を更新しているのかもしれない。
 
そんなことを考えて書けないでいる内に年末から時間は過ぎて、新年を迎えて、正月ですらなくなってる。まずい、新年をはじめなければ。
 
2020年の始まりは『鼓動』&『猫、かえる Cat's Home』の二本立て上映からである。
上映まで残り9日となった。なんとしても見てもらいたい2本。
『鼓動』予告篇
『猫、かえる Cat's Home』予告篇
 上映会場の池袋シネマロサは2年前に「the face」という特集上映をやってくれて、僕を見つけてくれた場所。
今年はここから始められる。劇場という最高の環境で自分達で作った映画を見れるという喜びを、噛み締めて過ごしたい。
この上映を知ってもらいたい、見てもらいたい。
(ちなみに、the faceは明日1/11(土)から第3弾手島実憂さんがはじまる。こちらもぜひ)


そして、これまた遅ればせながら、例年開催してきた、シナデミー賞の発表をします。
なんだかこれをやらないと、やり残したことがある感じがして気持ちが悪かった。
 
本当は2019年は監督作『鼓動』を撮ったことで、これが想像以上に心身を削り、映画を観れない期間がしばらくあって開催をやめようかとも思っていた。
しかし楽しみにしてくれている人が1人でもいることを知ったものあって、やはりきちんと発表しようではないかと。
 
それではシナデミー賞2019の発表です!
 
1.バーニング 劇場版(イ・チャンドン)
2.家族を想うとき(ケン・ローチ)
3.マリッジ・ストーリー(ノア・バームバック)
4.蜜蜂と遠雷(石川慶)
5.ある女優の不在(ジャファル・パナヒ)
6.読まれなかった小説(ヌリ・ビルゲ・シェイラン)
7.WILDLIFE(ポール・ダノ)
8.さよならくちびる(塩田明彦)
9.COLD WAR あの歌、2つの心(パヴェウ・パブリコフスキ)
10.永遠の門 ゴッホの見た未来(ジュリアン・シュナーベル)


○最優秀主演男優賞
ウィレム・デフォー(『永遠の門 ゴッホの見た未来』)

○最優秀主演女優賞
ヨアンナ・クーリク(『COLD WAR あの歌、2つの心』)

以下、5本目まで選考理由などを。
(ネタバレには多少配慮しつつ、 完全になしにはできてないかもしれません。見たくない方はここまで!)

 
映画で1番を決めるのは難しい。そもそも芸術に順位をつけることは無粋だ、という向きもある。
しかし、その中で自分なりに選択をするということが、意義があることのように思う。
いざ選ぶ時は色々な基準に板挟みになる。
映画として優れてると感じたものを選ぶべきか、テーマとして響いたものなのか、その瞬間の強烈な感動なのか、長く頭にこびりついて残るものなのか…
あれこれと考えているうちにしっくりとくる並びが浮かんでくる。次第に理屈を超えて、直感が働いてくる。
 
「どの映画を選ぶのか」というのは、どの映画に僕自身が選ばれるか、ということでもあるのかもしれない。
 
そんなことを考えながら、出た結論が
1.バーニング 劇場版(韓国)
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多くの映画は、ストーリーのために作られる。それは正しいことだし、ストーリーを楽しむのは真っ当な映画の楽しみ方だと思う。
でも映画が話の展開の犠牲になってないか?と思う時もよくある。
ゴールに向かって効率よく進む、だけになると、ご都合主義も恥じることなく、"いかに展開を語れるか"に全神経が注がれて描かれるような。
物語がなにか意図したもののために奉仕させられてるかのような。物語自体のためではなく。

でも、現実はそうではない。
決して意味などない偶然起こった出来事に、様々な解釈を巡らせ、"結果として物語になる"。
僕らは自分なりに世界を見つめて、物語を作り、体験して生きている。
人によって見える世界も違う。
芥川龍之介の「藪の中」みたいに、同じ出来事でも、誰かの目には全く違う出来事として存在していることもある。
それに同じ人の頭の中でも、昨日は素晴らしい思い出として記憶していたことが、今日考えると最低な思い出だった、と、なにかがきっかけで記憶の印象が変わることだってある。
ただただ出来事は存在して、それをどのように見るのか。見えるのか。現実はそんなものだ。
 
『バーニング』では、そんな複雑で曖昧模糊な現実に対抗できる映画世界が広がっていた。
映画を使って語っているというより、映画自体が語っているようだった。
 
一つでなく、たくさんのレイヤーが積み重なって、観客は映画内の出来事一つ一つを受け取りながら、これはどんな物語なのかと組み立てていく。
映画が"謎"自体を受け入れて、解決を提示するのではなく、映画が"謎"になる。
映画だ、これが映画の力だ、と見終わった後は興奮を禁じ得なかった。
 
今はSNSという発表の場、動画や写真を撮れるスマホも浸透して、表現が自由に誰でもできる。
いいねの数は可視化される。
人気ユーチューバーのサムネイル画像は、煽る言葉がとにかく大きな太字で描かれているのを見る。
「××が○○であるたった一つの理由」とか。
それらを見ていると、わかりやすいこと、断定的であること、シンプルであることがとにかく重要で価値のあることだと錯覚してしまう。忙しい現代人のニーズにぴったりでないかと。
 
そうした"数の論理"だけがものさしになる世界になったら、失われるものはなんだろう。
本当に伝えるべき物語はなんだろう。現代の物語はどう発展していくのだろう。
 
まだ簡単には可視化できないものにこそ、僕は見たいし、未来があるのではないかと思う。
現実のカオスに対峙するには、それを限りなくシンプルにすることよりも、カオスを自分に取り入れることだ。たくさんの物語を自分の中に持つことだ。
映画にはそれができる。小さなニーズに収まらずに。
僕はそんなことを考えて、この映画に惚れ込んでいった。


『家族を想うとき』(イギリス)
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といいつつ、とてもストレートな映画をここに選ぶ。そう、僕もたくさんのレイヤーでできている。色んな映画が好きである。

この作品はエンドロールが終わった後もなかなか立ち上がりたくないと思った。
最近とある有名なお金持ちの方が、
「いろいろ批判はあるけど、やったもん勝ちだ」
というようなことを書いてるのを見た。
確かに今の時代その通りだと思う。やったもん勝ちだ。
でも、なんでも"やったもん勝ち"にできてしまう社会はどうなのだろう。
そう開き直ってしまえば倫理的な問題があっても、勝ちさえすれば"なんでもあり"になる。
力がある側はやろうと思えば法の隙間を縫ってなんでもできる。あるいは解釈を少し変えるだけで。そのしわ寄せ、責任は誰がとるんだろう。

映画の主人公は配達の仕事の「個人事業主」になる話。従業員と違って個人事業主だから
「時間は自由、やればやるだけ稼げる。君がオーナーだ」という言葉から始まる。ただ働いてみるとノルマがあって休めないシステムになっていて、毎日14時間も働き、さらに失敗があれば罰金を払わされる。
やむを得ない事情があって休みを申請しても「規則だ、罰金だ」の一言で重い罰金。実際は間接的に過労へと誘導するシステムになっているのだと気づく。
ガチガチに自由がなく、責任だけが重い。合法的な蟻地獄に陥っていくようだった。
俳優も同じ個人事業主だから、他人事に見えない。

各シーンを思い出すと胸が締め付けられる。今回も出演してるのは無名の俳優4人。ケン・ローチの映画では「なんでその表情が映るのだろう」って瞬間が映る。

この映画はイギリスで実際にあった、配達中に亡くなった方がモデルになっているそうだ。配達を休んだら罰金が課せられるからと、糖尿病をまともに治療できずに働きながら亡くなったと。
日本でも休めずに亡くなった某ストアの家族の話を聞いたことがある。

映画の中の家族4人は多少の問題は抱えてるにせよ、とても美しい家族だった。欺瞞だらけのシステムにさえ陥らなければ。
この固有の家族の物語を、多くの人に見てもらいたい。

3.マリッジ・ストーリー(アメリカ)
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脚本、アダム・ドライバーとスカーレット・ヨハンソンの芝居が素晴らしかった。
一見ただ文句を言い合ってるように見えるシーンが「私をちゃんと愛して」「理解して」 という必死な願いであることが見えて、彼らの人生に肩入れせずにはいられなくなった。
脚本はバームバックの実人生からきてるそう。『イカとクジラ』では両親の離婚に翻弄される子供側だったのに(これも自分の幼少期がモデルになってるそう)、大人になって今度は自分が同じように離婚してしまった。
それ故に2人の細かい具体的なディティールが描かれる。その描写の力。
何気ないセリフで背景が立体化されて、尺以上のドラマを感じさせてくれる。

また、弁護士たちの姿を通して、"なんでもあり"にしてしまう恐怖はここで描かれる。勝利にのみ囚われることで壊れる人間的な柔らかな部分。

喜劇的でも、悲劇的でもある愛の物語に心酔した。
会話劇好きとしてはたまらない映画。


4.蜜蜂と遠雷(日本)
{116D30CE-369A-485E-A756-4C2D2662ACEE}2019年邦画のベスト1に。

この映画と『さよならくちびる』『永遠の門 ゴッホの見た景色』は、芸術に携わることについてとても背中を押してくれた映画。
劇中で、「なぜ一瞬で消えていく音楽に身を捧げるのか」というような問いに、「音楽で永遠に触れる」という話があった。何かがスッと腹に落ちたというか、自分の背筋が伸びる思いになった。

時々映画を見ていて「この言葉に出会えてよかったな」という瞬間があって、まさにそういった瞬間。ただ目の前のことをやるためではなくて、永遠に触れるために取り組んでいくのだと。

また冒頭の映像が後半に繋がった時に、とても興奮した。視覚的に、感覚的にドラマを伝えるとはこういうことだなあと。

登場人物も全員素敵だったし、皆の間で生まれる化学変化も、映像を通して存分に伝わってきた。
音楽も最高。劇場で見れて本当によかった。

5.ある女優の不在(イラン)
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というのも、冒頭で女優志望の女の子が、泣きながら村の閉塞感を訴え、首吊り自殺をする、ように見える自撮り動画から映画は始まる。
「あらゆる手を尽くしたけど村の皆が許してくれないから私は女優になれない」と。

その動画を売れっ子女優に届くように関係者(監督)にSNSで送る。女の子の様子を見にいくために監督と売れっ子はその村に向かう、という展開を見せる。

その山の上の村では女優を志望するということ自体が嫌悪されている。「演技(芸術)なんかで腹が減ってる時に腹がいっぱいになるか?食糧を作るべきだろ」と村人。
「それに、昔たくさんの映画に出てた婆さんがこの村の外れにいる。本当に演技に価値があるなら、なぜあの元女優の婆さんは惨めな老後を送ってるんだ?」
とも。

つまり、これは演技、芸術が死んだ村でのお話だった。(他にも村には色々あるんだけれども)
この映画が自分の心にトゲのように刺さって抜けないのは、恐怖心からかもしれないし、描かれている風景に居心地の悪さを感じて、遠ざけたいのかもしれない。

ジャファル・パナヒ監督は、過去にイラン政権を批判した映画を撮ったことで、映画を作ることを禁じられている。しかしめげずにゲリラ的に映画を撮り続け、国外に発表している。(イランでは絶対に上映されない)
自分の芸術を禁止された国(村)で、諦めずに外に助けを求めるパナヒ監督と、女優志望の子の姿は重なる。
女性蔑視や、偏見のあり様や理不尽さ、たくさんのメタファーを通じて社会の姿を浮かび上がらせる。

なぜ主演の売れっ子女優はあそこまで神経質に怒っているのか、見てる最中は不思議に思ったんだけど、彼女も遠ざけたいものに対する恐怖心だったのかもしれない、と見終えてしばらく経ってからふと思った。

2019年は表現の自由が問われた年でもあった。
厳しさを表す車の窓と、小さな希望を宿したラスト、この映画はまたことあるごとに思い出しそうだ。


主演男優賞 ウィレム・デフォー(『永遠の門 ゴッホの見た景色』)
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ゴッホを演じたウィレム・デフォーにこの賞を。もちろんゴッホの自画像と顔が似てるからということのではない。

「芸術家とは-世界の見方を教える者と思っていた。今は自分と永遠との関係しかない」
映画ではこんな示唆に富んだセリフが続く。
デフォー演じるゴッホが喋ると、全く上滑りすることなく、説得力を持ってその言葉が響く。
なにもしなくても、いるだけで映画になっていた。繊細さ、純真さ、好奇心、寂しさなどが伝わってきて。

「ゴッホは絵と一体になろうとしていたように、僕も映画と一体になろうと思った」
というようなインタビューを何かで読んだ。
説明のつかない神秘さに飛び込み、神秘を体現してくれた。
役者の存在感で映画が何倍にも素晴らしいものになるのだな、と改めて実感させられた多層的な演技だった。


主演女優賞 ヨアンナ・クーリク(『COLD WAR あの歌、2つの心』)
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え、最初に出た時何歳の設定だった?
10代の少女かと思っていたら…あれよオヨヨと時代をまたぎ…10数年の時を経ていく。
実年齢にも驚き。どの年代もそれぞれ魅力的で、見てる間本当に実年齢がわからなかった。(あと、途中までレア・セドゥだと思ってた)
いやあ参った、歌も、芝居も釘付けになった。野性的なパワーと純真な寂しさを持ってスクリーンを自分のものにしていた。
もっとスクリーンで見たいと思ったNo.1。
オヨヨー。と歌いたくなったのは僕だけじゃないはずだ。
この映画も素晴らしかった。


以上シナデミー賞の発表でした。
とても長くなった。ここまで読んでくださりありがとうございます。
入れたくても泣く泣く入れられない映画もたくさんあった。

2020年はどんな映画と出会えるだろう。
そしてどんな現場と出会えるだろう。

大人しくせず、どんどん仕掛けていく1年にできたら。
今更ながら、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

品田誠