在りし日の歌 | 品田誠ブログ

品田誠ブログ

1992年3月2日生まれ
俳優やってます。
品田誠

『在りし日の歌』(ワン・シャオシュアイ監督)
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久しぶりに見れた劇場での新作。
旧作は劇場でいくつか見ていたが、やはり新作をスクリーンで見るのはまた違った感慨がある。映画館に戻ってこれた。

そしてこの映画がまた率直にとても良かった。3時間で中国の30年を描く。
社会に翻弄され、哀しい事故に翻弄される夫婦。

見ながら「罰」について考えた。
"罰のもたらす罪"
とも言うべきか。


罰と言えば思い出されることがある。
20数年前、僕がまだ保育園にいた小さい頃の話。
給食が食べられない子はその日のお昼寝に参加できず、食べることができるまでで居残りをさせられるしきたりがあった。
「食べられるまで寝かせませんよ」というシステムと、「早く食べなさい!」と怒り続ける先生の圧力。
これは罰を与えることで食べさせるようにする、といった教育、コントロールの方法の一つだった。残された子はみんな泣いていた。
僕も居残りしてた時の辱めを受けているような気持を未だによく覚えている。ちなみに主にしいたけが食べられなかった。

今ではこういった教育は効果がないどころか、トラウマを作って嫌いな食べ物をより嫌いにさせるとされ、禁じられているところがほとんどだ。
特に意味がなかったのなら、「なぜあんな気持ちをしなければ?」という風にも思う。


ラジ・リ版の『レ・ミゼラブル』や、坂上香監督の『プリズン・サークル』といった、罰やその影響について考えさせられる良い映画が今年は多い。
いや、ひょっとすると自分がそのことに関心を持っているから「罰」についての映画だ、と思うのかもしれない。
まあどのような見方だったとしても、『在りし日の歌』は良い作品だった。とてもいい気持ちで劇場を出た。


だからこそ、ある事実を知って少し動揺したのだった。
ここから先は少し映画から離れて、やや映画を取り巻くスキャンダラスな話と、映画の中身に触れていく内容となる。

単なる憶測に過ぎず、ネタバレも書くので、読みたくない方、未見の方はここまでにして、そっとページを閉じて欲しい。




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去年、その作品の評判とセンセーショナルな若い監督の自死というニュースが相まって高い注目を集めていた中国映画があった。

『象は静かに坐っている』(フー・ボー監督)
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僕は残念なことに見逃してしまっていて内容は知らないのだけれど、この作品のことは何度も耳にした。

若干29歳の才気あふれるフー・ボーという新鋭監督は、初長編を撮ったもののそれが遺作となった。観客の目に触れる前に自ら命を絶った。
フー・ボー監督に代わり、彼の母が様々な映画祭の壇上に経って監督の代わりにスピーチをし、賞を受け取った。
息子が残したものが認められた嬉しさと、なのに彼がいないという哀しさの入り混じった涙に、受賞シーンの動画を見るだけでもこみ上げてくるものがあったのを記憶している。
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(フー・ボー監督)

フー・ボー監督の自殺の原因は、報道ではプロデューサー陣が「長いから切れ!」と言っていたことが原因だったのではないかと言われている。
なんせこの『象は静かに坐っている』の上映時間【4時間】。
「新人監督にそれはリスクが高すぎる。2時間にしろ!」
とプロデューサー陣はいう。一度は従って2時間版を作ったものの、フー・ボー監督はやはり納得がいかず(信頼のおける師=タル・ベーラの言葉もあって)
「4時間版でいきたい」
というものの認められなかった。
作品を買い直そうとしたがプロデューサーに高い値をふっかけられてしまい叶わないと知り、
「作品が自分のものでなくなる」
という絶望から自殺をしたという見方である。
実際に文才もあり小説家としても活躍していたフー・ボーは、自作の後書きでそのような状況の悲嘆を綴っていた。
(彼の死後、『象は静かに〜』の権利は母親などにすぐに譲渡された)

そして、その苦しめたと言われるプロデューサーこそが、僕が今日見た映画『在りし日の歌』の監督ワン・シャオシュアイとその妻なのだった。


僕はその事実を知って少なからずショックを受けた。この美しい映画を撮った監督が例のプロデューサーだったか、と。

ワン・シャオシュアイがフー・ボーに「切れ!」と送ったとされるメッセージ画面も報道されていて、本当に本人のものかどうか定かではないものの、かなり乱暴な言葉が並んでいた。
ワン監督はこの自殺について未だに固く口を閉ざしているらしい。

しかし、映画を思い出してみると納得のいく点がいくつもあった。

(↓以下ネタバレ有り)

この映画はつい誤って罪を犯してしまう人々が描かれる。それらは法を犯すような罪ではないが、(むしろ法を犯すような罪は軽く扱われる)
人を傷つけ、間違いなく悪い影響を与えたものだ。取り返しのつかない悲劇もある。

ひとりっ子政策のために、「仕事だから」と妊娠した工員の堕胎を強要する上司、
周りから臆病者とバカにされることを恐れて、ため池の中でつい友達を突き飛ばして死なせてしまう男の子、
死んだ息子の代わりに養子をとったものの、本当の姿を受け入れてあげられず、強引に罰を与えしつけてしまいグレさせてしまう主人公。
どれも背景には社会があり、これまでの経験からの影響がある。

これらはもしや、ワン監督の抱えている罪、苦しみが少なからず具現化したものだったのではないか。
ワン監督はそのキャリアの中で中国当局の検閲に苦しめられてきた。自作をかけられる劇場が少ないことにも絶望を感じ、観客に助けを求めていたという。
やりたい表現が通過しない苦しさは日本人にはなかなかわからないものかもしれない。
ただ、そうした当局との戦いを経て検閲の対処法を知っていったそうだ。
本作の社会批判的な面も、個人の出来事として描かれている。
「社会の問題を個人の問題にしないで」「他に問題がある角度からの視点が抜け落ちてる」というようなレビューも見て同意する部分もあったが、それは検閲という大きな障害が前提にあり、そこから捻出した表現であったことも留意しなくてはならないと思う。
(それでも堕胎における描写、工場で強制人事で人員削減する描写などいくつかは、当局批判を起こしかねないとして、中華圏ではカットされたりしたらしい)

ひょっとしたら、そうした自身の苦労の経験から息子のような年のフー・ボー監督にも避けるべきリスクを強く伝えたかったのでは?
「4時間で長回しメイン?そんなことをしたら苦労するんだ!」と。

当初は円満だったものの、いうことを聞かないならと強引に、罰を使ってコントロールしようと。
自分がこれまで受けてきたように、力で従わせるような形になっていたのでは?
フー・ボー監督の死や取り巻く状況を調べて、
そんな考えが浮かんだ。

それらの出来事が映画に影響を与えたかは定かではないが、『在りし日の歌』がもしこの哀しい自死の後の撮影だったのなら、意識的であれ無意識的であれ、影響がないと思えなくなっていった。

また、ワン監督の過去作は、どれも長くても2時間程度である。今回の3時間というのは突出して長い。これも「4時間は長いから切れ!」と言っていた彼の言葉とつい関連付けてしまう。


劇中でのセリフ
「話があります。これはずっと口を閉ざして人に言わないで生きてきた。けどあの日から僕の心に木が生えてきた。僕の心を突き破ってしまいそうなんだ。だから告白する」

悲痛なシーンだった。
『在りし日の歌』の撮影時期がわからないからフー・ボー監督の自殺時期(2017年10月12日)との関連は不明であるが、僕にはそう思えてならなかった。(『在りし日の歌』のベルリンでの世界初上映は2019年2月)


最近は法を犯してなくても、少しでも罪を犯すとネットで私刑が待っている。
「そんな人間けしからん!」と成したこと全てが否定されるようになる。


その処罰の感情は痛いほどわかる。誰かを苦しめたり迷惑をかけた人は幸せになって欲しくないような気持ちになる。
でも間違った人は、そこからまたスタートしてはいけないのだろうか。
社会から退場するしかないのだろうか。
いや、そういう経験を社会で活かしていくしかないのでないか。
きっと、映画の中で友人を誤って死なせてしまった男の子が、成長して医者になっていたように。
もし彼をただ罰していたら、何になっただろう。


罪との向き合い方がこの作品には描かれている。監督自身が向き合わざるを得なかった時間が作品にどう影響したのか。
それがもし自分への癒しや美化であったと批判されたとしても、もしくは作品とは関係ないとしても、
この映画には"人が犯したこと"に対して切実な思いが刻まれていたことは、僕は間違いないように思う。

このように完全に憶測の域を出ない仮説を書くのは自分でもどうかと思う。
現実と創作は別物だし、同一化すべきじゃない、無粋な推測かもしれない。
だがこの作品がそうした背景を持っているのではないかと随分と考えてしまって、考えをまとめたくなった。
好きな作品だったからこそ、その内実に迫りたくなった。映画作家は、言葉ではなく映画で観客に語りかけるものだから。


現実の悲劇は何よりも痛ましいけど、悲劇を矮小化するわけではなく、それでも生きていくことを考えたい。
罰が不要とは全く思わないが、“罰のもたらす罪"も考えねばならない。

いつだって、誰だって、間違える可能性がある。
『在りし日の歌』は悔恨の映画である。
本作を見て、その背景を調べ、的外れかもしれないがそんなことをつらつらと考えた。