本がたくさん売れるという、商売としては甚だ魅力的な出版業も、その黄金時代は関係者が思いこんでいたほど長つづきせず、ましてや永遠の芸術にはほど遠く、娯楽の少ない時代にその穴埋めをしてくれたという、その程度の軽薄な代物でしかなく、経済的繁栄と科学の発達によって、あらぬ夢と憧れを貪るしかない、何もなかった時代が遠のくと、つまり、ビジュアルの文化が台頭してくると、それしきのやっつけ作品や、劣等意識の裏返しでしかない憧れが見え見えの、ために、むしろ読んでいる途中で滑稽に感じ、作者のお粗末な憧憬が悲しく思えてしまう文学なるものが、馬鹿馬鹿しくなり、映像によってがっちりと補強されたナルシシズムへと流れて行ってしまい、あとに残った読み手は、稚拙であればあるほどそのナルシシズムにのめり込んでゆく、自己逃避型、現実逃避型の異常にして異様な者だけとなったのです。
 要するに、これまでの文学と称するものは、よくよく好意的に解釈してみたところでせいぜい小説らしきものでしかなく、真の文学に期待して近づいてきた真っ当な読み手はたちまちにして背を向け、この程度のものが文学であるならば無用とばかりに、他の芸術へと心を移したのです。しかし、関係者たちにその自覚はいっさいなく、それどころか、ひとたびそんなことを認めてしまったら、これまで自分たちがやってきたことを全否定することになるために、その言い訳として、〈活字離れの時代〉をさかんに口にするようになり、文学を読まなくなったのは、新しい世代が愚かになったせいだとか、心が貧弱になったからだというような、優越感の上に立った指摘をもって衰退の弁解とするようになったのですが、実際には真の小説でも真の文学でもなかったからそっぽを向かれただけなのです。
 文学とは、言うまでもなく文章を用いた芸術であり、それは音楽が音を用いることや、美術がそれぞれのジャンルにふさわしい道具や素材を用いることとまったく同じであるのですが、しかし、文学以外の芸術はなぜそれを用いるのかという核心部分にのべつ関心を示し、苦心惨憺して磨きをかけているのに、文学に限っては、言葉がすべてであるにもかかわらず、その意識と自覚に著しく欠け、心の命ずるままに、頭にぽっと浮かんだままの言葉をそのまま書き連ねてゆけばいいのだという、あまりにも無邪気な基盤を疑いもせず、おのれのナルシシズムをくすぐるためだけの見え見えの物語を、思いつくままに、わかりやすく、伝わりやすいという大義名分にしがみつきながら、これが散文なのだという、とんでもない誤解と思い上がりのもとに、稚拙な文章を連ね、自己満足を得たところで筆を置くのです。そして、それが文学であり、文芸であると思いこみ、その枠から一歩たりとも出ようとせず、抜け出た作品に出会った場合は、見て見ぬふりをするか、黙殺するかして、これまで通りの安易なやり口にしがみつき、また、そうした仲間が多いことに意を強くし、文学を本気で追求する作品とその書き手を異端扱いして、主流の道を歩んでいることを再自覚し、安堵のため息を漏らすのです。
 ところが、そうした易きに流れた小説が商売として成り立ちつづけていることによって、世間の支持を大いに受けているという事実に頼ることによって、関係者たちは食べてゆかれるというだけではなく、かなりの高収入を得られると意識した途端、それ以外の道が、本当の文学の王道が完全に見えなくなってしまい、しかも、これこそが文学の主流であり、文学そのものなのだと思いこむに至ったのです。
 それでも、権力好き、権威好きの、芸術家もどきたちがものする作品が、これはと思わせるほどの、魂をはっとさせるほどの力を持っているというならば、いくらか気も休まるのですが、しかし、案の定というか、やっぱりというか、かれらの作品はお粗末に過ぎ、これが大のおとなが創作したものなのかと、今頃の小娘だってこんな小説は書かないだろうと思えるような代物で、そのほとんどが安っぽいナルシシズムの変形を、ありふれた地の文と説明的な会話と幼稚な美学のみで成立させてしまっている、作文に毛が生えた程度なのです。しかし、全体のレベルが低ければ、そうした作品でも突出しているということになってしまい、確かに新人賞などに応募してくる作品は、かれら以下であり、ために、結果としてかれらが目に立つことになります。
 大御所やベテランの書き手の作品がその程度の代物なのですから、そしてかれらが文学の世界を牛耳っているというわけなのですから、その世界をめざす者たちの性根もまた推して知るべしというもので、かれらに倣うことしか念頭になく、ということは、芸術家精神など最初から欠落した、文学でも利用して社会的な出世を望み、世俗的な名声と金を得ることのみが狙いの、できれば遊んで暮らしたいと願っている、それが粋な人生の過ごし方であり、風流の極みであると決めつけている、落ちこぼれのなれの果ての、最低の輩なのですが、よくしたもので、既成の芸術世界がそれで成り立っているために、誰も違和感を抱かず、信じ切って飛びこみ、運次第でかれらの仲間に迎え入れてもらえることができ、その世界で上手く立ち回ることができれば、かれらの後釜を狙える位置に就くことも可能で、芸術院会員も、文化勲章も夢ではないのです。