名レスラー伝~黒い呪術師!!アブドーラ・ザ・ブッチャー~前編 | 団塊Jrのプロレスファン列伝

名レスラー伝~黒い呪術師!!アブドーラ・ザ・ブッチャー~前編

どうも!!流星仮面二世です!!

さて、今でこそ日常に欠かせなくなったインターネットという存在。99年にADSLによるインターネット接続サービスが始まり・・・ボクらがその言葉を目にしはじめたのは2000年くらいからでしたでしょうか?まだ知識もなく、対応機器もなかった初期は、その存在は対岸の火事、まさか現在こんなに生活に密着するとは夢にも思いませんでしたよね。


そのネットの普及に拍車をかけたもののひとつとして、SNSの存在があげられると思います。


SNS、ソーシャル・ネットワーキング・サービス・・・Facebook(フェイスブック)、Twitter(ツイッター)、Instagram(インスタグラム)など・・・ボクはどれもやってないんですけど、明々白々、現在ではもはや説明するまでもない常識的な言葉になりつつありますね。


そんなSNSのひとつにmixiというのがあります。


mixiは2004年の2月にサービスが開始されたという、いわばSNSの老舗。ボクが、そんなmixiに入会したのはまだ招待状がないと入会できなかった2005年頃でしたが、それから5年後の2010年くらいでしょうか・・・mixiをふと見ると出身校を登録して同級生を探すような機能が新たにあることに気づきました。


おもしろそうだと思ったので学校を登録してみると、自分の他には3人しかいませんでした。しかもH.Nなんで誰だかわかりません。って、そういう自分もH.N・・・ということで、その日はそのまま閉じました。


で、次の週。mixiを覗くと、ある足跡が残っていました。知り合いではないし、あの同級生の3人の中のひとりでもありませんでした。とりあえず一度この方のホームを覗きましたが、当時は変なスパムもあったので、とりあえあずそのままそっとしておきました。


しかし次の日、また足跡が付いていました。これはスパムとちがうのかな・・・と、それを見て、またボクが。そしてまた次の日・・・やがてホームの足跡から行って、足跡付けて、でまた足跡が付くという状態に。まさに合わせ鏡の戦い模様を呈してきた事態に突入した頃、この方が例の同級生の欄に入っているのが確認できました。


そういうことならメッセージを送ってみよう。とりあえず同じ出身なのを確認し、あとはヒント出しながらお互い誰なのかやったらおもしろそうじゃないか?と思い、こうして2、3回、やり取りをしたときでしょうか?もういいかな?と、こちらから正体を明かしました。


実はボクは小学1年生から中学3年まで、ずっと同じあだ名で呼ばれていました。しかも先輩、後輩から、はては先生に及ぶまで、このあだ名で呼ばれていたのです。同級生の中にはあだ名だけ知ってて、本名知らない人もいたくらいでした。なのでここはあだ名で名乗ることにしました。しかし、返ってきた答えは、わからないなぁ~という意外なものでした。


そう、たとえるならヤン・スエって言ってもわからないけど、燃えよドラゴンのボロと言えばすぐわかるような・・・いやそれは相手によるな。そう渥美清って言ってもわからないけど、寅さんて言われればすぐわかるような、ボクのあだ名はそれくらいの浸透率だったんです。でも、この子は知らない・・・おかしい・・・


しかし、続く言葉にすぐさまピンときました。


「私は中学、転校しちゃったからなぁ」


そうか、そうだったのか・・・その瞬間、雲が晴れたかのように中1のビジョンがボクの脳裏に甦ってきました。


「ブッチャーだよ、おれ!!」


この子は中学1年でクラスが一緒だった子でした。中学2年になるとすぐ転校してしまったのですが、不思議なことに・・・ほとんどの同級生がボクをあだ名で呼ぶ中、なぜかこの子だけはボクをブッチャーと呼んでいたんです。


ボクはこの子と小学校がちがったから、この中学1年のときのみ、しかも席が隣になった2,3ヵ月しか接点がありませんでした。


でも同じ学校だったなら、クラスが変わっても顔くらい合わせることはあったはずです。しかし転校してしまったので顔を合わすどころか、今日まで互いの存在すら思い出すことがなかったのです。


「ブッチャーだなんて、失礼だったねー」


そんな返答が返ってきましたが、でもブッチャーという言葉が脳内の記憶の引き出しを開けてくれたおかげで、中学から現在に至るまでの、いろんな話をすることができました。


ネットの上だけで、お互いの顔を見ることもありませんでしたが・・・わずかな記憶が広がってゆき、たくさん言葉を交わせたのは、いや25年ぶりに再会できたのは・・・みんな同じあだ名で呼ぶ中、この子だけがボクをブッチャーと呼んでくれたおかげなのかな・・・そんなことを思い、人と人との縁の不思議を感じたのでした。


あ~いい話だなぁ・・・今回はこれで終わるか・・・


いや!!そうはいきません!!やりますよ!!


さあ、というわけで!!今回の名レスラー伝は黒い呪術師アブドーラ・ザ・ブッチャーです!!まさかブッチャー知らない人はいないでしょうね?これ知らなかったらトップロープからダイビングするところを下から地獄突きすっかんね!!あーすっかんね!!


では行ってみよう!!


さて、実はボク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、本名ラリー・シュリーブとは誕生日が同じ1月11日なんです。もちろんボクは1941年生まれではないですけど、でも名レスラーと同じ誕生日というのはうれしいですね。


そんなブッチャー、デビューは1961年、出身地であるカナダのようですが、デビュー戦の相手のことやデビュー当時の写真がないので、この当時どういったレスラーだったのかは残念ながらわかりません。しかしながら当初はリングネームを変えながら60年代はカナダ、70年代にはアメリカへ進出していったようです。


そんなブッチャーが初来日したのは、さかのぼること1970年8月、日本プロレスのサマーシリーズでした。


初来日、電話帳破りのデモンストレーションを見せつけるブッチャー


当時、まだ日本には名が知れていないレスラーでしたが、8月21日、後楽園ホールで行われた開幕戦でカール・ハイジンガーと組みBI砲と3本勝負で対決したブッチャーは2本目、わずか28秒で馬場さんからフォールを奪い一躍注目を集めました。


9月4日には同じく後楽園ホールでプリンス・ヒューソンと組み、猪木、大木組と激突。


得意の乱戦で猪木を追い込む


このシリーズ初戦から注目を集めたブッチャー。これまでのレスラーにはなかった場外での暴れっぷりに、開幕戦以降ブッチャーの人気は日に日に急上昇。ファンの目は釘づけとなりました。


そしてこのタッグマッチの翌日の9月5日、東京スタジアムで行われた馬場さんとの初対決で、日本のプロレスではそれまで例がなかったほどのすさまじい場外乱闘を展開します。


こちらも大荒れとなった


試合は両者リングアウトで引き分けとなりましたが、この試合の影響もありブッチャーは最終戦の9月17日、台東区体育館で馬場さんの持つインターナショナル・ヘビーへ挑戦することとなります。


60分3本勝負で行われたこの試合では、残念ながらブッチャーが2-1で敗れてしまいましたが、その桁外れな暴れっぷりにファンは魅了。強烈なインパクトを残すこととなりました。


あの馬場さんが本部席の机の上に乗ってしまうほどの乱闘


こうして日本で人気レスラーとなったブッチャーは翌71年、第13回と72年の第14回のワールドリーグ戦にも招聘され連続参加することになります。


初出場となる第13回ワールドリーグへ向けブッチャーがマスコミへ送った直筆メッセージ


ふたつのベルトを誇示する若き日のブッチャー。スーツもキマッている


こうして始まった第13回ワールドリーグ戦。初来日での馬場さんとの試合から馬場さん絡みも期待度大でしたが、このシリーズの注目はアントニオ猪木との対決でした。


注目のシングル初対決は4月5日、浜松市体育館大会で実現しました。


初シングル戦で逆水平を打つ猪木


ワールドリーグ戦では2度、公式戦で当たりましたが、1度目のこのときはブッチャーの反則負け。2度目は5月14日、高松市国際スポーツパレスで行われましたが、このときはリングアウト負けと対猪木戦では負け越してしまいました。


72年、第14回のワールドリーグ戦では猪木が日本プロレスを離脱したためシングルは行われませんでしたが、それでも強豪ひしめくリーグ戦でブッチャーは決勝へ進出する快進撃を見せ、馬場さんと優勝を争いました。


こうして人気のレスラーとして日本へ呼ばれることとなったブッチャーでしたが、日本プロレスが末期に差し掛かり、72年に馬場さんが全日本プロレスを旗揚げするとブッチャーも馬場さんを追って参加することになります。


しかしながら、このときブッチャーの敵となったのは馬場さんではなく、全日本プロレスへ日本陣営として加わった白覆面の魔王ザ・デストロイヤーでした。


その戦いはUSヘビー級をめぐる抗争として今でも語り草。デストロイヤーのマスクの白い部分の方が少なくなるほど流血が絶えませんでしたが、ヒートアップするふたりの戦いは人気を呼び全日本プロレス創世記の人気カードとなりました。


特に74年、75年、76年と3年連続、大阪千里万博記念公園お祭り広場で行われた試合は、毎年10月に行われるという半ば恒例化するほどの人気に。現在ではプロレスでは使われなくなってしまった言葉ですが、まさにドル箱カード。多くのファンが熱狂する試合となりました。


75年10月、大阪千里万博記念公園お祭り広場でのUSヘビー級選手権。余裕綽々で魔王を攻めるブッチャー


また75年末にオープン選手権に出場したブッチャーは、12月10日の岐阜市民センターでのハーリー・レイスとの試合で、あのレイスの左肩を脱臼に追い込むという荒々しいファイトを展開しました。


そして、その翌日行われた日本武道館での力道山十三回忌追善特別大試合で、この脱臼により欠場せざるをえなくなったレイスがリング上から挨拶をしますが・・・試合のため入場してきたブッチャーがこれを襲撃。翌年にはストリートファイトで交通機関に影響が出、警察も出頭するほどの騒ぎを起こすほどの抗争となりました。


レイスを襲ったブッチャー・・・不気味にリング上を見上げる


しかもこのレイスがリング上からの挨拶をした試合が、こともあろうにあの大木金太郎との頭突き世界一決定戦だったので始末が悪く・・・そう、こんな事態を見せられたら、あの大木が性格上エキサイトしないわけがありません。


しかも相手がブッチャーでは・・・


ご想像通り、こちらも場外大乱闘となり、ブッチャーは当時リングアナだった百田義浩の額をかち割るほどの狂人ぶりを発揮しました。


そして・・・いよいよ77年。年末にアラビアの怪人ザ・シークと最凶悪チームを組んだブッチャーは世界オープンタッグ選手権に出場します。開幕戦でブッチャー、シークは馬場さん、鶴田と対戦しましたが、試合後にも攻撃し続けられる鶴田のピンチに駆けつけたザ・ファンクスを血祭りにし、これで抗争に火をつけます。


こうしてあの12月15日に蔵前で行われたザ・ファンクスvsブッチャー・シークの試合へとなるわけなんですね(プロレス名勝負伝~ザ・ファンクスvsアブドーラ・ザ・ブッチャー ザ・シーク~


日本プロレス史上、屈指の名勝負となった


ファンクス人気もここからピークを迎えることになりますが、ブッチャー人気もここからがピークだったと言えそうですね。


そんなブッチャー、78年10月には栃木県体育館で、人間風車ビル・ロビンソンを破り全日本の看板タイトルであったPWFヘビー級王座を奪取します。


3本勝負で行われたこの試合は、ロビンソンがあのブッチャーをワンハンド・バックブリーカーで持ち上げ、豪快に落とし先制フォール。序盤こそペースを掴みましたが、2本目中盤からはブッチャーのラフファイトが爆発。ロビンソンの右足をロープへ中吊りにし徹底した足殺し。これでリングアウト勝ちを拾います。


凶悪ファイトでロビンソンを追い込んだ


3本目はこの痛めた右足へ直接、地獄突きを打つなど集中砲火を浴びせレフリーストップに追い込み、新チャンピオンとなりました。わずか4ヶ月間とはいえ、あのロビンソンを破り王座に君臨したというのはすごいことでした。


また全日本の看板シリーズだったチャンピオン・カーニバルでは76年の第4回、79年の第7回と2度の優勝も。


優勝の大トロフィーを抱くブッチャー


第4回では反則勝ちでの優勝でしたが、第7回では決勝へ上がってきたジャンボ鶴田を得意のジャンピング・エルボードロップで完全フォール。ブッチャー時代の象徴となりました。


同年79年には全日本のブラック・パワー・シリーズに参加。ここではあの千の顔を持つ男ミル・マスカラスと抗争を展開します。


第7回チャンピオン・カーニバルで弟のドス・カラスがブッチャーの凶悪で残忍な攻撃の前に敗れたため、その敵討ちに立ち上がったマスカラス。当時、日本の人気外国人レスラーといえばファンクス、ブッチャー、マスカラスでしたが、そんな4人の中でも国内外でも人気、知名度があり、世界的に有名で世界中どのテリトリーへ行っても客を呼べたのがこのマスカラスでした。


そんな世界のアイドルレスラーとのシングル対決が実現したのは同年8月22日、札幌中島スポーツセンターでした。


日本マットとしては人気レスラー同士の夢の対決となりました。しかしながら遺恨を背負っての対決ということもありマスカラスはブッチャーの攻撃に付き合わず巧みに攻め、徹底的に封じます。ブッチャーはラフに持ち込もうと場外戦を仕掛けるなど反撃をしますが・・・


興奮したマスカラスにはブッチャーも苦戦!?


興奮気味のマスカラスはそれでも攻撃の手を緩めません。やがてブッチャーがマスクを引き裂くと怒ったマスカラスは今度は烈火のようなラフ攻撃。結果、両者リングアウトとなり決着が待たれる形となりましたが・・・この後タッグでの対戦あれど、シングルは行われなかったようです。


そんなマスカラスとの対決から4日後の8月26日、ブッチャーは日本武道館で行われたプロレス夢のオールスター戦へタイガー・ジェット・シンと組んで出場します。ここでブッチャーは8年ぶりに復活するBI砲と対戦しました。


ジェットシンとの凶悪コンビは予想に反しコンビネーションも見せた


当時、BI砲が復活するのは信じられないことでしたが、新日本と全日本のトップヒールが手を組む・・・これもまた信じがたい、すごいことでした。


試合は入場から落ち着きがないジェットシンとブッチャーが、ちょっと相打ちでもしたなら即、仲間割れしてしまいそうなフインキでしたが、お互いいいところを出し、まさに大役を果たしました。


その後、同年10月には初来日となったレイ・キャンディとのタッグで馬場さん、鶴田からインタータッグを奪取します。


タッグの看板タイトルだった伝統のインタータッグをも奪取したブッチャー、キャンディ組


こうして勢いづいたブッチャーでしたが79年12月に行われた世界最強タッグ決定リーグの最終戦、ファンクスとの試合で、パートナーで師でもあったザ・シークと仲間割れをしてしまいます。


試合でシークがドリーを羽交い絞めにし、そこへブッチャーが凶器での一撃を見舞おうとした際ドリーが交わしたため相打ちしてしまい、シークが倒れそのままフォール負け・・・これに怒ったシークがブッチャーへ火炎殺法を見舞いチームは空中分解となってしまったのです。


これが決別の火炎殺法の瞬間!!


これ以降ブッチャーはシークと血で血を洗う抗争をすることになってしまいましたが、その遺恨試合で最も壮絶となったのが80年5月の後楽園ホールでのものでした。


まったく試合にならなかったが・・・


後楽園ホール一階をほぼ荒らす場外乱闘となり、当然、試合は成立しませんでした。さらに実況していた倉持アナウンサーがシークに攻撃され流血するというハプニングまで起きましたが、会場は反則攻撃を見せるも終始ブッチャーコールの大合唱。悪のヒーローの神髄を見せつけました。


こうしてタッグを解消したブッチャーは翌年80年からは流血大王キラー・トーア・カマタをパートナーにし、シークに相対するようになります。


カマタはブッチャーに似ていたし、早い動きから得意のジャンピング・トーキックを放つあたりはマネなんかもしましたし、なにより“流血大王”というニックネームが子供心に響き好きなレスラーでした。海外では抗争もしていたふたりですがブッチャーがタッグを組んだパートナーでは歴代でも上位だったのでは?と思いますね。


78年、80年と世界最強タッグにも出場した名コンビ


シークと仲間割れしてカマタと組んで・・・ボクが全日本プロレスを見た記憶があるのは、ちょうどこの頃、昭和54年からですね。特に火炎殺法は、翌週学校に行くとき同じ登校班のふたつ上の上級生が、昨日ブッチャーの火、見た?と話を振ってきたのでよく覚えています。試合の方は記憶にないのですが、試合後の仲間割れから火炎殺法をされたブッチャーの苦しみ方がすごくて・・・それと、なんと言ってもシークが火をどうやって出したのか?それが不思議で子供心に興味をそそられました。しかしシークには・・・怖かった思い出もないし、応援した記憶もない・・・とにかくいつも場外でゴチャゴチャやってた思い出しかありませんでした。


当時、怖さといえば、ボクがこのブログで一番最初に書いた話はタイガー・ジェットシンの話でしたが・・・おりしも昭和54年はあの“口裂け女”が世を席巻したとき。口裂け女は手に鎌を持ち、突然現れては素早く接近し、私きれい?と問うとマスクを外し、耳まで裂けた口を見せ、こちらの口も裂いてしまうというものでした。


でもボクは口裂け女なんかより、ジェットシンの方がはるかに怖い存在でした。ジェットシンをテレビで見た日は夢を見てしまうこともあったボクは、父親の背中に隠れながらプロレスを見てたりもしました。それほど怖い存在だったので・・・その頃、学校で、もし口裂け女が学校帰りに出てきたらどうしよう?なんていうヤツがいると、みんなは本気で怖がったりもしましたが、なーにを言ってやがる。学校帰りにジェットシンが出てきた方が怖いわ!!とボクだけは本気で思っていました。


しかし、同じ悪役なのにブッチャーにはジェットシンほどの怖さを感じませんでした。


試合では何人ものレスラーが止めに入ってるのに白目で舌を出しながら相手の首を絞め続けたり、大流血しながらも平然と動いては容赦なく相手の額や頭に噛みついたり、そしてフォークや割ったビールビンで相手をグッサグサに刺すという狂人のような反則で相手を血まみれにしたりする・・・これだけ聞いたら怖いし、それに絶対に見たくないし、こんな人を好きになれるはずがありません。しかし見たくないどころか、会場にはブッチャー目当てのファンが来ては声援を送り、リングを下りれば女性ファンや子供のファンに囲まれることもありました。なぜなんでしょうか?


そんな当時のある日、テレビのCMで信じられないものを目にしました。その目前に映し出された様は、水着の女性と海ではしゃぎ、サントリーレモンを仲良く飲むブッチャーの姿なのでした。


「ブッチャーが宣伝(コマーシャル)に出てる!!」


驚き思わず口走ると、隣にいた母親がさらに追い打ちを掛けます。


「本当は優しいのかもなぁ」


そうか・・・どんなに見ても、ブッチャーへの気持ちがジェットシンのようにならなかったのは、あの愛嬌のある顔つき、丸みを帯びた体型での動きが憎めないものだったからだと・・・確かにどんなに反則しても、流血してから唇をブルブルブルブル、ブルブルブルブルとやるあの姿を見ると、なんだか許せて、そして応援してしまいたくなるような、そんな気持ちにさえなってしまいます。


悪党、悪役レスラーにして他に類を見ないほどの愛嬌、愛らしさ、そして親しみやすさを持ったブッチャーは、こういったCMやマンガのキャラに使われることも多くなり、愛されていきました。結果、日本においては馬場さん、猪木さんと並ぶほど、いや、それ以上の知名度を誇った時期もあったほどでした。


そんな絶頂期、ブッチャーはプロレスでも絶頂でした。同年10月にジャンボ鶴田のUNヘビー級へ挑戦、これを奪取したのです。


得意の山嵐バックドロップを駆使し3度防衛の防衛にも成功した


当時のジャンボもブッチャーと幾度となく戦いましたが、どうもブッチャー戦では流血に追い込まれ、いい結果が出なかったことが多かったようです。もしかするとジャンボはブッチャーが苦手な相手だったのかもしれませんね。


さて、この段階でチャンピオンカーニバル2度優勝、PWF、インタータッグ、UNと全日本のタイトルを手にしてきたブッチャー。80年当時は、まだ全日本にインターヘビーのベルトがなかったので、この時点で全日本の看板タイトルをすべて手中に収めたことになります。


そんなブッチャーが81年、全日本プロレスに参戦以来、初めてインターヘビー王座に関わりしシリーズに参戦します。


そのシリーズは第9回のチャンピオンカーニバル直後に続いて行われたインター・チャンピオン・シリーズというもので、日本プロレス時代から日本の至宝といわれた力道山ゆかりのベルトであるインターナショナル・ヘビー級のベルトの王者をトーナメントで決めるというものでした(チャンピオンベルト・ワールド~インターナショナル・ヘビー級~


ブッチャーは前シリーズのチャンピオンカーニバルから、このシリーズに残留参加。1回戦、ジャンボ鶴田をリングアウトで下しましたが、2回戦準決勝でドリー・ファンク・ジュニアに反則負けとなり残念ながら決勝進出を逃しました。


ブロディ、ブルックスが乱入してブッチャーの反則が取られた


結局このドリーが優勝しチャンピオンになりましたが、インターヘビーを巡ったドリーとブロディの抗争に今後はブッチャーも当然絡んでくることは間違いないと思われました。


しかし人気、知名度、そしてレスラーとして充実しきっていたブッチャーに、このあと衝撃の事件が起きます。


その事件とは・・・もちろんみなさん知ってますね。でもコメで書いちゃ~ダメよん。後編のお楽しみ♪