名レスラー伝~黒い呪術師!!アブドーラ・ザ・ブッチャー~後編 | 団塊Jrのプロレスファン列伝

名レスラー伝~黒い呪術師!!アブドーラ・ザ・ブッチャー~後編

どうも!!流星仮面二世です!!

さあ後編です!!

全日本で確固たるポジションを確立していたブッチャーでしたが・・・それは1981年5月でした。

その日も、いつものようにテレビの前で新日本プロレスを見ていました。

すると・・・それは突然でした。突然鳴り響く吹けよ風、呼べよ嵐のテーマ、そして“黒い呪術師”の字幕。そんなテレビ画面の中をサングラスに白いスーツを纏ったブッチャーが、ゆうゆうと歩きながらリングに現れたのです。

川崎市体育館に現れたブッチャー

「ブッチャーだ、ブッチャーが来た!!」

家の中の隅々まで行き渡るほどの大声を思わず発してしまうほどの衝動でした。やがてマイクを握り、猪木と対峙して何かを話し出したブッチャー。

マイクを手に取り猪木へアピールする

なんの知識もなかった無知な時代にして、ボクら子供の情報源はテレビだけでした。だからIWGP参戦をアピールしていることもわからなかったし、引き抜き戦争なんてのが裏にある以前に、その言葉すら知りませんでした。

でも、そんな子供のボクにでも、馬場さん、ジャンボ、ファンクスとやり合ったブッチャーが新日本へ来て猪木とやるんだ!!ということは絶対にわかりました。

そして向かえたブッチャー初試合。その日は特番でした。いつもより長くプロレスが見れる・・・ニンマリしながら新聞のテレビ欄を見ると、そこには猪木、谷津vsハンセン、ブッチャーの文字が!!

ハンセンとブッチャーがタッグを組んで猪木とやるなんて!!大興奮でテレビに見入ると、試合前の控え室でハンセンとブッチャーが揃って映し出されました。ちょっと前なら考えられなかったことですが、現実でした。

本当にタッグを組んだ!!

ブッチャー初参戦にしてハンセンとのタッグ、猪木との顔合わせ・・・一体どうなるんだろう?試合が始まるとハンセン、ブッチャーは代る代るスピーディーで破壊力のある動きで谷津を捕まえ攻めていきます。

やっと猪木とタッチしたそのとき、猪木とブッチャーが新日本マットで初めて肌を合わせますが、そのファーストコンタクトはなんとブッチャーのブレーンバスターで幕を開けました。解説の桜井さんのいうとおり、あのプロレス夢のオールスター戦で猪木にやられたブレーンバスターの借りを返したような、そんな豪快なブレーンバスターでの戦いはじめでした。

結局、谷津には血祭りの洗礼を浴びせ、猪木にはいいところを見せさせず・・・ブッチャーのワンマッチ参戦は強烈な印象を残すこととなりました。そして引き続き次期シリーズのサマーファイトシリーズへ今度はフルで参戦となります。初めての新日本格参戦ならではの初対決が多く、シングル、タッグとも注目を集めました。

まず81年8月2日、後楽園ホールでの藤波とのシングル戦です。

このシリーズ、タッグでは何度か対戦していましたがシングルは初対決。ジャンボをライバルとして意識していた藤波。そのジャンボが幾度となく苦い水を飲まされたブッチャー相手に、どこまでやるのかが最大の見どころでした。

ドラゴン・ロケットも炸裂したが・・・

試合は、当時まだジュニアだった藤波がスピーディな動きでブッチャーを攻めましたが、やはり体格差とラフ殺法で一枚上のブッチャーが老獪さを見せリングアウトで勝利しています。

変わって7月31日の大阪臨海スポーツセンター、8月6日の蔵前では坂口とシングルで激突しました。

生涯でも数少ない坂口の流血試合となりましたが、パワーでも十分対抗できる坂口はブッチャーの地獄突きに手刀で対抗するなど、普段は見せない攻撃で見ごたえのある試合を展開しました。

馬場、猪木戦とは一味ちがったスリルがあった坂口戦

こうしてシングルではもちろん強烈なインパクトを発していったブッチャーですが、タッグでは黒い猛牛バッドニュース・アレンをパートナーに連日大暴れしていました。やがてここにS・D・ジョーンズも加わり、猪木他、新日本勢と抗争を展開していきました。ブッチャー軍団ですね~。なつかしいですね。

日本以外ではこの時期、81年11月にメキシコマットへ招聘され初遠征。ここではメキシコのトップルード中のトップルードであるペロ・アグアヨと組み大暴れし、人気を呼びました。

国境越えのヒール・タッグ

これをきっかけにこの後80年代はメキシコマットへの登場も多くなり、メキシコ勢はもちろん遠征してきた猪木、藤波とも試合を行うなど活躍しました。

明けた82年の新春黄金シリーズでの1月8日には、後楽園ホールにてブッチャーはダイナマイト・キッド、ベビーフェースと組み猪木、藤波、タイガーマスク組と激突。タッグマッチではありましたが初代タイガーマスクとの初激突が実現しました。

これぞ夢の対決!!

このシリーズでは6人タッグではありますが、この新春黄金シリーズでは何度かブッチャーとタイガーの対戦が実現しているようです。正直、どの試合かは忘れてしまったのですが、ボクがテレビで見たときはベビーフェースじゃなくてブッチャー、アレン、キッド組だったかなぁ・・・タイガーがフライング・クロスチョップ気味のショルダーアタックをブッチャーへ仕掛けますが通じなかったり、ブッチャー陣営に捕まり苦戦していたりしたのが印象に残っていますね。

そして向かえた1982年1月28日、東京体育館でついに猪木とのシングルマッチが実現します。

ブッチャー軍団と共にリングインしたブッチャー

今にも手を出しそうなアレンへレフリーが“アレンがセコンドに付きますが、手を出した場合には即、反則にします”というマイクでの異例の説明。興奮するアレンに、アレンと共にセコンドへついた、当時猪木へ異種格闘技戦での対決を迫っていた極真空手のハシム・モハメッドがなだめるシーンも見られました。

試合は序盤はブッチャーペースでしたが中盤、猪木の徹底した左腕殺しから延髄斬り連打に出るとアレンが乱入。ブッチャーの反則負けに終わっています。

ブッチャーよりも興奮気味なアレンが乱入してしまった

こうして猪木とのシングルが実現しましたが、猪木にとどまることなくブッチャーの注目の対決は続きます。

同年2月5日には札幌中島体育センターで、狼酋長ワフー・マクダニエルと対決。そのわずか4日後の2月9日には大阪府立体育会館でアメリカン・ドリーム・ダスティ・ローデスと対決しています。

一度はタッグを組んだが、もはやバチバチだった

ワフーとの戦いはテレビ中継こそなかったものの、全日時代にも抗争を繰り広げたふたりの戦いが新日本でも!!いう具合で我々も知っていることができました。

しかしこのローデス戦・・・ブッチャーとローデスの試合は、少なくとも小、中、高の時代には、本などに載っているのを見たことがなかったので、対戦があったこと自体ボクは知りませんでした。

当時テレビはやったようですが、現在動画なんかはあるんでしょうか?どなたか詳細わかる方いらっしゃいましたらご教示をお願いいたします。

さてその後、同年5月26日には大阪府立体育会館でハルク・ホーガンとシングルで初対決が行われます。

試合はブッチャーの地獄突き、ホーガンのパンチなどでやり合えば、ジャンピング・エルボードロップ、アックス・ボンバーとお互いの必殺技も決まり、白熱の攻防となりました。

ベアハッグで持ち上げるシーンも

やがて大乱戦の末、引き分けとなりましたが内容は名勝負となりました。しかしふたりの戦いは残念ながらこの一戦のみとなりました。まさに幻の対決でした。

また、間をおいての同年10月8日の後楽園ホール、闘魂シリーズですね。ブッチャーはアレン、ジョーンズと組み凱旋帰国した長州と藤波、猪木の新日本勢と対決します。ご存知のようにこの試合は長州が反旗を翻すきっかけとなった試合でしたが・・・試合が終わるとあっという間にいなくなってしまったブッチャー軍団。その心中は、どういったものだったのでしょうか・・・

そして・・・明けて83年。2年前にIWGP参戦を宣言しリングに登場したブッチャーでしたが、ついにリーグ戦参加は実現しませんでした。しかしIWGPも終わった次期シリーズ、サマーファイトシリーズにやってきたブッチャーは7月、大阪府立体育会館でディック・マードックとのシングル戦を行います(プロレス名勝負伝~ディック・マードックvsアブドーラ・ザ・ブッチャー~ )

今に思えば緊張感の意味がちがった試合だった

長州戦以降の正規軍vs維新軍、そして確執が絡んだマードック戦。新日本初登場当初からすると、何か空気が、少しだけ変わってきたような・・・そんな気がしました。

しかし海外では、相変わらずその存在は絶大でした。83年9月、ブッチャーは自身のホームともいうべきプエルトリコマットのプロレス20周年興行へ参加します。

ここでは、同じ時期に新日本マットに上がりながら、とうとう実現しなかったブッチャーとアンドレ・ザ・ジャイアントのシングルが大会の目玉のスペシャルイベントとして行われました。しかもこの大会開催期間の9月17日、18日と2日間で2連戦です!!

試合は、真っ向からでは・・・と、得意のラフに持っていきますが、相手が相手だけにブッチャーも手を焼いた模様でした。

さすがのブッチャーもアンドレにはタジタジ!?

しかしながらこんなすごいカードが2日も続けて行われるとは・・・と驚いてしまいますが、それだけではありません。このプエルトリコ20周年興行は当時NWA世界ヘビー級王者だったハーリー・レイスをはじめ、リック・フレアー、ペドロ・モラレス、オックス・ベイカー、ドリーファンク・ジュニア、マスカラスブラザース、キング・トンガ、ケンドーナガサキという層々たるメンバーが集結した一大イベントだったのです。

メキシコからは、あのアブドーラ・タンバも参戦

当時、これだけのレスラーを招聘して興行を行うというのは、とんでもなくすごいことでした。それだけプエルトリコマットが力を持っていた時代だったんですね。

さて、このように海外ではトップヒールとして活躍していたブッチャーでしたが、84年になると日本でのブッチャーは、空気が、また変わってきたような感じに見受けられました。半年ぶりにやってきた1月の新春黄金シリーズで、新日本登場以来ずっとタッグパートナーとしてプロレスを共にしてきたバッドニュース・アレンと仲間割れをしてしまったのです。

ラッシャー木村との共闘が裏目に出てしまったか?

そして1月27日、愛知県体育館で行われた遺恨決戦でした。この頃になると、あまりテレビに出なくなってしまっていたので、久々にしみじみ見るブッチャーでした。しかし試合、それはあまりの衝撃でした。

当時は3本勝負の名残があったため、インターバルでうがいをするためのバケツとビール瓶がリング下に設置されていたのですが、試合開始して間もなくアレンはこのビール瓶を叩き割り、なんとブッチャーの頭に突き刺したのです。

会場には悲鳴も・・・

わずか1分15秒、ブッチャーの反則勝ちでした。

相手を徹底的に痛めつけ、会場を恐怖と興奮に巻き込む。試合結果?知ったことか!!反則負けはヒールへの賛辞だぜ!!そうして悪のすごさをこれでもかと見せつけてきたブッチャーが、一方的にやられて反則勝ちになるなんて・・・

しかし、海外を見るとやはり様子がちがいました。この年、ブッチャーは6月にはプエルトリコで4日連続で行われたビッグショーに参戦。ここでプエルトリコ夜の帝王ことカルロス・コロンと組んであのハンセン、ブロディ組と対決します。ブッチャー、6月以前ではブロディとタッグを組んでファイトしていましたが仲間割れし、この対決となったため大変な人気を呼びました。

また7月にはAWAへ転戦し、すっかりベビーフェイスになったクラッシャー・リソワスキーらと激しい抗争を展開しました。

人気カードであった、ぶち壊し野郎vs呪術師

日本では実現しなかったブッチャーとミラクル・パワーコンビの対決や、ベビーフェイスになったクラッシャー・リソワスキーとの対決。こうしてみると日本での空気の流れがウソのようにも感じます。

しかし85年1月・・・新春黄金シリーズへ来日したブッチャーに、ボクらはショックを与えられます。

シリーズも最終戦に差し掛かった1月25日、山口県の徳山市体育館でブッチャーは猪木と3年ぶりのシングル対決を行いました。

試合はブッチャーのいいところが出ず・・・延髄斬り、傷口を狙った延髄斬り式のハイキックを駆使した猪木が当時150キロにまで達していたブッチャーをブレーンバスターに取り、結果、ブッチャーがわずか9分49秒にして完璧なフォール敗けをしてしまったのです。

新日本へ来て初めてのフォール負けだった

その後、猪木はこのとき初来日であったキングコング・バンディと2月5、6日と賞金1万5000ドルをかけたボディスラム・マッチ2連戦を行います。200キロのバンディを投げるか、投げられるか?注目を集めた連戦となり人気を呼ぶと、猪木がアブドーラ・ザ・ブッチャーと絡むことはもうありませんでした。結局これがブッチャーの新日本最後のシリーズとなってしまったのです。

シリーズが終わると新日本は同年3月にはブルーザー・ブロディ、5月にはジミー・スヌーカ、10月にはエリック兄弟、そして12月にはUWFもリングに登場、86年から参戦することになります。一方の全日本は85年2月から本格参戦してきたジャパンプロレスとの対決に盛り上がりを見せる一方、3月にはザ・ロードウォリアーズが初来日。日本中を旋風に巻き込むことになります。こうして話題性に富んだレスラーが次々登場すると、もはやブッチャーの名前を聞くことさえもなくなっていってしまいました。

しかし、それは2年後の87年の末の世界最強タッグ決定リーグ戦でした。

このシリーズへ、前シリーズで全日本へ復帰を果たしたブルーザー・ブロディが出場することになりましたが、なんとスタン・ハンセンとは組まずジミー・スヌーカと組むという・・・そして一方のハンセンはテリー・ゴディをパートナーに出場するという!!

すなわち!!タッグながらハンセンvsブロディが実現っ!!

これには注目が集まりました。また、この年の最強タッグは始まって以来とも言われる参加チームが揃うことになります。ざっと見てみると、ブロディ、スヌーカ組、ハンセン、ゴディ組を筆頭に、ザ・ファンクス、ザ・ヤングブラッズ、トム・ジンク、ターミネーター組。日本チームは馬場、輪島組、鶴田、谷津組、天龍、原組、ラッシャー木村、鶴見組、タイガー、仲野組、カブキ、テンタ組と豪華なメンツでした。

しかし、そこにもうひと組、タッグチームの名がありました。そう、アブドーラ・ザ・ブッチャー、TNT組の名前があったのです!!

開幕戦、後楽園ホールでブッチャーは鶴田、谷津組と対戦しました。流れる吹けよ風、呼べよ嵐・・・全日本復活ということもあり会場は大歓声に包まれました。

試合が始まるとブッチャーは地獄突き、ヘッドバッドと素早い動きで攻めに出ます。

ひとつひとつの攻撃、一発ごとに沸き上がる歓声がすごい!!

やがてジャンボ相手に空手ポーズを、いつものように早くでなく、ゆっくりとキメると後楽園ホールはこの日一番の大歓声、ブッチャーコールに包まれました。

そしてその歓声の中、それに応えるようにピョンピョンとジャンプするブッチャー・・・ここで、実況の倉持アナウンサーの一言でした。

「悪のヒーローが、全日本マットに帰ってまいりました!!」

85年の猪木戦がウソのような、生き生きと、そして光り輝く46歳のブッチャー・・・まさに悪のヒーローの降臨でした。ボクは寒気するほど嬉しくなりました。

次の週、学校へ行くと、表向きは普通に接してもらっているが、みんなに微妙に敬遠されてる中途半端なヤンキーが

「ブッチャーおれも見た!すげーなー」

と笑顔で近寄ってきました。まさかこいつからそんなことを言われるとは・・・しかしその後もこの中途半端なヤンキー、よほどブッチャー気に入ったのか?ニューブッチャーかっこいい!!と言っては弱いヤツに手加減なしの地獄突きをかましていました。だから微妙に敬遠されるんだよ・・・と思ってもみましたが、これがブッチャーなんだなぁ~と思いました。

70年代のブッチャーの人気は、73年生まれのボクは後半のほんのわずかしか体感できていません。しかしこういう素のヤツが学校で話したり、影響を受けたりするのを見ていると70年代のそのときも、こうやってファンが増えていったのではないか?そう思えるのでした。

結局、この年の最強タッグはファンクス、ブロディ、ハンセン、そして6年7ヶ月ぶりとなる馬場さんとの対決もあったことも拍車をかけ、どこの会場でも全盛期のようなブッチャーコールに包まれました。

カラテ・ポーズも冴えに冴えわたった

そして88年。新春ジャイアントシリーズにも続けて参加したブッチャーは開幕戦、輪島とのシングル戦で一方的に攻め、ジャンピング・エルボードロップ4連発を見舞い、最後は反則負けながら存在感をアピールしました。

輪島のチョップを余裕で受ける

その後、鶴田のインターヘビーへ挑戦するなど持ち味を発揮し、ファンへ、また見たい!!そんな気持ちを持たせ、この年にも期待がかかることとなりました。

しかし88年はブッチャーの身に衝撃の事件が起きてしまいました。そう、ブロディ刺殺事件です。

ブッチャーとブロディは日本でも海外でも、もはや宿命と言われるほどの対決を繰り返してきました。そして、その日のプエルトリコの夜も・・・そうでした。

そう、ブロディ最後の対戦相手こそ、ブッチャーだったのです。

まさかブッチャーが最後の相手にになろうとは・・・(名レスラー伝~超獣ブルーザー・ブロディ~後編

こうして8月29日、ブロディメモリアルナイトとなった武道館での追悼試合では、スタン・ハンセンとアブドーラ・ザ・ブッチャーのシングルが行われました。

あのなつかしのハンセン・ブロディのミックスされたテーマで入場してきたスタン・ハンセン。手にはブルロープとチェーンでした。そして吹けよ風、呼べよ嵐のテーマで入場してきたブッチャーの手にもあのチェーンがありました。ブロディの大親友とブロディ最後の相手・・・試合はチェーンでお互い大流血戦となりましたが、その血は涙にさえ見えました。

88年9月、ブロディの死去も記憶に新しいこの時期は三冠統一のプレリュードが盛んに聞こえてきた時期でした。そんな中、サマーアクションシリーズⅡの千葉公園体育館で、ブッチャーはジャンボ鶴田のインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦します。

この時期、ダブルタイトル、トリプルタイトルでの選手権試合が増えていましたが、これはダブルでもトリプルでもない単独でのインターナショナル・ヘビー級選手権として最後のタイトルマッチでした。

70年9月、台東区体育館で馬場さんのインターヘビーへ挑戦してから18年。インターヘビー単独最後の選手権にして、ブッチャーにしても最後のインターヘビー選手権試合だったのです。しかしブッチャーは初挑戦のときのようにラフで徹底的に攻め、ブッチャーを貫きました。

ロマンですねぇ・・・

やがて88年、年末を迎えると、ブッチャーは世界最強タッグに、なんとあのタイガー・ジェット・シンと夢のオールスター戦以来9年ぶりにタッグを組んで出場します。

復活した最凶コンビ

いろんな意味でハラハラさせるチームとなりましたが、終わってみれば黒星は鶴田、谷津組に許したのみ。優勝したハンセン、ゴディ組には参加チーム中、唯一両者リングアウトに持ち込んだりと、なかなかの活躍を見せました。しかしながら最終戦で、残念ながら仲間割れ。遺恨試合を展開することになります。

90年に入ると、9月30日に行われた馬場さんのデビュー30周年記念試合において、なんと馬場さんと初タッグを結成。相手はハンセン、アンドレ組という、まさに夢の中にいるようなカードが組まれました。

ブッチャーのピンチに馬場さんが駆けつける!!

その後、その持ち味を発揮しながら90年代以降はジャイアント・キマラやジョー・デイトンなどとタッグを組み、メインからは離れて楽しいプロレスへとシフトしていきました。

他のレスラーとの掛け合いは人気を呼んだ

しかし96年には全日本から突如離れ、インディー団体へ上がるようになります。

まず同年、東京プロレスに参戦すると、ここでの高田延彦との異次元対決を皮切りにしたかのように97年にはWARに、99年には大日本プロレスへ参戦します。

誰もが予想しなかった高田との対戦もあった

90年前半は全日本での楽しいプロレスでしたが、この96年からのインディー参戦からは、あの悪のブッチャーが復活。相手を次々と血祭りにあげました。

やがて2001年に全日本へ復帰しますが、2002年にはファンタジーファイトWRESTLE-1へ参戦。2007年にはハッスルに参戦すると、同年12月には全日本の世界最強タッグ、そして同時期にIWA・JAPAN にも参戦します。

2009年7月にはDRAGON GATEに参戦。2010年には新日本プロレスの1.4東京ドームにも25年ぶりの参戦をし、翌月2月には大阪プロレス、東京愚連隊主催にも参戦。同年8月にはIGFにジェットシンとそろって乱入し、猪木を襲いました。

そして・・・2012年1月2日、全日本プロレスの新春シャイニング・シリーズに参戦予定でしたが、体調が思わしくなく欠場し・・・ついに現役引退を発表ました。現役生活51年目、御年70歳での引退でした。

さて、名レスラー伝アブドーラ・ザ・ブッチャー、いかがでしたでしょうか?

デビュー以来、世界中のさまざまなテリトリーを渡り歩きながら、これほどたくさんのレスラーと抗争し戦ってきたレスラーはブッチャーをおいて他にいません。

そして、そんな戦いの数々を思い出せば・・・気がつけば、ボクらはブッチャーを見ず、相手のレスラーに目がいっていることが多かったのではないかなと思います。

一流のレスラーから、プロレスがヘタなレスラーやロートルになったレスラーまで・・・いろいろな試合で目にしたブッチャーの非道で過剰な攻撃に、やりすぎじゃないか!と苛立ち、なにか胸がモヤモヤし・・・ときには、ブッチャーおもしろくない!!つまんない!!とまで思ったことがあったかもしれません。だから、好きなレスラーは?と聞かれても・・・おそらく多くのプロレスファンからは、ブッチャーの名前は聞こえてこなかったのではないかなと・・・思うのです。

しかし、そんなブッチャーと相対したレスラー達が、反撃に転じたなら・・・会場やテレビの前で見ていたボクらは、凶器を奪われ反撃されるブッチャーを見たときは、どんな状態になっていたでしょうか?どんな気持ちになっていましたか?

江戸の末期、都々逸坊扇歌により七・七・七・五の音数律に従えられ、入眼された口語の、あの都々逸( どどいつ)に

「鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす」

というものがあります。

大きく、やかましく鳴くセミよりも、静粛に、ひたすら光を出すホタルの方が静かにして激しい情熱を持っているという意味の詩ですが、これは実は恋愛を謳ったもので・・・異性の前で軽々しく好きだ、きれいだなど、気持ちをやたら口に出す人より、何も言わずとも相手をひたすら想う人の方が、誠実で一途に愛しているという、言ってみればそんな意味になります。

レスラーのタイプ、相手の性格、確執・・・ブッチャーだって人間、ときには苦手な相手もいたでしょうし、イヤな、戦いたくない相手もいたかもしれません。しかしブッチャーは戦いました。気取ったベビーフェイスにも、人気取りの正当派にも、自分を格下に見たレスラーや組織にも、ブッチャーは自分の悪を貫いて戦ってきました。

そう、ブッチャーのプロレス人生こそ、まさに“鳴かぬ蛍が身を焦がす”ではなかったではないでしょうか?

そんなブッチャーを、こんなに長く見続けることができた日本のファンは、本当に幸せだと思います。

おれは忘れねえッ!ファンが愛してくれるのは強いブッチャー、悪役でも一生懸命なブッチャーだってことを!!

ボクたちも忘れません。いつまでもお元気でいてください!!