イエス様と生きる

イエス様と生きる

神様を褒めたたえることは
人としてとても大事です
死んだ者はそれが出来ません
死んだ人は神様を崇拝出来ない
生きるならば
本当の神様を崇拝することです

●疑問点➡イエス様は十字架上で「わが神わが神様、どうしてわたしを捨てたのですか」と言いました、なぜでしょう

●考察➡イエス様と天の父は深い信頼関係で結ばれています、本当に天の父がイエス様を捨てたのか、イエス様の勘違いなのか、理解出来ない内容です、理解出来ない内容ですが聖書は人に与えられたテキストですから人に理解出来るように書かれているハズです、イエス様は誠の神様ですから「勘違いする」ことはありません、本当に天の父はイエス様を捨てたと理解するのが正しいです、聖書の構造はイエス様は正しい、ユダヤの民は間違っているという基本構造です、天の父も間違いは犯さないのですから、天の父はイエス様を捨てたのは事実となります、捨てたということは死んだということです、イエス様は死んだのです、死んで復活したということです、確かに死んで確かに復活した、よみがえったというのは事実なのだと証明しているのです、ですからこれから起きるであろう最後の審判でも人は一度死んで復活するという暗示です、イエス様に捨てられる場面が来て死んで、それから復活するという人類の道です、復活とは一度死んで再び生きることです、今のままずっと生きることはあり得ないのです、死ぬと言うことは神様の「息が止まる」ということです、人は神様に息を吹きかけられて創造されました、復活するには再び神様の息が必要となります、神様の息がかからない人はそのまま死んでしまうということになります、復活した人は最初のアダムと同じように清くされるのです、今の人類は昨日のブログで書いたように「遺伝子が汚れている」のです、今のまま子孫を残しても遺伝子は汚れているので死ぬだけなのです、神様の計画は再創造です、人類を「祓い清めて」再創造される、人を復活させることです、今の人類は一度捨てられるということになります、汚れたままの遺伝子を増やしても意味は無いのです、汚れた遺伝子を頑張って残すのか、復活して永遠の命をいただくのか、どちらを選択するのかは人の信仰によって決まります、自分の信仰が自分を決めるのです、あなたの信仰があなたを救うのです、無理に引っ張ることはしません、復活するならば死も受け入れなければなりません、復活するならば死も苦では無くなるのです、苦を楽とするのです、自分は死ぬという苦しみを復活していただける楽しみにします

 

日月神示を繰り返し読めということは

聖書も繰り返し読まなければなりません

神様の真意を知るには見直し聞き直しです

日月神示 極めの巻

宇都志(うつし)水に天津(あまつ)水添え奉(たてまつ)らむを、夕陽(ゆうひ)より朝日照るまでふと祝詞せむ、火結神(ほむすび)の実秀答(みほと)焼かれて岩戸(言答・一八十)閉ざしき、青玉の水江の玉ゆいよよ栄えむ、天地咲(え)む神の礼白臣(いやしろおみ)の礼白(いやしろ)、天(あま)つ神の寿言(よごと)のままに八十(やそ)岩明けぬ、世界を一つにするのですから王は一人でよいのです、動きは二つ三つとなるのです、キはキの動き、ミはミの動き、動いて和してキミと動くのです、三が道であると知らせてあるでしょう、自他の境界をつくらないでください、おのづから自他の別と和が生まれてお互いに折り重なって栄えるのです、世界一家への歩み方、やり方を間違えないでください、九分九厘まで進まなければ後の一厘は分かりません、今が九分九厘なのです、日本は日本、世界は世界、日本は世界のカタの国、おのづから相違があるのです、守護神を良くすれば肉体も良くなるのです、神の道は一本道ですから、多くに見えても終りには一つになるのです、今が終りの一本道に入るところです、この道に入れば新しき世は目の前です、神も今まではテンデンバラバラであったのですが、今に一つにならねばならないことに天が命じているのです、人民の中と外も同様です、今の人民は誠が足りないので、誠を申しても耳に入らないのですが、今度は神が人民にうつって、また人民となって誠の花を咲かせる仕組みです、同じことを百年も続けてくどく申すと人民は申すのですが、分からないから申しているのです、わが身を捨てて三千世界に生きてください、わが身を捨てると申すことは我(が)を捨てること、学を捨てることです、捨てると真理がつかめて大層な御用が出来るのです、それぞれの言葉はあってもミコトは一つだと申してあるでしょう、ミコトに生きてください、言葉の裏には虫がついているのです、英語を学ぶと英語の虫に、支那語を学ぶと支那語の虫に犯されやすいのです、どうしても理解しなければならないのですから苦労をしてください、大難を小難にすることは出来るのですが無くすることは出来ないのです、不足を申すと不足の虫が湧くのです、怒ると怒りの虫が湧くのです、一生懸命に自分の信じるように神を小さくして自分で割り切れるように引きづり降ろしているのです、困ったものです、長くゆったりとした気持ちで神を求めてください、大空に向って腹の底から大きく呼吸してゴモクを吐き出し、大空を腹一杯吸い込んでください、そなたの神を一応捨てて心の洗濯をしてください、神示が腹に入ったら神示を捨ててください、神を信じつつ迷信に落ちているのです、日本が秘の本の国、艮(宇詞答裸、ウシトラ)のかための国、⦿ヒ出づる国、国常立大神がウシトラの扉を開けて出づる国と言うことが分かって来ないと、今度の岩戸開きは分からないのです、こんなことを申せば今の偉い人々は、古臭い迷信であると鼻にもかけないのですが、国常立命がウシトラからお出ましになることが岩戸(言答)開きです、今の学では分からないことばかりです、善と悪とに自分が勝手に別けて、善をやろうと言うのが今の世界のあり方です、天の王、地(智、千)の王のこと、・のことがハッキリと分からなければ足場がないのです、足場もめあても無くメクラメッポーに歩んでも目的地には着けない道理です、つまらぬことに心を残すのは、つまらぬ霊界との縁(えにし)が残っているのです、早く岩戸を開いて富み栄えてください、人民が富み栄えることは、神が富み栄えることです、何事も祓い清めてください、清めるとは和すことです、違う者同士が和すのが誠の和なのです、8迄と9、10とは性が違うのです、和すには5と5でなくてはならないですが、陽が中、陰が外なのです、天が主で地が従です、男が上で女が下、これが正しき和です、逆様ではならないのです、これが公平と申すものです、陰と陰と、陽と陽と和しても陰です、陽と陰と和して始めて新しき陽が生まれるのです、陽が本質的なもの、この和し方が祓い清めです、今まで世に落ちていた神も、世に出ていた神も皆一つ目です、一方しか見えないので、世界のこと、逆の世界のことは分からないですから、今度の岩戸開きの御用は中々難しいのです、早く改心して九、光の神について来るのが一番なのです、外国の方が早く改心するのです、外(幽)国人とは逆の世界の人民のことです、神の目からは世界の人民はみな我が子です、世界中が皆この神の肉体です、この神には何一つ分からない、出来ないと申すことはないのです、どんなことでも致して見せるのです、元は5で固めたのです、天のあり方、天なる父は5です、それを中心として、ものが弥栄えゆく仕組み、それを人民は自分の頭で引き下げて4と見たから行き詰って世界の難渋となったのです、手や足の指は何故に5本であるのか誰にも分からないでしょう、天の5を地にうつすと地の五則となるのです、天の大神は指を折って数えられたのです、天の大神の指も五本であるから、それを五度折って二十五有法となされ、五十を元とされたのです、神々、神心、神理、神気、神境です、この交叉弥栄えは限りなく、これを五鎮と申すのです、上天、下地、照日、輝月、光星、これを五極と申すのです、東木、南火、中土、西金、北水、これを五行と申すのです、裸物、毛物、羽物、鱗物、甲物を五生と申し、文則、武則、楽則、稼則、用則を五法と申すのですが、それだけでは足りないのです、その中に⦿があるのです、大神が座しますのです、人民の頭では中々に理解は出来ませんが分ってください、これが妙であり奇であるのです、天の父の教えであり、地にうつした姿です、神示に出したら天明に書かせるのです、神示はいくらでも神界に出してあるのです、神が想念したならば、神界ではそれが神示となっているのです、それを人民に分かるように書かせるのです、父と母との文字で書かせるのです、天明は神示をうつす役、書かせる御役です、陽当たりのことと、日陰のことと一時に出て来るのです、タテコワシとタテナホシが一時に来るのです、神の申した通りになっているでしょう、学で説くと学の鬼に囚われるのです、智で説くと智の、理で解くと理の鬼に囚われるのです、このままに伝えてください、天の世界も潰してはならない、地の世界も潰すわけには行かないですが、地上の事は潰さなければ建て直しは難しいのですが、見ていてください、一厘(理云、リン)の火水でデングリ返して、見事なことをお目にかけるのです、口先ばかりやその場限りでうまい事申しているのですが、それは悪の花です、心と行が伴わないからです、自分自身の戦いが終っていないからです、そなたの持っている悪い癖を直してください、それが御神業です、神々様も自分の癖を直すために御苦労なさっているのです、そのために生長するのです、昨日の自分であってはならないのです、六十の手習いで止まってはならないのです、死ぬまで、死んでも手習いです、お互に拝んでください、拝むと総てが自分となるのです、拝むところに集まって来て弥栄えです、ここまで申して聞かせても言うことを聞かない人民が多いのです、聞く耳が無いならば思うようにやって見てください、グルグル廻ってまた最初からです、人民は神の中にいるのですからいくら頑張っても神の外には出られないのです、死んでも神の中にいるのです、思うようにやって得心改心してください、我が我で苦しむのも薬と申すものです、正しくないものが正しい方に従わなければならないと人民は申していますが、正とか不正とか申す平面的衣を早く脱いでください、誠を衣としてください、誠を衣にするには心が誠になって、誠の肉体とならなければならないのです、誠とは数(かず)です、言(こと)です、色です、その配列、順序、法則です、右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい、それが無抵抗で平和の元だと申していますが、その心根をよく洗って見つめてください、それは無抵抗ではないのです、打たれるようなものを心の中に持っているから打たれるのです、誠でいれば相手が手を振り上げても打つことは出来ないのです、よく聞きわけてください、笑って来る赤子の無邪気は打たれないでしょう、これが無抵抗です、世界一家天下泰平です、左の頬を出す愚かさをやめてください、頭を下げて低くなって見てください、必ず高い所から流れて来るのです、高い所にいるから流れて来ないのです、神の恵みは水のように淡々として低きに流れて来るのです、自分が自分にだまされないように心してください、自分で善悪を決めて苦しんでいるのです、世界の片端浜辺からいよいよが起きて来たのです、夜明けが近づいたのです、今までの逃れ場所はヤマであったのですが、今度はヤマに逃げても駄目なのです、神の御旨の中に入ってください、山に移って海に入れと申してあるのは今度のことです、この神示は神と龍神と天人天使と人民達に与えてあるのです、天界での出来事は必ず地上に移って来るのですが、それを受け入れる、その時の地上の状態によって早くもなれば遅くもなり、時によっては順序も違うのです、人民は近目ですから色々と申すのですが、広い高い立場で永遠の目で良く見極めてください、寸分の間違いも無いのです、これが間違ったら宇宙は粉みじんとなり、神はないと言うことになるのです、天人天使の行為が人民にうつるのですが、人民の自由、能力の範囲に於ける行為は又逆に、天界に反影するのです、日本とカラ(支那、中国)と土地が違う様に、日本人と唐人とは違うのです、天界のうつり方も違うのです、同じ日本人でも時と所によって違うのです、肌の細かい絹と荒壁にうつる映画は同じでも少しづつ違う様なもので、違って映るのが誠なのです、同じ数でも123と一二三は違うのですから分かってください、新しき世界に進む大切なことです、今の学者には今の学しか分からないのです、それでは今度の岩戸開きの役には立たないのです、三千世界の岩戸開きですから、少しでもフトマニを違えてはならないのです、まわりくどいようでも嫁ぎ(とつぎ)の道から改めてください、出舟の港は夫婦からであると申してあるでしょう、ミトノマグワイでなければ正しき秩序は生まれないのです、素盞鳴命が、荒ぶる神、悪神ではなく、人民の罪を背負って下さる救い主の大神であることが分からなければ、岩戸は開けないのです、新しい世界の宮は土地(神智、十千)であり、住所(数真意、すまい)なのです、永遠に在(おわ)す神は住む(澄む、数務)土地(十千)であり、下には永遠の腕(宇丁・うで)があるのです

 

●疑問➡神様はアダムとエバが食べてはいけない知恵の実をどうして園の中央に置かれたのか

●考察➡このブログを読んでいただける皆さんはある意味で真理や宗教に関心があると思われます、ブログの内容が「つまらない」とほとんどの人は去って行きます、自分に興味がある時は食いついて来ますが、ある意味でむなしいことです、聖書ではアダムとエバが犯した罪から人類の堕落が始まったのです、アダムからノアの時代くらいまで人は900歳くらいまで生きることが出来たのです、古事記や日本書紀でも最初の天皇はとても長生きなのです、今の時代はどんなに長生きしても120歳までと神様が決めています、120歳を超えることが出来ないのです、神様が決めたことなので人は神様に従うしか無いのです、もし120歳を超えて生きる人がいるならば神様の言うことは間違いか、神様が人の寿命を変更したということです、今の時代の人は120歳まで到達するのは至難の業です、途中で病気になったり、事故に遭ったり、戦争で亡くなったり、災害で亡くなることもあります、善悪の知恵の実を食べた人類の運命は「必ず死ぬ」となっています、聖書では「けがれた」とあります、アダムの罪でこの地はけがれたのです、けがれたものを食べたり飲んだりすれば必ず死ぬのです、ここが理解出来ないと自分で自分を殺すことになるのです、聖書の構造は人の前に「祝福と呪いを置く」のです、神様のやり方は二者択一です、どちらを選択するか神様は人を試しているのです、大いなる試練があるとイエス様も申しています、本日の疑問は神様はどうして園の中央に食べてはいけない知恵の実を置いたのか、アダムとエバが食べるのを知っているのに死ぬ木を置いていた、聖書の構造ではイエス様の言葉だけではなくパウロの福音も書かれています、多くの信者さんはパウロの福音をおいしい、おいしいと食べています、イエス様は三日目で復活されましたが、三日目で死ぬ人もいるのです、イエス様の福音が蒔かれて3000年目に結果が出るのです、パウロの福音が蒔かれて同じように結果が出ます、この地は汚れて人の遺伝子には必ず死ぬという「種」が植えられています、災害や事故や戦争や病気です、遺伝子は人の運命を決めるのです、先祖の遺伝を引き継ぐのです、自分の努力ではどうにもなりません、酒やタバコなどの嗜好も同じです、先祖と同じような嗜好を好むのです、そこで本日の結論ですが、死にたくなければイエス様の遺伝子を植え付けること、永遠の命の遺伝子をいただくことです、人には祝福と呪いが置かれるのです、どちらを選択するか、その人の選択なのです、無理に強制することは出来ません、神様がそのようにしているのです、人に選択権が無ければ、死ぬ木は置かないです、死んでしまう木など始めから造らないのです、聖書の構造は「死ぬか生きるか」です、死ぬか生きるかの気持ちで取り組まないと、悪魔の誘惑で死ぬと言うのが聖書の構造でもあります、本日は及川個人の文章となりましたが、いいかげんな人は死ぬと思います、イエス様はなまぬるい信仰は「吐き出す」と申しています、信仰は試されています、神様がやさしいだけなら楽園を追放したりしません、災害や戦争も全能の神様なら止めることが出来ます、この地は神様の言う事を聞かない人が「存在している」ということです、言う事を聞かない人も今は許しているということです、神様は人が死ぬことも許しているということです、許しの神様なのです

 

 

日月神示 龍音の巻

この巻は龍音の巻です、続く五の巻は極(きわみ)の巻、六の巻は至恩の巻、七の巻は五葉の巻です、この五十(いせ)黙示の七巻は神と人と共に与えたものです、一巻から続いたものです、同じ意を持つものが天国にもあるのです、合わせて三十巻、これで岩戸までの神示の終りです、前に出した黄金の巻からの七巻は人民に与えたものです、言(こと)やめて草の片葉も陽に伸び行かな、八十(やそ)隈手行きにし神は今かえります、素盞鳴の命しらせる海原ぞやよ、天ヶ下おつるくまなく照らす大神、高低(たかひき)の伊百理(いおり)かきわけきこし召すらむ、罪と言う罪はあらじな神の子なれば、ひふみ百千万(ももちよろず)と咲(ゑ)ます元つ太神、八十伴男(やそとものお)百(もも)足り足りて仕えまつらむ、行く水に清めて仕う極みの宮殿(みあらか)、言霊の栄ゆる御歌にはらいてましを、みそぎして祝う生命(いのち)ぞ弥栄ましませ、安国の瑞穂(みづほ)の国と御(しら)し給いぬ、八重雲の十重雲千別き千別き天降(あも)りぬ、千木高知り美頭(みづ)の御殿(みあらか)咲(え)み仕へなむ、許々太久(ここだく)の罪はあらじな大岩戸あく、四方の国咲(え)み集うらし真中の国に、よしあしき皆はらひませ科戸(しなど)の風に、八束穂(やつかほ)の十束穂(とつかほ)とこそ実らせ給え、みかのはらみて並べてぞ天地(アメツチ)の座に、御服(みそ)輝(かが)し明妙照妙和妙(あかてるにぎ)風のまにまに、巫(かむなぎ)の大御心のまま弥栄えむ、千木千木し瑞の御舎(みあらか)仕えまつらむ、御宝前(おんまえ)に宇豆の幣帛(みてくら)たたえまつ栄、大神の咲(えみ)に弥栄ゆ生国足国(いくくにたるくに)、狭(さ)き国は広く峻(さか)しき国は平に、日のみかげ百島千島おつるくまなく、青雲のたなびく極み座(し)きます宝座(みくら)、甘菜辛菜(あまなからな)地の極みまで生ひて尚生ゆ、見はるかす四方の国みなえらぎ賑わう、世界中が霊かかりになると申してあるのは今のことです、霊にかかっている世界自身が分からなくなっているのです、サニワしなければなりません、サニワの方法を書いて知らせます、世界を日本を自分をサニワしなければなりません、目に見えない所からの通信は高度のものほど肉体的には感応が弱くなり暗示的となるものです、ドタンバタンと大声でどなり散らすのは下の下、神もフトマニに従わなければなりません、順を乱すわけには行かないのです、高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するのであることを忘れてはならないのです、下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのですからその感応は極めて強く、いかにももっともらしく人民の目にうつるのです、高度のものは、その人民のミタマの如何(いかん)によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのです、特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界にまで降って来て、人民に特別な通信をなして指示することもあるのです、また天使の霊が母体に宿り、人民として生れて来る事もあるのです、末世にはこの種の降誕人が沢山あるのです、霊界と申しても神界と幽界に大別され、また神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人が住み、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分れ、陽霊人、陰霊人とがいるのです、陽霊人とは人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性を持っているのです、高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界も無いのですが、人民の頭で分かるように申しているのです、幽界は本来は無いものなのです、人民の地獄的想念が生み出したものなのです、幽界は人間界と最も深い関係にあり、初期の霊かかりのほとんどはこの幽界からの感応によることを忘れないでください、霊かかりの動作をよく見極めればすぐ分かるのです、高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊です、インチキ霊なのです、インチキ霊にかからないでください、たとえ神の言葉でも尚サニワしてください、迷信であってもそれを信じる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部を作り出すことがありますから気を付けておきます、無き筈(はず)のものを生み出し、それがまた地上界に反影して来るのですから心してください、今の人民の九分九厘は幽界とのつながりを持つのです、胸に手を当ててよくよく自分をサニワしてください、霊的良識は神示や神典類によって、また体験によって養われ、また高度な科学書も参考となるものです、科学を馬鹿にしてはなりません、幽界の霊であっても高度のものともなれば、神界の高級神霊と区別することが難しいのです、初歩のサニワの誤りやすいところであり、また霊眼する者の誤り易いところですから注意しなければなりません、例えば霊光の如きものも強く大きくて中々にサニワ出来ないのです、仙人と申すものは如何に高度なものであっても、それは幽界に属すのです、仙人界には戒律があるからです、神界には戒律はなく、戒律のある宗教は亡びるのです、誠の宗教には戒律はないのです、しかし神界にも仙人的存在はいるのです、龍体を持つ霊は神界にも幽界にもいるのです、龍体であるからと申して神界に属すると早合点しないでください、多くの場合霊界に住むものは自分の住む霊界以外のことは知らないのです、その霊界が総ての霊界であるかの如く思うものです、同じ平面上につながる霊界のことは大体見当つくのですが、段階が異なって来ると分からなくなるのです、他の霊界は霊自身の持つ感覚の対象とならないからです、人民界のことを良く知っている霊は、人民界を去って間もない霊か、地上世界に長く住んでいた動物霊か、人民に憑依していた霊です、特別な使命を持つ天使は別として、人霊以外の霊で人民に憑依するのは、日本では天狗的、神的、仙人的、キツネ的、タヌキ的、ネコ的などが大部分ですから気をつけおきます、人間の肉体に他の霊が入って自由にしているのだと、多くの霊覚者やサニワが信じているのですが、事実そう見えるのですが、それは誤りです、人間の肉体は原則として真理の宿り給う神の生宮ですから、下級霊は中々に入ることは出来ないのです、例外はあるのですが、肉体霊、外部霊、副守護霊等の想念は、時によって動物的、幽界的となるものですから、それと同一波調の動物的霊が感応するのです、感応はするが肉体の内部までは入り込めないのです、しかし感応の度が強ければ入ったと同様に見える状態となるのです、先祖霊も大体同様です、霊には物質は感覚の対象とはならないのです、霊には人間の肉体は無いのと同じです、祖先霊に化けて何かを企てる動物霊が多いので注意してください、動物霊がなぜ祖先のことを知るかと申せば、その憑依の対象となる人間の肉体霊の知っていることを、直ちに知り得るからです、動物霊が人間の言葉を使うことは腑に落ちないと申す者が沢山ありますが、良く考えて見てください、例えば他人の家に入って、そこにある道具類をそのまま使うのと同じ道理です、分かりましたか、動物霊でも他の霊でも人間に感応したならば、その人間の持つ言葉をある程度使いこなせるのです、故に日本人に感応すれば日本語、米人であれば英語を語るのです、今の偉い人民がこの神示を読むと、理屈に合わない無茶苦茶な文章であるから、下級霊の仕業だと判断するのですが、それは余りにも霊界の事を知らない霊的白痴であることを自分で白状しているのです、気の毒なことです、ましてこの神示は八通りに読めるのですから、いよいよ分からない事になるのです、時には例外として人間の魂と動物の魂と入れ替っていることもあるのです、この場合は肉体に入り込んだと考えてよいのです、この様な場合、例えばそれが狐ならば狐の様相を露呈しますから、誰にでもすぐ分かるのですが、悪行を積んだ霊ともなれば、巧みにその時代々々の流れに合わせて化けていますから、中々見破ること難しいのです、心得てください、ある種の霊は、自分自身は高度な神界に住んでいると誤信しているものもありますが、こうした霊が感応した場合は自信を以って断言する場合が多いのです、人間が知らない世界のことを、自信を以って強く告げられると、多くのサニワは参ってしまうのです、幽界霊も時により正しく善なることを申すのですが、それはただ申すだけです、悪人が口先だけで善を語るようなものです、良いことを語ったとしても直ちに善神と思ってはならないのです、良い言葉ならば悪神が語ってもよいではないかと申す人もいますがそれは理屈です、甘ければ砂糖でなくサッカリンでも良いではないかと申すことなのです、真の善言真語は心、言、行一致ですから直ちに力するのです、言葉の上のみ同一であっても、心、言、行が一致していないと力が出ないのです、偽りの言葉は、落ちついて聞けばすぐ分かるのです、同じハイと言う返事でも、不満を持つ時と喜びの時では違うでしょう、我は天照太神なりなどと名乗る霊にロクなものはないのです、大言壮語する人民は眉唾ものです、サニワは場合によって霊媒を誘導しても良いのです、また霊に向って常に愛を持って接しなければなりません、誰でも絶えず霊界とのつながりがあり、霊界からの呼びかけがありますから、サニワはそれを助け導くように努力しなければならないのです、はじめに出て来る霊は殆ど下級霊です、玄関に先づ出て来るのは玄関番です、祖霊の出る場合は何か頼みたい場合が多いのです、浄化した高級霊ともなれば、人民に分かるような感応は殆どないのです、霊の要求だと申してもそのまま受け入れてはならないのです、よく判断した上で処理しなければなりません、下級霊、動物霊の場合は酔いどれのように箸にも棒にもかからないことを申すものです、特にその霊が病気に関連を持っている場合は微妙ですからよく心得てください、悪い企て、悪い行為だとしても直ちに決めつけてはなりません、やんわりともちかけて善きに導かなければならないのです、悪を嫌う心があってはならないのです、悪を抱き参らせてくださいと申してあるでしょう、邪道的要求を受け入れて一時的に病気を治すと、それに倍してブリ返すのです、この呼吸が大切です、霊に日月神示を読んで聞かせて見てください、その偉大さがハッキリ分かるのです、どんな下級霊であっても、その霊を馬鹿にしてはいけないのです、馬鹿にすると反射的にサニワを馬鹿にして始末に負えないことになるのです、霊覚者や行者の中には奇跡的なことや非常識な行動をする者がよくあるのです、一般の人民はそれにだまかされることがよくあるのです、何れも下級霊の仕業です、正神には奇跡はないのです、奇跡ないことが大きな奇跡であるのです、奇跡するものは亡びる、高級霊は態度が立派です、分かりましたか、霊の発動を止めて静かにする法は「国常立大神守り給え幸(さき)はえ給え」と三回くり返すこと、又「素盞鳴大神守り給え幸はえ給え」と三回くり返すこと、又は「太日月地大神守り給え幸はえ給え」と三回くり返すこと、世界そのものの霊かかり、日本の霊かかり、早く鎮めないと手に負えない事になるのですが、見ていてください、見事な事をやって見せるのです

 

●質問➡カインとはアダムとエバの最初の子供です、カインの妻は誰だったのですか
●回答➡聖書は、カインの妻が誰であったかは書いていません、唯一の可能性として、カインの妻は彼の妹、姪、または兄弟の孫娘などということになります、聖書はカインがアベルを殺した時に何歳であったかも記録していません(創世記4章)二人とも農夫だったので充分成長した大人であり、それぞれ家族を持っていたと思われます、アベルが殺された時にアダムとエバには、カインとアベルだけではなくたくさんの多くの子供がいたと思われます、その後もさらに多くの子供が生まれています(創世記5章)アベルを殺した後、カインが自分の命が人から狙われると恐れているという事実(創世記4章)は、その頃にはアダムとエバに多くの子供達、たぶん孫やひ孫までもいたであろうということを示しています、カインの妻はアダムとエバの娘か孫娘だったのです、アダムとエバは最初で唯一の人類だったので、その子供達は親族同士で結婚するしか選択がなかったのです、神はずっと後になって人口が増えて、親族間での結婚が必要でなくなるまで、親族間の結婚を禁じてはおられなかったのです(レビ記18章)親近交換で生まれた子供に遺伝子の異常がよくみられる理由は、同じ様な遺伝子を持った男女(たとえば兄弟姉妹)が同様な遺伝子の欠陥を持っているので、その子供に遺伝子の異常が他の夫婦よりはるかに起こりやすいのです、違った家族から出た夫婦の子供は、両親に同じ遺伝子の欠陥があることはほとんどないので問題はないのです、人間の遺伝子コードは、遺伝子の欠陥が増し加わって拡大して世代から世代へと伝わって来たので、何世紀もの時間を経て今日では多くの遺伝子異常があります、アダムとエバには何の遺伝子の欠陥もなかったので、彼らも最初の次の何世代も今の私達よりもはるかに良い健康を保つことが出来たのです、アダムとエバの子供達も、ほんの少しの遺伝子欠陥しかなかったので彼らが家族間で結婚しても安全だったのです、カインの妻がカインの妹だったと言う内容は良い内容ではないと思う人もいますが、始めに神がひとりの男と一人の女で始められたので、次の世代は自分達の家族間で結婚するしか選択がなかったという解釈になります


●質問➡聖書は同性愛について何と言っていますか、同性愛は罪ですか
●回答➡聖書は一貫して同性愛の行為は罪だと言っています(創世記19章) ローマ書1章では、同性愛は特に神を否定し、神に従わなかった結果であると教えています、聖書は罪と不信を続けている人をもっとひどい悪と汚れに神が引き渡される、それは彼らに、神なしには人生はむなしく、望みもないことを示すためであると教えています、第一コリント6章では、同性愛の行為をする者は神の国を相続することができないと宣言しています、神は同性愛の欲望を持たせて人を造られたわけではありません、聖書は人は罪のせいで同性愛者になると言っています(ローマ書1章)そして究極的にはその人の選択でなると言います、中には同性愛により感じやすい性格を持って生まれてくる人もいるかもしれません、暴力やその他の罪を犯す傾向を持った人がいるように罪への欲望に任せて罪を犯すことを選択した人の言い訳にはなりません、もし人が激しい怒りに影響されやすい性格を持って生まれたとしても、その欲望のままに行動して正しいとは言えません、同性愛についても同じで正しい行為とはいえません、聖書は同性愛が他のどの罪よりも特別に大きい罪だとは述べていません、すべての罪は神に対しての違反です、同性愛は第一コリント6章に書いてある多くの罪の中のひとつで、それらの罪がみな人を神の国に入れないようにするのです、聖書によると、神は、姦淫をする者、偶像礼拝をする者、殺人者、盗人などに対してと同様に、同性愛者にも赦しを提供されているのです、神はすべての人が救いのためにイエスキリストを信じるなら、同性愛も含めて罪に打ち勝つための力を与えるとも、約束されているのです(第一コリント6章)

●コメント➡神様の命令に従わないで戒律を犯したならば救われないという決まりが聖書ではありません、人は自分の罪を認めて救い主であるイエスキリストを信じることにより罪人が救われると言う約束になります、イエスキリストを信じたならばその後の人生では罪を一切犯さないようになるとはなりません、罪人であることに変わりはありません、自分はさらに罪深いと知ることになります、何をやってもイエス様の清さにはならないのです、自分の罪深さを自覚すればするほど、ますますイエス様に救ってもらおうとする信仰が強くなります、良い人になればイエス様の救いは必要なくなるので、信仰は薄れてしまいます、罪人には罪人を救いに来たイエス様の愛がますます必要なのです