旧日本軍の画像を逸話を交えながら貼っていく (1)


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1: 
解説交えて紹介していきます。


3: 
続けろください
4: 
よろしくお願いします
10: 
これは楽しみ
5: 
これは期待せずにいられない
12: 
~撃墜王編~

坂井三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/坂井三郎
Sakai_as_young_pilot
撃墜数は64機。僚機を失ったことがなく、これは第二次世界対戦の歴代搭乗員の中で坂井ただ一人だけ。
戦後に海軍時代の経験を綴った著書『大空のサムライ』はあまりにも有名。
超人的なエピソードが幾多も存在する。

・昼間に星が見えた

・対空砲火の飛ぶ敵基地上空で同じく撃墜王であった西沢広義と太田敏夫の3人で三回連続編隊宙返りを披露する。
後日、日本の基地に「素晴らしかった。今度は是非とも歓迎するよ」という敵からの手紙が届いたことで上官にバレて、こっぴどく叱られる

・全盛期の頃はプロペラのスピナー部分を額に感じ、主翼の両端を中指の先に感じており、完全に戦闘機と一体化していたという。

・ガダルカナル島上空で頭部を被弾して失神、海面に急降下するが無意識のうちに水平飛行まで回復。
視界がぼやけ計器も見えず、出血による意識喪失を繰り返しながらも、約4時間かけてラバウルの基地まで辿りつき生還。

・内地に戻り麻酔無しで目の中に埋まっていた弾丸の破片を除去する。視力が大幅に低下したものの戦線へと復帰

・アメリカ軍新鋭機のF6Fヘルキャット戦闘機15機に包囲され一斉攻撃を受けるも、一発の被弾もなく帰還。
坂井は包囲されながらも巧みに攻撃を避けつつ攻撃し、むしろアメリカ側は守勢にまわっていたという。

・偵察していた時に侵攻する日本軍から逃げる民間人と軍人を満載したオランダ軍の大型輸送機を発見。
敵国機はなんだろうと撃ち落すように命令を受けていたので攻撃しようと輸送機の横についたところ、中で震え上がる母娘を発見、さすがに闘志が萎えた坂井は輸送機を見逃した。
この事は当然命令違反となるので上官には報告せず、自身の著書にも輸送機は雲間に隠れて見失ったと綴っている。
この真相は終戦から50年が経ち、初めて明かした。

・終戦後のある日土砂降りの中、車を運転していると誤まって工事現場の土砂に乗り上げてしまい横転。
不時着だー!と叫んでとっさに身体を丸くした。この時坂井は対向車線を走る車の前に投げ出された。
坂井の頭のあと数センチという所にタイヤがあったという。本当に凄いのはここからで、
警察が来たあと念のため車の鍵は外したほうがいいといわれるが、鍵が刺さっていない。坂井は不思議に思いポケットに手を入れると、そこに鍵がはいっていた。これは不時着した場合に火災の恐れがあるため素早くエンジンを切れという戦闘機乗りの頃の教えが、無意識のうちに発動したためである。
17: 
>>12
坂井三郎はかっこいいよな
24: 
>>12
これは有名
27: 
>>12
佐賀からは陸海軍に何名かパイロット輩出しているな
83: 
>>12
最後の一行読んだときに、無意識のうちスゲーって声でちゃったよ・・・
325: 
>>12
この人朝生にも出てたんだよ、んで
「最近の若者がなんたらかんたら」
って言われて
「いや、わしの若いときも同じことを言われていた、今の若者と日本の復興は素晴らしい、なぜそれが分からんのかあんたらは」
って発言して会場の学生スタンディングオベーションだった

まだ覚えている
26: 
人物紹介が主なの?
50: 
>>26
人物と特攻が主かも・・・
30: 
岩本徹三
https://ja.wikipedia.org/wiki/岩本徹三
Tetsuzo_Iwamoto

撃墜数は202機で、最強の零戦パイロットと謳われる。
岩本の次に多く敵機を落としたのが西沢広義の87機であり、いかに200という数字が凄まじいかが分かる。

日中戦争から終戦まで幾多の死線を乗り越え、生き抜く。

搭乗員は坊主刈りを強制されていたが、写真の岩本は長髪である。これは当時の司令が岩本を例外扱いとし、それを認めたという。

沖縄戦開始直前に、米軍機・米艦隊のうろつく慶良間諸島に単騎で夜間強行偵察を行うという任務を受けるが、その時岩本は千鳥足になるほど酔っ払っていた。しかし出撃、遊弋する米軍艦艇を銃撃し、大損害を与え帰還したというエピソードをもつ。

1953年、盲腸を医師が腸炎と誤診し腹部を大手術すること3回、さらに入院中に背中が痛みだし原因不明のまま麻酔をかけず4,5回大手術を行い、最後は麻酔をかけずに脇の下を30cm程度切開して肋骨を2本取り出し、敗血症を併発して壮絶な死を遂げる。
43: 
>>30
最期悲惨すぎだろ
33: 
壮絶すぎる・・・
36: 
赤松 貞明
https://ja.wikipedia.org/wiki/赤松貞明
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記録されている撃墜数は27機だが、酒に酔った時には350機撃墜と豪語していた。

日中戦争から終戦まで戦い抜く。仲間からは「松ちゃん」と呼ばれ親しまれた。

あの坂井三郎は赤松のことを「大先輩赤松中尉は頭脳明晰、気力体力ともに抜群で柔道、剣道、弓道、相撲合わせて十五段、水泳も抜群の猛者で、全盛期には日本海軍戦闘機隊では戦技、右に出る者はいないと言われるほどの強者。

下士官時代には勇気あまって若干の粗暴の振る舞いありと批判されたこともあったが、おくればせながら准士官、特務士官と進級するうちに人格を増し、太平洋戦争に入っても老練、なお日本海軍戦闘機隊に赤松ありと認められ、部下、後輩たちからも尊敬畏敬された強者であり、よき指導者でもあった。」と評している。

その豪傑っぷりは凄まじく、75機のP-51の大編隊に単騎で挑み、1機を確実に撃墜し包囲網を突破し無事に飛行場に着陸するなどの離れ業をやってのける。

更に終戦間際の7月、零戦より性能が劣るとされた雷電を操縦し相模湾上空でF6Fと渡り合い、格闘戦の末これを撃墜する。

その後燃料切れとなり、横須賀基地に不時着。「雷電はいい戦闘機だ。もう少し燃料が積めたらもっといいが」と叫んで、厚木基地に飛び去っていったと言う。

これに当時横須賀基地に居た坂井三郎は、「迎撃戦闘機である雷電でF6Fと互角に渡り合える戦闘機パイロットは、後にも先にも赤松中尉のほかにはいないだろう。

このときの赤松先輩の勇姿を、私は今も忘れない。」と赤松の豪傑ぶりに舌を巻いている。

赤松は回想で、「中国戦線で私は250機撃墜したが、私より多かったものが二人いたが、みんな南方で戦死した。」と述べている。
38: 
ものっそい死に様だな
41: 
武藤 金義

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https://ja.wikipedia.org/wiki/武藤金義

撃墜数は30機。日中戦争から戦闘に参加し、1945年7月末、呉軍港空襲のため200機のアメリカ軍艦載機が来襲。
これを迎撃するため、200機の僚機とともに大村から出撃し、武藤は激戦の中で消息を絶った。

1945年2月、厚木基地上空に大量に飛来したF6F編隊の一部12機にオレンジ塗装の試作紫電単機で挑み、2機撃墜の戦果を挙げた。

この戦闘は基地からも見え、まるで一乗寺下り松の決闘を思わせることから「空の宮本武蔵」との異名を取ることとなった。

1945年の6月に坂井三郎と交換という形で当時の精鋭部隊、第三四三航空隊に異動。その後の戦闘で戦死したことから、坂井三郎は武藤が自分の身代わりになって死んだのではないかと終生気に病んでいたという。

この時の武藤は隊長である菅野直大尉の護衛を任されていて、自分の思うように戦闘できなかったために撃墜されたのではないかと坂井は語る。

また、武藤の腕前を非常に高く評価しており、自由に格闘戦をやらせたら絶対に武藤が負けることはないとも語っている。

ちなみに、アニメ「ストライクウィッチーズ」の主人公、宮藤芳佳のモデルはこの人物である。
45: 
この人らのおかげで今の日本があるかと思うと頭が下がるわ
54: 
菅野 直

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https://ja.wikipedia.org/wiki/菅野直

公認記録では25機撃墜となっているが、実際は48とも72とも言われる。

1943年、教官との空中模擬戦では、模擬戦で教官機とあわや接触という状態を何度も繰り返し、また着陸禁止区域に着陸を試みたりするなどで飛行機を何機も壊し、「菅野デストロイヤー」というあだ名がつく。

1944年には南洋戦線に進出、難攻不落と言われたB-24の垂直尾翼に乗機の主翼を引っ掛けて吹き飛ばして撃墜したり、一度に2機のB-24を撃墜するといったこともあった。
また乗機の胴体に指揮官認識マークとして黄色の帯を描いていたことから、その戦闘ぶりを見た米軍パイロット達の間では「イエローファイター」と渾名され怖れられていたという。

当初、最初の神風特攻作戦の分隊長として任命される動きがあったが、菅野は零戦のテストのため内地におり、それによってフィリピンにいた関行男大尉が分隊長に任命された。

後にこの経緯を聞いた菅野は「オレが関のところをとるんだったんだがなあ…」と寂しげに呟いたという。

ある時、目的地まで輸送機により運ばれる道中、敵の奇襲に合う。輸送機のパイロットはパニックに陥りもはやここまでと思われたが、「俺に貸せ」といい菅野が操縦桿を握り、墜落すれすれのスタント飛行により脱出。その後にルバング島に不時着し救援の到着するまでの数日間、原住民に対して島の王様のように振る舞っていたという。

1945年には 精鋭部隊である第343海軍航空隊に転属。空の要塞と言われたB29に対し、前上方より背面急降下でB-29のコクピットのみに狙いを定め、搭乗員の顔が見えるほどまでに接近し、接触寸前で交わしていくという攻撃方法を編み出す。

1945年8月1日の戦闘でP51に撃墜され、戦死したとされる。

343空時代の菅野の愛機紫電下改、A15号機
ttp://www.dotup.org/uploda/www.dotup.org2332767.bmp
55: 
永遠の0読み返したくなった
永遠の0 (講談社文庫)
62: 
↓舩坂弘が一言
75: 
>>62

舩坂 弘

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https://ja.wikipedia.org/wiki/舩坂弘

不死身の分隊長と呼ばれ、ネットではルーデル、シモヘイヘと並び3大超人として語られることが多い。

アンガウルの戦いにて擲弾筒および臼砲にて米兵を200人以上殺傷。

3日目には米軍の攻勢の前に左大腿部に裂傷を負う。米軍の銃火の中に数時間放置され、ようやく頼みの軍医がやって来るも、傷口を一目見るなり自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。

しかし、瀕死の重傷を負いながらも弘は足を包帯代わりの日章旗で縛ることで止血し夜通し這うことで洞窟陣地に帰り着き、翌日には左足を引き摺りながらも歩けるまでに回復している。

その後も瀕死クラスの傷を何度も負うも、動くことすらままならないと思われるような傷でも、不思議と翌日には回復しているのが常であった。

これについて「生まれつき傷が治りやすい体質であったことに助けられたようだ」と、その事由を述べている。

絶望的な戦況にあってなお、拳銃の3連射で3人の米兵を倒したり、米兵から鹵獲した短機関銃で3人を一度に斃し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、短機関銃を手にしていたもう1人に投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神の如く奮戦を続けていた。

しかし激戦の果てに腹部盲貫銃創の重傷を負って這うことしか出来なくなり、自決を決意し手榴弾の信管を抜くも不発。

戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、肉弾自爆を決意する。

手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、前哨陣地を突破し、4日目には米軍指揮所テント群に20メートルの地点にまで潜入していた。

この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。

また、長い間匍匐していたため、肘や足は服が擦り切れてボロボロになっており、さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、さながら幽鬼か亡霊のようであったという。

その3日に米軍の野戦病院で蘇生する。身柄を拘束されてからも、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、収容所から抜け出すことに成功。1000メートルを潜んで行って日本兵の遺体に辿りつき、弾丸入れから抜き取った小銃弾の火薬によって、米軍弾薬庫の爆破に成功している。
91: 
>>75
凄すぎだろ
225:
>>75
この人のドラマ作って欲しい
67:
本田稔
1942年に鹿屋海軍航空隊に配属され、1944年には精鋭部隊である第343海軍航空隊に配属され、紫電改を操り本土防空戦で活躍し、終戦まで生き抜く。

1942年9月に盲腸の手術を行い、抜糸が終わったばかりにもかかわらず空の要塞と呼ばれたB17を迎撃し撃墜するが、空戦のGで傷口が破れて腸が飛び出たという逸話をもつ。

公式記録では17機を撃墜しているが、本人の記憶によれば数えるのをやめてから40~50機の敵機に銃弾を命中させているという。

本田氏の証言
ttp://www.youtube.com/watch?v=Dn-KwtHFA_k


74: 
どんなに強くてもやっぱり最後は撃墜されちゃうんだな
もっと強い奴がいるってこと?
97: 
>>74
まず米軍パイロットは一度出撃して帰ったらしばらく休暇を与えられる。それに対し日本は毎日体を酷使して、疲労がたまる。
アメリカ軍機は日本軍機と桁違いの性能を誇り、数の多さでも圧倒。ドイツ軍も日本と同じでパイロットは連日連戦してるから、
撃墜数100機越えとかザラ。アメリカ軍はトップで40機くらいじゃなかったかな、たしか。
あとドイツ軍はパラシュートで脱出してまた戦線戻ることがあるけど、日本軍はあえてパラシュートを装備しなかった。
129: 
>>74
個人的には技術・戦闘力が強く、無名かもしれないがエースを食うエースも居たと思う。
エンジンパワーと円運動の関係を理解しているだけで、視界から消えてしまえる世界。

中には数に押されて死ぬパイロットも居たが、坂井さんや赤松さんレベルなら
少々機体にダメージ受けても帰って来れる(対空砲で胴体燃料タンクに穴空いたりしたら辛いが)。
陸軍でも四式戦闘機の左翼切断して帰還したパイロットもいる。
また海軍の西澤氏など輸送中に乗客として戦死されたパイロットも居られる。これは技術関係ないな。
101: 
>>97
なんで装備しなかったの?
103: 
>>101
背水の陣
116: 
>>103
なるほど
109: 
皆さん支援ありがとうございます。 番外編で、ドイツのルーデル

ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

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https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

もはや定番の超人としておなじみのルーデル。

出撃回数2530回 被撃墜回数30回 戦闘による負傷5回。

朝起きて牛乳のんで出撃して朝メシ食って牛乳のんで体操して出撃して昼メシ食って牛乳のんで出撃して晩メシ食って牛乳のんで出撃してシャワー浴びて出撃して寝るという毎日を送ってたら、何時の間にか戦車519両を撃破し、世界最強の戦車撃破王になっていた。

戦果は戦車519輌 、装甲車・トラック800台以上、その他にも装甲列車や戦艦、駆逐撃沈など。

敵の対空砲で片足が吹っ飛んだ時に同乗する相棒に「足が無くなってしまった」というと「足が吹っ飛んだら話なんかしてられますか。そんな事より左翼が燃えています。不時着しましょう」と言われる。その後も義足をつけ再び戦線へと戻る。
117: 
>>109
足が飛んで笑ってるとか尋常じゃねえwww
127: 
>>109
脚が無くなったことがそんなこと呼ばわりw
113: 
牛乳すげー飲まなきゃ
132: 
ルーデルは何度読んでも化け物だよなぁ
愛機が重い・丈夫・遅いの三拍子の鈍重機体だったなんて未だに信じられん
というか彼が貰った最高位の十字勲章をもらえる人物はこの先一人でも現れるんだろうか
169: 
>>132
バ火力で高耐久かつ長時間飛行可能が相変わらず強いよな
さらに閣下は回避率おかしいからこうなった
191: 
>>132
太平洋なら即死しただろうな。
ルーデルの飛行路は曲がりなりにも制空権があったんじゃないかな。
戦闘機隊にしろ特攻隊にしろ、制空権はおろか敵艦隊のCAPに突撃する飛行になる
130: 
檜 與平
撃墜数は12機。

戦隊長・加藤建夫中佐の下、加藤隼戦闘隊として有名な帝国陸軍飛行第64戦隊の隊員を務めた経歴を持ち、敵戦闘機との空戦によって右脚を切断されるが、義足を付けて戦列に復帰した「義足のエース」として知られる。

1943年11月、米陸軍機の新鋭機P-51から奇襲攻撃を受け瀕死のダメージを負うが、無事に帰還。

しかし負傷により右足下腿部切断の手術を受け、療養のために日本内地に帰国。陸軍病院にてジュラルミン製の義足を履く。

空中勤務者には不可欠の足を失っているため一時は復帰の道を絶たれるが、檜自身の強い意思と文字通り血の滲む懸命なリハビリによって空へと戻ることを認められる。

1945年7月、伊勢湾上空で再びP-51と空戦しこれを撃墜、右足の借りを返すという逸話を持つ。

檜氏による戦後の証言動画
ttp://www.youtube.com/watch?v=0yHlloZoUeM

134: 
関さんとかも出てくるのかな
142:
>>134
関 行男

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https://ja.wikipedia.org/wiki/関行男

最初の神風特攻隊の指揮官に任命される。
指揮官になる話を持ちかけられたとき、関はしばらく間を置いた後、「ぜひ、私にやらせて下さい」と承諾した。

関大尉の遺書
「西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけし、不孝の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。
武人の本懐此れにすぐることはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、その御恩に報いる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日、帝国の為、身を以って母艦に体当たりを行い、君恩に報ずる覚悟です。
皆様御体大切に。父上様、母上様。」


関は出撃前、報道員にこう話をしている。
「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番を命中させる自信がある。ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKAのために行くんだ。
命令とあらばやむをえまい。日本が敗けたら、KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。
どうだすばらしいだろう」50番とは500キロ爆弾であり、KAとは海軍の隠語で妻を指す。
この発言の前半部分は、元は艦上爆撃機搭乗員としてのプライドから出た不満と解釈され、後半は妻や母のことを想起した発言とし、承諾の言葉である「ぜひ、私にやらせて下さい」は、「自らの内奥に相剋する想念の全てを一瞬のうちに止揚して」発した発言と解釈する者もいる。

1944年10月25日、関率いる敷島隊6機は、フィリピンのマバラカット西飛行場を発進。
突入に成功、米護衛空母「セント・ロー」を撃沈、他にも数2隻の護衛空母にも損害を与え大戦果を挙げた。

関大尉はセント・ローに突入したとされるが、カリニン・ベイに突入したとする説もある。写真は特攻機の突入により大爆発を起こすセント・ロー
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関大尉はその後軍神として崇められるが、戦後に国民の特攻隊員に対する意識は一転。国賊として批判され、関大尉の母は石を投げつけられたという。

その後の昭和28年秋、母は病によりこの世を去った。「せめて行男の墓を…」との遺言によって、翌年10月25日の命日にようやく関大尉の墓碑がつくられた。
147: 
>>142
おお、ありがとう。
なぜ一転して国賊とされたのかがわからない。
結局上の命令なのにね。
214: 
>>142
泣いた
151: 
>>142
一日悩みに悩んでの決断じゃなかったっけか
194: 
皆さん詳しくて頭が下がります・・・

>>151
そうでしたか・・・うーん申し訳ない。
ほんと申し訳ない、関大尉に関してはウィキ情報が多くて。
139: 
原田 要

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https://ja.wikipedia.org/wiki/原田要

撃墜数は9機。初陣を支那事変でむかえ、1941年9月に空母蒼龍の乗組員となり真珠湾攻撃作戦では機動部隊上空直衛任務に就いた。

歴史的大敗北を期したミッドウェー海戦では5機の敵機を撃墜するが着艦する空母がなく海上に不時着、4時間漂流した後に駆逐艦に救助される。

駆逐艦の甲板には手足が無かったり全身火傷を負った重傷兵が大勢おり、自分は何ともないからその負傷兵達を何とかしてやってくれと軍医官に言うと、「こういう人は手をかける人手もないしかけてもどっちみちダメなんだから、君のように手をかければ飛べる人間を先に治療するんだ」と言われ、我々は人間ではなく、銃のように修理すれば弾を撃てる機械から直して、銃身が折れ曲がって弾の出ないものは捨ててしまう。自分達は兵器の一部であり、これが戦争なんだと感じたという。

1942年10月、激戦地ガダルカナル島にてアメリカ軍のF4F戦闘機と対峙。敵機に白煙を噴かせるも自らも左腕に被弾を受ける。重傷を負い眼下の椰子林に不時着し数日間ジャングルを彷徨うが、無事に海軍基地に辿り着く。同基地にて懸命の治療を受けるものの傷は悪化し、マラリア、デング熱も併発し生死の境をさまよった。

舟艇に乗せられガダルカナル島を脱出し、約1週間後にトラック島の第四海軍病院で意識を取り戻した。

内地送還後は教官を務める。
146: 
ためになるスレだなぁ
152: 
命をかけて国を守れるってすごいよな
160: 
上原 良司
1942年慶應義塾大学経済学部入学。翌年、学生徴兵猶予停止により陸軍に入隊。
神風特別攻撃隊員として1945年5月11日に沖縄の米軍機動部隊に突入し戦死。享年22歳。

「所感」という題名の遺書を残しており、戦没学生の代表格とされ度々取り上げられている。

遺書の一部で、原田氏と同じように「パイロットは機械に過ぎぬ」と表現されている。
特攻隊のパイロットのみを指していることであり若干のニュアンスの違いはあるが、以下の内容である。

「空の特攻隊のパイロットは一器械に過ぎぬと一友人がいった事も確かです。 操縦桿をとる器械、人格もなく感情もなくもちろん理性もなく、ただ敵の空母艦に向かって吸いつく磁石の中の鉄の一分子に過ぎぬものです。
理性をもって考えたなら実に考えられぬ事で、強いて考うれば彼らがいうごとく自殺者とでもいいましょうか。 精神の国、日本においてのみ見られる事だと思います。 一器械である吾人は何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめられん事を 国民の方々にお願いするのみです。」

神風特別攻撃隊とは戦争末期に日本が編成した決死隊の通称であり、爆弾を積んだ飛行機で敵艦船に突っ込み、損害を与えることを目的とした部隊である。終戦までに数多くの若い隊員達が、国のため家族のため、海へと消えていった。

有名な出撃前の特攻隊員の写真。中央の犬を抱く荒木幸雄伍長はこの時17歳であった。
1

女学生に見送られる特攻機
2

鉢巻を締める特攻隊員
3

特攻機の突入をうけて炎上する米空母、バンカー・ヒル
4
この時、特攻機パイロットの持ち物の一部が奇跡的に燃えず残っており、最近になって遺品として遺族の元へ返還されている。



(2)に続く