薬の副作用で入院、しかし――

ところが、である。

12月初旬に入院をして、ケイジさんは、年末にはかなり回復してきたように見えた。会話も普通、身の回りのこともきちんとできる。差し入れた本も読んでいる――。そろそろ退院できるかもしれないと家族が考えていた翌年の1月4日のことだ。

両親が病院に見舞いにいくと、ケイジさんは肢体拘束をされ、目の焦点も合わず、うつろな表情で、天井の一点を見つめているだけだった。会話もできない状態である。

病院に理由を聞くと、暴れて、壁に穴をあけた。自殺をしようとしたので、拘束したとのこと。そして、壊れた壁の修理代金として30万円支払うように要求された。

病院側の説明も釈然としないまま、家族は目の前のケイジさんの変わりようにおろおろするばかり。結局、言われるがまま、修理代を支払った。そして、「また自殺しようとするのを防ぐために拘束は必要だ」と言われれば、黙って従うしかなかった。

後でわかったことだが、この拘束のとき、ケイジさんに投与されていた薬は以下の通りである。

プロピタン 抗精神病薬

メレリル 抗精神病薬

ヒルナミン 抗精神病薬

ジプレキサ 抗精神病薬 

ベゲタミンB 睡眠薬

セロクエル 抗精神病薬 

ウィンタミン 抗精神病薬

レボトミン 抗精神病薬

ルーラン 抗精神病薬 

グラマリール 抗パ剤

セルシン ベンゾ系抗不安薬

ベンザリン ベンゾ系睡眠薬

ユーロジン ベンゾ系睡眠薬

ダルメート ベンゾ睡眠薬

レンドルミン ベンゾ系抗不安薬 

アキネトン 抗パ剤

セドリーナ 抗パ剤


 

こうした薬を入院中の5ヶ月間(拘束は約3週間続いた)とっかえひっかえ、抗精神病薬は常に2~3種類は投与され続けたのだ。

不安になった両親が医師に減薬を願い出ても、医師からは、「これが普通だ。嫌なら出て行ってください」と言われるだけだった。

そもそもケイジさんには薬剤過敏があった。最初のリスパダール数ミリで、すでに首が前にうなだれる「ジストニア」の症状が出ていたのである。医師はそれを完全に見逃して、薬の中止より、「水で排毒すればいい」などと適当な対応で服薬を続けさせた。そして入院中、実際ケイジさんがどのような行為を行ったのか不明だが、病院側の説明によれば「暴力」と「自害行為」ということで、これだけの薬を、からだを縛り付けたまま投与し続けたのだ。

拘束は3週間続き、その頃には、ケイジさんの首は完全に曲がってしまっていた。

2月中ごろ、医師に「首が曲がってしまったが、薬のせいでしょうか」と家族が問うと、医師は「そうですね」と答えたという。(しかし、その後、医師は、薬の影響を否定する見解を述べ、さらにその後、家族が「医薬品副作用救済制度」を申告した際、医師としての意見欄には、「薬剤性パーキンソニズム」として、認めることになった。結局、救済制度は認められなかったのだが)。


ジストニアの治療

その後、ケイジさんは、ジストニアの治療のため、5月に千葉大医学部附属病院(整形外科)へ転院した。市原鶴岡病院を退院するときには、ジストニアは、顎が胸につくほどになり、歩くのもかなりゆっくりしたペース。表情もさえなかった。

 千葉大病院のジストニア治療では、ボトックス注射、そして、抗パ剤のアーテン(3錠)が処方された。

 しかし、状態は芳しくない。

ケイジさんは突然バックで歩きだしたり、体がこちこちになったようなロボット歩きになってしまったり。結局、歩行不全、トイレに間に合わない(失禁)、見識障害、話にまとまりがない……そんな状態に陥った。医師の見解は「統合失調症と判断するが、薬に敏感なため現在は適切な治療薬がない」とのことで、ケイジさんは11月、退院となった。

自宅療養を続けるなかで、「アーテンがいけないのではないか」と考えた家族が、自己判断でアーテンを断薬した。すると、徐々に、こちこちだった体の柔軟性が回復し、食事も一人でとれるようになり、見識障害も少なくなっていったのだ。

アーテン=抗パーキンソン病薬――抗精神病薬の副作用(錐体外路症状等)止めとしてセットのように、気軽に処方されるが、じつは、重い副作用がある薬である。たとえばアーテンの添付文書には、副作用として以下のものが挙げられている。悪性症候群、精神錯乱、幻覚、せん妄。さらに、興奮、神経過敏、気分高揚、多幸症、見当識障害、眠気、運動失調、眩暈、頭痛、倦怠感など、抗精神病薬に勝るとも劣らない。

ケイジさんもアーテンを中止したことで、いくつかの症状は消えた。しかし、ジストニアの状態は相変わらずである。ケイジさんはときどき、「こんな首になって、もう僕は結婚もできなくないんだね。死んでしまいたい」そんなことを漏らすようになったという。


安定、そして状態悪化で電気ショック治療

 精神科へは、同じ千葉大病院精神科に通院が続いた。

 そこではセロクエルが処方されたが、少量処方(1錠)で、体調・精神状態は安定してきた。父親と定期的に散歩をし、休日には一緒に買い物にも出かけ、ケイジさんはCDを買ったりした。父親から見ても「首が元にもどれば、普通の青年」だった。

しかし、外を歩けば人が振り返り、あからさまな視線にさらされることもあった。それでも、ケイジさんは、首にカラーを装着するジストニア改善策には頑として応じようとしなかった。そして、この年の年末、ケイジさんは友人に年賀状を出した。

そうしたケイジさんの様子を知った医師は、「統合失調症ではないかもしれない」と言ったという。

 医師のその言葉があったからか、その後、ケイジさんは薬を飲むのを嫌がるようになった。通院も拒否したため、父親が病院に足を運び、経過報告をしていた。

結局、セロクエルを断薬。そして、3年間ほど、薬ゼロの時期があったが、少しずつ少しずつ状態が崩れてきて、徘徊、失禁、住んでいる社宅の管理室に入り浸る、そして暴力が出てくるようになってしまった。

 2005年、千葉大病院に再入院。ここでもまた拘束が行われ、点滴での薬の投与が始まった。

しかし、一向に改善しない、それどころか、暴力が治まらない……。医師が提案したのは、「電気ショック療法」である。「おとなしくなるから」というのが理由だった。

 仕方なく承諾した。

 2005年10月17日、第1回目の電気ショック治療。その後、数日おきに実施され、6回、1クールを終了した。

 その頃のことをお父さんが日記に付けていたので、引用する。

「(医師の見解として)返答の中には意味不明も散見されるが、以前と比較して会話がスムース。また、幻聴が少なくなったと本人が言っている。電気治療の効果は認められる。今後、拘束を解く予定である。明日、今後の治療について打ち合わせ」

 ということで、担当医は電気ショック治療の継続を勧めてきた。結局、11月21日に電気ショック治療の2クール目が開始され、6回で、第2クールが終了。

「担当医より電話にて、会話が以前より積極的になり、効果が認められるので、さらに電気ショック治療をお勧めしますとのこと。」

 医師の強い勧めで、ケイジさンはその後、追加で一度だけ電気ショック治療を受けたが、家族からみて改善がほとんど見られないため、2回目以降、中断をお願いした。

 そのとき、母親が拘束が長期にわたっているので改善を要求したが――、

「ケイジさんの現状では、看護師への予測不可能な暴力行為が考えられ、また看護師不足により拘束帯を使用しなければならない」という説明があった。

 その後、千葉大病院でも、ケイジさんを持てあますようになった。手におえない、面倒見きれない……。ケイジさんは退院となり、薬の処方も行われなかった。

 お姉さんが言う。

「結果的に、どんどんおかしくなりました。36時間、このテーブルの椅子に座り続けていたり、話もほとんど通じなくなっていました」

何を言っているのかわからない、認知機能も落ちてしまった。ついには、自力での排泄も困難になった。

 そして、2011年3月11日の東日本大震災が起き、そのことでケイジさんの状態はさらに悪化した。攻撃性が増し、家の中で暴れることもしばしばだった。

 実際、家にお邪魔したとき、目に入ったのは、そうした暴行の痕である。冷蔵庫の扉は歪み、食器棚の脇の板には殴った拳の痕がいくつも残っていた。

 そして、ケイジさんの攻撃性はついに父親に及んだ。顔の骨が陥没するほどのケガだった。結局、警察に相談をして、ケイジさんは措置入院となった。警察がやってきて、病院へ連れて行く際の、ケイジさんの抵抗はものすごかったという。精神科病院でのこれまでの経験から、入院に対する恐怖心があったのか、それとも、その後自分に起きる運命がわかっていたのか……。


統語失調症ではなく広汎性発達障害

 石郷岡病院には2011年9月15日に入院となった。最初は保護室で、次に閉鎖病棟の4人部屋、そしてまた保護室へと移動させられ、その間ケイジさんはほとんど拘束された状態だった。

 飲まされていた薬は、ベンザリン(ベンゾ系睡眠薬)、バレリン(気分安定薬)、セルシン(ベンゾ系抗不安薬)、ピコスルファート(下剤)である。

これまでどこの病院で相談をしても統合失調症だと決めつけられてきたが、じつは、この石郷岡病院の担当医だけは、入院前もケイジさんの家族の話を熱心に聞いてくれて、ケイジさんを「統合失調症ではなく、広汎性発達障害」と診断見直しをしてくれた医師だった。さらに「統合失調症ではないのに統合失調症の薬を投与されると統合失調症のような症状が出る」と認めてもいた。

しかし、職員による暴行が、翌年の1月1日に起きてしまった。

頸椎骨折、そして病院側の不誠実な対応……。

 さらにケイジさんが不幸だったのは、搬送された帝京大学附属ちば総合医療センターで頸椎骨折の治療のあと、療養のために入院した病院の対応のひどさである。

 そこではケイジさんの精神的な状態は回復傾向にあった。会話も成立していたし、新聞記事などを読み、その内容も理解し、記憶していて、父親とそれらを話題にすることもあった。

 しかし、病院の「介護」の仕方は、たとえば、誤嚥性肺炎が心配だからと、誤嚥性肺炎になったこともないのに勝手に「胃ろう」にしてしまう。さらに、食事の貧しさ。1日の摂取カロリーが900~1200キロカロリー(前の帝京大学付属ちば総合医療センターでは若いからということで、倍の2400キロカロリー以上だった)。

 結果、ケイジさんはどんどん痩せていった。入院していた2年間で、体重は15キロ減少。身長180センチ弱なのに、体重は33キロほどになってしまった。

 死亡原因として、最初にお姉さんが医師から口頭で伝えられたのは「低栄養」である。つまり栄養失調。療養型病院の対応のひどさもまた、かなりの問題を含んでいる。

 お姉さんが「弟は3度殺された」とブログで表現しているが、まさにそのとおりだ。1度目は、抗精神病薬の多剤大量処方によって。2度目は、石郷岡病院での傷害事件。そして3度目は、この病院で栄養失調にさせられたこと……。

 なんという「医療」なのかと思う。