今年の4月、あるお母さんからメッセージをいただいた。その日はちょうど仙台で茶話会のある日だった。私は仙台駅近くのバスターミナルでバスを待ちながら、メッセージを読み始めた。

 そこには、今年の1月27日、22歳の息子さんが自死したこと、さらに死においやってしまった母親としての懺悔の気持ちが綴られていた。

 大森俊夫さん(仮名)が飲んでいたという向精神薬の名前も書いてあった。お薬手帳から写し取ったその薬名の羅列の長さに、私は暗澹たる気持ちになった。こんなに多くの種類の薬を、「合法的に」医師が患者に出していた……その事実が何とも重たかった。

 以下は、お母さんの許可を得て、俊夫さんが死に至るまでの経過を、お母さんからのメールを交えながら紹介させていただきます。

 

「はじめまして。

私は今年127日に、大学生の22歳だった最愛の息子を自死で亡くしたばかりの母親です。自死とはいえ、最期は電話で、退院したばかりの息子をひどく叱りつけ、そのせいで、息子はそのまま死へと旅立ってしまいました。

あの日から私の心は死んでしまいました。自責の念で後追いし、息子に謝りたい、こんな鬼畜のような私は生きていてはいけない。そんな気持ちを持ちながらも、息子が誰よりも愛した18歳年下の、現在4歳の娘を置いていくことも出来ず、ただただ泣きながら生きている状態です。」

 

お母さんの大森典子(仮名)さんは俊夫さんの父親と俊夫さんが6歳の頃離婚、その後、再婚をして一人娘をもうけている。父親違いだったが、俊夫さんは妹をとてもかわいがっていたそうだ。

また、典子さんが「退院したばかりの息子を叱りつけ……」と書いているのは、その頃、俊夫さんは多くのカード会社で借金を重ね、その日もカード会社から督促状が届いていたため、電話で息子を叱ってしまった……。俊夫さんの自死はその直後のことだった。

 

4年前、対人恐怖で

2012年の秋。俊夫さんが初めて精神科とかかわりを持ったのは、大学1年の後期が始まった直後のことだ。本人の残した記録の中に「大学で人に利用されたり、バカにされている」といったような文章が残されていた。本当にそうだったのか、あるいは被害妄想的なものだったのか、今となってはわからない。

ともかくそのことで俊夫さんはある個人病院の精神科を受診し、対人恐怖症ということで、ジプレキサを23週間分処方された。

対人恐怖症という診断で抗精神病薬のジプレキサを処方するというのは(しかも初診で)、首を傾げざるを得ないが、ともかくそれで症状はいったんは治まった。

 

統合失調症?

それから2年後の2014 6月頃、再び対人関係のもつれから不安感、不眠が続く。

今度は別のクリニックを受診。すると「統合失調症だろう」との診断を受けた。この際投薬があったかは不明のまま。つまり、この間のことは、俊夫さんが家を出て下宿をしていたため、母親の典子さんはまったく知らなかったことである。

 

2014年 大学3年の後期が始まってすぐの1010日、みたび人間関係のトラブルから「大学に行きたくない、行けない」と今度は典子さんに電話があった。

そして、その日のうちに俊夫さんはまた別の精神科を自分で探してきて受診した。そこで本格的に「統合失調症」と診断され、リスパダールとプロチゾラム(睡眠薬レンドルミンのジェネリック)が処方されている(28日分)。が、典子さんはこのときもまだ俊夫さんが精神科を受診したことは知らなかった。

典子さんは、そのまましばらく大学を休むよう俊夫さんに伝えた。そのとき俊夫さんは学校を休むことには同意したが、「やることもあるから下宿で生活する」と実家には戻ってこなかったという。

記録によると、10日に上記の薬が28日分、処方されているにもかかわらず、7日後にはインヴェガ(抗精神病薬)の追加投与があり、その4日後にはさらに、ジェイゾロフト(SSRI)、ランドセン(ベンゾ系抗てんかん薬)が追加で処方されている。

これはどういうことなのだろう? 次の予約日より前に受診し、俊夫さんが更なる薬を出してくれるように医師に伝えたのだろうか? 詳細はわからないが、ともかく、記録ではそうなっている。

ここで少し気になるのは、医師はまだ20歳そこそこの患者本人に「統合失調症」という病名を告げたことだ。そのときの俊夫さんの思いを確かめることはもうできないが、ショックを受けなかったはずがない。そして、国立大学の理学部に在籍し、将来は薬学部に入り直して抗がん剤を作りたいと考えていた青年にとって、「病名」と「薬」はある意味研究対象になったのかもしれない。そして、統合失調症を治すにはどうすればいいか、必死に薬について調べたはずである。症状もいろいろ出ていたかもしれない。それを医師に告げて、こういう薬を出してくれと……その結果のインヴェガ等の追加処方だったのではないだろうか。

しかし、そもそも俊夫さんは本当に「統合失調症」だったのか? その疑問も残る。

 

パニック発作を起こす

 このような薬を飲み続けて1カ月後の1119日。俊夫さんは夜中パニック発作を起こし、精神科医療センターに夜中救急搬送されている。

典子さんはこのときになって初めて息子が精神科と関わりを持っていたことを知ったのだ。典子さんのメールを紹介する。

 

「(救急搬送の)翌日、迎えに行ったときの息子は、1カ月前に会った息子とはまったく別人のようになっていました。(人間関係の問題を抱え)大学に行けないと電話のあった数日前には、夏休みを利用して友だちと1ヶ月も北海道などを旅行していて、お土産を沢山持って、それは楽しそうに、元気に実家に戻って来ていたのです。そのときの息子とは似ても似つかぬ姿……施錠された閉鎖病棟の分厚いガラス越しに見た息子は、無精ひげでどす黒い顔をして、視線はどこを見ているかわからず、私と娘を見ても表情をまったく変えず、ずっとうつろのままでした。

その時生まれて初めて精神科、しかも閉鎖病棟という場所に足を踏み入れた私は、正直とても怖かった。(地元の)国立大学の理学部に現役で入った、幼いころから頭のいい、勉強が大好きな息子です。

医師は、「すぐに入院です」と言い、早々に家族会の会費の徴収についてなど説明されましたが、私は狂わんばかりに泣き叫び、息子はそんな病気じゃありませんから! ただ大学で勉強し過ぎて疲れてるだけですから! 家でこの小さな妹や家族とゆっくり過ごしていれば治りますから! 

片手にうつろな息子の手を握り、片手でまだ幼かった娘を乗せたベビーカーを引き、こんなところにいたら息子が殺される! そう感じて、急いで山奥のその病院から逃げるように息子を連れて帰りました。

そこから休学、自宅療養に入りましたが、家に戻った息子はやはり元の息子ではありませんでした。

ただただ眠り続け、夜中に起きるとネットでみつけた病気仲間と時間もかまわずしゃべり続ける。と同時に、たびたびいのちの電話相談だったかと思いますが、そういった類の電話をかけまくり、部屋から聞こえる声は、「死にたいです」……私は部屋のドア越しにいつも泣いていました。」

 

パキシル追加

俊夫さんは地元のS第一病院に通院し、リスパダールとプロチゾラム、インヴェガ、ジェイゾロフト、ランドセン、さらにこの頃、処方にパキシルが追加されるようになった。

125日の受診日にパキシル10mg14日分出しておきながら、1週間後の1212日には、さらにパキシル20mgが追加投与されている。

この直後から俊夫さんは何度も夜中にオーバードーズをし、病院に運ばれるようになった。

 

「それでも 病院から連れて帰り、薬が抜けると子供のように私に抱きつき、泣きながら、母さん、俺死にたくないよ……死ぬのが怖いよ……。誰かが死ね死ねって言ってる気がする。

そう言って泣いていた息子。

私はただただ、誰も俊夫が死んでほしいなんて思ってないよ! 生きて生きてってみんな願ってるよ!! 絶対死んじゃだめ! 母さんが絶対守るって言ってるでしょ? どんなにひどくなっても母さんだけは絶対俊夫の味方だからね。

私は胸が張り裂けそうになりながら、息子より泣いてはいけないと、必死に嗚咽をこらえ、

息子の背中をさすり続けました。」

 

典子さんの中には自分の再婚で俊夫さんが苦しんでいるのではという思いもあった。いつもはお母さんがいいならいいよ、お母さんが幸せならそれでいい、と言っていた俊夫さんだが、薬でボロボロの状態のとき、自分勝手だと母親に思いのたけを爆発させたこともあった。

ともかく、この頃は生活を共にしながらも俊夫さんは抑うつがひどく、ほとんど笑わなくなっていた。

そんな状態ではあったが、ある日のこと不意に、友だちとの旅行を計画し、その資金稼ぎのため下宿に戻ってバイトをしたいと言い出した。典子さんは心配し、反対したのだが、「大丈夫、リハビリがわりにやる。体を動かしておかないと、4月から大学戻れん」そう言って、下宿に一人戻っていったという。

心配だったが、それでも何とかバイトもちゃんとできたようで、計画していた友だちとの旅行も楽しんで行ってきたようだった。

 

しかし、この後すぐにまた夜中にパニック発作を起こし、救急搬送。そのまま1週間入院をし、典子さんは再び俊夫さんを実家に連れて帰った。

だが、3月になると「大学復学前の準備もあるから」とまた下宿に戻り、バイトも何度かしていたようだった。

しかし、バイトの面接で落とされることが重なった。イライラが募って、結局精神状態もどんどん悪くなっていき、大学の先生と典子さんと俊夫さんで面談をした結果、やはり今の時点で復学は無理、あと半年休学することになった。

 

「きっと息子は本当は大学に戻るのが怖かったのだと思います。休学が決まると安心したように、その後すぐに関西にいる幼い頃別れた父親に会いに行きました。その後、息子の父親からは電話で、聞いてたより元気そうだったと連絡を受け、それで私は安心してしまったのです。そのまま実家に帰らず、また下宿に戻って勉強したり、バイトしたりしたいというので、許してしまいました。」

 

下宿での暮らし

この下宿に帰した頃から、処方薬、向精神薬の依存症が悪化していったのだと思うと典子さんは書いている。昨年の3月には病院も、自分の通う国立大学の附属病院に転院しているが、薬は以前の病院のものを引き継いだのか、当時のお薬手帳が見つかっていないのではっきりしたことはわからないが、以下のような薬の記録が俊夫さんが愛用していたiPad内に写真として残されていた。

326日の処方(S大学病院)

インヴェガ

イリボー

リズミック

パキシル

ピレチア

アモキサンカプセル

デパケン

ソラナックス

ベンザリン

サイレース

アレロック

ランドセン

ジプレキサ

ハルシオン

アキネトン

 

はじめて精神科を受診した10月10日から、半年足らずで、この処方である。おそらく薬について調べつくした俊夫さんが、自分の症状に効くと思われる薬を医師にリクエストし、医師はその要望のまま処方していったのではないかと思われる。

早く病気を治したい、こんな症状にはこの薬が効く……。薬学部に行きたいという希望を持つほど薬には興味があり、部屋にはたくさんの薬に関する本が残されていたが、そうした本をおそらくむさぼるように読んだのだろう。しかし、これだけの量を飲めば、当然のことながら、精神状態は悪化の一途をたどった。