減薬スピードが速すぎる

 その頃の減薬の仕方を書いた手書きのメモが俊夫さんのiPadに写真として残っていた。それによると、

 12月5日 ジプレキサ 7.5㎎

 12月12日 ジプレキサ 5.0㎎

 12月19日 ジプレキサ  2.5㎎

 12月26日 ジプレキサ 中止

 1月2日 エビリファイ 12㎎

 1月9日 エビリファイ 中止

 

 減薬前はジプレキサは20㎎飲んでいた。それを10月から入院し、12月までの2ヶ月で12.5㎎減薬し、残り7.5㎎となっていた。それを1週間で2.5㎎ずつ減らしていき、1ヶ月足らずで断薬している。

エビリファイに関しても、18㎎飲んでいたものを、入院の2ヶ月間で6㎎減薬し、残りの12㎎をなんと1週間でゼロにもっていってしまっている。

これは退院を3ヶ月後(1月)と決めた俊夫さんが、それに合わせて減薬を急いだためだろう。M病院の医師も俊夫さんの言いなりに、減薬のペースについて意見することはなかったようだ。

ジプレキサをトントンとやめてしまい、エビリファイはほとんど一気断薬のようなもの。CP換算値2675㎎だったが、この時点で925㎎にまで減っている。これだけのペースで減断薬をしてしまっては、その後、どれだけの影響が心身に出てきたか……。

薬は増やすときよりも減らすときの方がよほど怖いはずなのに、医師は知らなかったのだろうか……。

俊夫さんは自身で予定した通り、入院3ヶ月、今年の1月9日に退院をした。

 すでに12月半ばに退院することは決まっていたが、その頃から急な減薬をした影響だろう、典子さんの目には調子がだんだん悪くなっているように見えた。それでも医師は退院を許可し、退院後、俊夫さんは自宅で寝てばかりの生活となった。

 

状態悪化

「やっていることも言っていることもまとまりがなくなりました。私の言ったことを聞いてないこともたびたびでした。何かにイラついている感じもあって、下半身の貧乏ゆすりも尋常ではありませんでした。Twitterにも後で見たのですが、「つれー、つれー。原因はわかってるんだけどな。ベゲ(ベゲタミン)ほしいけど、医者が出してくれんしなー。」そんな書き込みがありました。

入院してから良くなってきたのが自分でわかった頃には、母さん、やっぱり薬は怖い。もう絶対増やさんよ。そう言ったことがありました。

自ら望んで早く減薬したのに、あまりの辛さにベゲタミンを欲しがる……。私には一切言わなかったし、見せまいとしていましたが、きっとひどい離脱症状に一人苦しんでいたと思います。

それと、薬が抜けてきて、借金のことも思い出したり、携帯にも何度も督促のメールや電話が入っていたと思います。でも息子は自宅でどんなに携帯が鳴り続けても、とることはありませんでした。後で思うと怖くて怖くてたまらなかったのだと思います。

でも、当時私は息子がカードローンをしているとはまったく知らず、10万円単位の請求がくるたびに、これ何? 何に使ったの? いくら聞いても息子はいつも初めは知らない、覚えがないといい、そして最後はゲームで使ったと白状していました。

薬が切れて、そうした現実が見え、期限が迫り、私にも誰にも相談できず、一人おびえていたのだと思います。

それなのに、元々ネットの課金ゲームにも没頭していて、クリスマスと年末年始の外泊時には詰所に預けていた小遣いと正月のお年玉を全部その日のうちにコンビニで課金し、ゲームにまた没頭していたようでした。

その楽しさを退院後また思い出したと思います。退院後、毎日のデイに行くときの交通費やお昼ジュース代以外渡していなかったので、お金をどう工面しようか悩んでいたのではないか。髪を染めたいとか、参考書を買いたいとか言ってきましたが、それでも入院費かかってるし、今はお金ないよと私に言われ、イライラしていたと思います。

後でわかったことですが、彼女と付き合い出してからの2か月間の息子の携帯代金が9万円も。亡くなった後請求がきました。

息子は彼女と病院外でよくデートをしていたようです。毎回いいとこ見せたくて高いレストランでおごってあげたり、何度もプレゼントをもらったと、交通事故死だと彼女にはのちに告げましたが、そう教えてくれました。

俺が全部出すからって、いつも私の財布をしまえって、自分に一切貯金も収入もないのに、息子は人生で初めてできた彼女にいいとこを見せたかったのです。男らしいところを見せたかったのです。このことを知って、あまりにも不器用過ぎた、優しすぎた、愛おしすぎる息子がかわいそうでなりませんでした。

亡くなる数日前からは、仲良しだった妹とも一切遊ばなくなり、晩ご飯も誰ともしゃべらず、ただ味噌汁でごはんを流し込むだけ。

あの朝も明らかにおかしかったのです。起こしても起こしてもあの日に限ってなかなか起きてきませんでした。大学に入院保険の請求に行くので、私が車で送った時もまったくしゃべらず、うなだれているようでした。

そして一緒に乗っていた母が何度も言います。あの日に限って俊夫が今まで一度もしたことないのに、振り返りもせずに車から降りて、後ろ手に3回、バイバイってしたんだよって。ばあちゃん、あの姿見た時に、なんかものすごいイヤな予感して、俊夫がもうこのまま帰って来ない気がしたら、本当に帰ってこなかったと……。

あの前日は一日遅れた通院日でした。通院日が大雪で仕方なく一日ずらしました。だからかその通院予定日は薬がなくてしんどかったのか、一日中ベッドに入っていました。

そして翌朝病院で薬をもらってきていたのに、亡くなる前日のその通院日の晩のお薬はなぜか袋ごと机の上に残されていたことに、亡くなった数日後に気づきました。

合計2日間、夜のお薬を飲んでいなかったのです。そのことも関係したのかはわかりません。

たまたま翌日までに13万円払わないと法的措置をとると金融会社からの督促状に驚いた私が、出先の息子に電話をかけ、咎めてしまったばかりに……。

息子はやはり、知らない知らない、と言いました。

知らないわけないでしょう! 何回こんなのが来てるの? もういくら母さん払ってきたと思ってるの? まだ他にも隠してるんじゃないの?

そう聞くと、他にも30万円くらい借りているとこがわかりました。

私はその金額にびっくりし、

あなた学生でしょう! 支払い能力もないのになんでこんなことしてるの!

 ごめんなさい……。入院保険が入ったらそれで返すから……。

保険はそんな遊びの補てんに使うもんじゃないでしょう! それに今までそんなお金じゃ足りないくらい、ゲームだ、遊びだって、母さん既に100万円以上どぶに捨ててきたようなもんなのよ! どんだけ母さん苦しめたら気が済むの? 頭おかしいよ!

興奮しすぎて言い過ぎ、ハッとした時にはもう遅すぎました。

息子の声色が変わり……、

ごめんなさい……死んでお詫びします。保険が入ったらそれで全部清算して下さい。

びっくりした私が、やめなさい!やめなさい! いくら叫んでも二度と息子の声を聞くことはありませんでした。きっと息子は携帯電話をどこかのゴミ箱に捨ててしまったのでしょう。亡くなったあとの警察の捜索でも携帯電話は出てきませんでした。

息子はそのまま大学に行き、校舎の8階から飛び降りたのです。即死だったそうです。

気が狂いそうでした。

最愛の息子を、私の不用意な言葉によって、追い詰めて、殺してしまったのです。」

 

******

4月に私にメッセージをくれた時点で、典子さんはまだ向精神薬の影響よりも自身の行いを悔いていた。まさか医師の出す薬で、このようなことが起きるなど、思ってもいないことだった。

医師からも何も説明はなかった。亡くなった後、入院していたM病院に行き、典子さんは主治医に俊夫さんの死を告げ、泣きじゃくりながら、「先生にはお世話になったのに、こんなことになって申し訳ありません」と謝った。

他にも入院中の俊夫さんの様子などを聞き、医師は一つ一つ質問に答えてくれた。

しかし、典子さんがパキシルについて尋ねたとき……。

「先生、あのパキシルという薬、私は出されていたことも、その副作用も知りませんでしたが、調べてみたら、あの薬は自殺衝動が起きるとか。しかも俊夫はマックスの量をずっと処方されていたようですが……危険ではなかったのですか?」

 この質問には答えなかったという。

それでも、当時はとにかく、典子さんは俊夫さんの死を自分の最後の言葉のせいだと思っていた。薬について不信感を抱いても、何かに原因を探ったり理由づけしないと自分が生きていけないからそう考えている……そんなふうにとらえていた。

しかし、その後、私の返事や自死遺族の方とも連絡を取るようになり、向精神薬の怖さについて知ることになった。

 

「正直、今は主治医に、詰め寄っていっぱい問いただしたいです。離脱症状が出るとか、自殺の危険があるとか、だとしたら、家でも慎重になるようにとか、パキシルのような薬が出ていたことも、なぜ何も教えてくれなかったのか。

この病気は治りかけや退院後が一番自死の危険があったこと。減薬断薬には離脱症状があり、息子のようなスピード減薬は本来すべきでもないし、したとしたらどれだけひどい症状が出るかということ。そもそも一体どれだけの薬をどれだけ減らしたかすらも……一体本当はどういう病気だったのかということすらも……母親の私には何ひとつ担当医からも知らされることはありませんでした。

すべて息子が亡くなった後に一つ一つ調べわかったことばかりでした。そんな大切なこと……知っていたら絶対にもっと慎重に息子を見守っていました。

良くなったと思い込んでしまっていた私がバカでした。最期のその時、息子は母親の私が鬼のように叱る声を耳に焼き付け、あの朝時間がなく、市販のワッフルとリッツだけというなんの愛情のかけらもない朝ごはんだけを胃に残し、復学したいと願っていた自身の大学の8階から飛び降りたのです。

復学したら彼女と同棲する。卒業したらすぐ結婚する。そして薬学部を受けてガンの新薬を作る。夢も希望もたくさん持っていた22歳の私の息子は、大学に行きづらくなったと告白して、わずか13か月で自らこの世を去ってしまいました。

下に小さな娘がいることや、病院の付き添い、薬のことを聞かれることを頑なに拒んでいた息子に、病院や薬のことをまかせっきりにしてしまっていました。息子が嫌がってでももっと知れば良かった。もっと付き添えばよかった。

 息子は死にたくて精神科の門をくぐったのではない。ここに来れば、治る、元の自分に戻り、大学にまた行ける。生きたかったから。息子はそう信じてあの門をくぐったのです。

まさかたった13か月後に、この門をくぐったばかりに、命を奪われるなどと夢にも思わず。

今はただただ息子に謝りたいのです。

無知だった母さんを許してほしいと。

あなたを世界で一番愛していたと。

どうか精神科医はこの現実から目をそらさないで欲しい。これ以上死ななくても良かった尊い命を奪わないで欲しい。

生きたいとすがる患者を見殺しにしないで欲しい。

その多剤多量処方で死なないとでも思っているのですか?

自分たちが薬剤性精神病にしておきながら、向精神薬依存症になるまでにしておきながら、まともでなくなった患者の言うなりに飴を与えるかの如く処方しまくり、挙句自死という最悪な最期を知ったとき、彼が望んだから仕方ないのです。その一言で終わらせるのですか?

最初から最後まで、患者と何も知らなかった家族の責任ですか?

そう問いたいです。」

 

典子さんのブログ

 http://ameblo.jp/nyannko136/