昨日久しぶりに映画『12人の怒れる男』を、録画しておいたものを見た。

 1957年のアメリカ映画(シドニー・ルメット監督)で、いわゆる「法廷もの」といわれるサスペンス映画だ。

 父親殺しの罪に問われた少年の裁判で、陪審員が評決に達するまでの人間の心理の推移を描く。

まず、法廷に提出された証拠や証言は被告人である少年に圧倒的に不利なものであり、陪審員の大半は少年の有罪を確信していた。最初の評決で、12人全員の一致で有罪になると思われたところ、ただ一人の陪審員(俳優はヘンリー・フォンダ)が少年の無罪を主張する。彼は他の陪審員たちに、固定観念に囚われずに証拠の疑わしい点を一つ一つ再検証することを要求する。

彼の熱意と理路整然とした推理によって、当初は少年の有罪を信じきっていた陪審員たちの心にも徐々に変化が訪れ、結果、少年は無罪となるというものだ。

 

この映画を見て、ふと、現在裁判が開かれている石郷岡病院事件のことを考えた。

この裁判も裁判員裁判である。以前のエントリにも書いたが、裁判において、被告側の主張は主に「暴力的な患者なので、看護師は仕方なく体を抑えた。これは自傷他害を防ぐための、看護行為である」というものだ。

精神を病む者、保護室に入っている患者は、暴力的になる傾向がある。

これを裁判員が疑いもなく信じてしまう、世間の風潮がある。もう裁判が始まる前から「精神科の患者は何をするかわからない」という決めつけが、無意識のうちにもあるかもしれない。ちょうど『12人の怒れる男』の最初の評決で「有罪」を主張した11人の男たちのように。少年は昔から父親のことを憎んでいた。「殺してやるという怒鳴り声を聞いた」。あの少年ならやりかねない。だから、少年がやったに決まっている……。

 

私は長いことハンセン病に関わっているが、この病気の伝染力は極めて弱く、通常の生活の中で伝染することはほとんどない、というのがいまは科学的にわかっている。しかし、100年ほど前には、「国土浄化」をスローガンに、らい病患者の患者狩りが行われ(特に熊本県ではひどかった)、隔離収容政策が、戦争の足音と共に加速度的に厳しくなっていった。

それを主導したのは、光田健輔という医者である。彼は国会の答弁で、「そうした患者は手錠をかけてでも強制的に施設に入れるべきだ」と主張して、文化勲章をもらった。

しかし、そうした歴史の陰に――結局、光田の主張を取り入れた国によって冷遇されることになった医者もいた。小笠原登という京都大学付属病院の医者である。彼は寺の子として生まれ、生涯仏教者として朝晩のおつとめを欠かさなかったという。そして、医師となってからはハンセン病患者を社会から隔離する国の政策に一貫して反対した人である。

12人の怒れる男』を見て、私はこの小笠原医師のことを思い出した。

 

 大勢の意見にまず疑いを持つこと。「常識」のように思っていることに、まず疑問の目を向けること。

 精神科における世間の「常識」を覆すには、まずそういう「孤独」の立場から始めるしかないのかもしれない。

 統合失調症という診断を鵜呑みにすること。統合失調症と自傷他害を安易に結びつけることへの疑いの目。

 そもそも石郷岡事件のケイジさんは、統合失調症ではなかった。最初から統合失調症ではなく、途中、つまり薬物治療が続くうちに統合失調症という診断になり、石郷岡では「広汎性発達障害」の診断である。

 統合失調症という診断がもつ怖さだ。統合失調症だからやりかねないという決めつけにつながる怖さだ。

 にもかかわらず、安易に、統合失調症という診断を下す医師、それをすんなり受け入れてしまう、医療への盲信。本人が統合失調症という診断を受け入れているのに、なぜそれに対してとやかく言うのかということを言われたことがある。しかし、初めての診断、初めての精神科の治療において、統合失調症として治療をスタートすることの怖さを、たぶんこういうことを言う人は、知らないのだと思う。

 誤診のうえの誤処方、その結果の薬剤性の状態であるにもかかわらず、精神医療はそれを元々の精神疾患としてとらえ、さらなる薬物治療を重ね続ける。心身ともにボロボロにされ、さらに「精神障害者」として「暴力的」という烙印を押されて、あのような行為を「看護行為」と言わしめてしまう精神科という特殊な「舞台」と、それを是とする「世間」。

 精神医療における闘いは、そういうものとの闘いだと思う。だから、安易な統合失調症の診断には徹底的に疑いの目を向ける。そこが精神医療の一番暗い、闇の部分だと思うから。

 明日2月28日は、石郷岡事件の第9回公判の日だ。3月2日に第10回公判が開かれ、判決は3月14日。この裁判を注視し続けようと思っています。