現在、ある方(仮にMさん)のカルテをお借りして、読んでいるところです。

 カルテには、診察中にMさんの言った言葉が医師の文章で、わりに詳細に記されています。また、その日にあった出来事(Mさんの行動や体調の変化等)も記されています。

そして、そうしたことと、処方されている薬を照らし合わせて見ていくと、興味深いことがわかります。やはりあまりよくない変化は「薬を変えた」「薬が増えた」あとに起きているのです。

 これは注意してみていけば、よくわかることです。

 しかし、医師はそういうふうにはとらえません。

 例えば、少し状態が悪い日が続き、その後自殺未遂のような行為がありました。処方を見ると、その少し前からジプレキサが他の抗精神病薬に変わって処方されているのですが、医師は薬の副作用(あるいは、変わりに一気にやめた薬の離脱症状)とは考えず、すべて病気の症状として対処します。

 したがって、自傷の危険性を抑えるために、薬は増えます。

 そのことで、今度は精神症状が出現してきます(妄想的になったり、会話が成り立たなくなったり)。

 すると、それもやはり「病気の悪化」です。

 振り返って、そもそもの精神科受診の理由は「対人恐怖」、あるいは「うつ」だったのですが、治療を受けることによって、改善するのではなく、奇妙な症状が次から次へと現れてきました。よって、薬もどんどん強いものへと変わり、量も増えていきました。

 カルテにはその過程がかなりくっきり読み取れます。薬によってどんどん本物の「統合失調症」らしくなっていく様が、そこには描かれています。

 

 いやいや、そうではない、という意見もあるでしょう。

現時点から過去のカルテを、「そういう目で」眺めるからそう見えるだけなのだ、と。

 Mさんはやはり「統合失調症」で、薬物治療が「追いつかなかった」ため、状態がどんどん悪くなっていったのだ、と。

 それが精神科医をはじめ、医療関係者、さらには世間の人たちのとらえ方で、もちろんこちらの方が多勢の意見。

 Mさんはやはり病気で、その後の治療は「適切」と言えない部分はあるかもしれないが、そう間違ったものでもなく、医師は最善を尽くした。Mさんの経過はやはり病気そのものの経過であり、医原性の問題は(皆無とは言わないが)そう大きなものではない、と。

 

 そして、私はそういう意見に抗いたいと思います。この仕事を始めたそもそもの理由がそこにありますし、やはり当初抱いた精神医療に対する違和感は、多くの方の話を聞いて、今ではさらに強くなっています。

 もちろん、服薬する前から「奇妙な言動」をとる人はいます。幻聴のある人もいます。幻覚が見える人もいます。しかし、それが果たして「統合失調症」という名前でくくられる精神疾患なのか? そして、統合失調症の薬とされている抗精神病薬で改善していくものなのか? 

 難治性と言われる統合失調症は、私には明らかに医原病に見えます。それは、あまりに医療者側に都合のいい命名です。

 

 これまでもいくつものカルテを拝見させていただきましたが、それらはみな治療とともに病状が悪化していく過程を描いたものでした。(もちろん、だからこそ問題となりカルテ開示をされているケースが多いわけですが。)

 それはまるで医療という名のもとで、医師が大真面目になって病者をつくっていく過程のようでもあります。

 命にかかわる副作用が出ない限り、そういった「治療」が止まることはありません。いや、今読んでいるカルテには、薬の増量後、高熱(38度)が出た際に、「悪性症候群」が考慮されることもなく、「風邪?」と書かれる始末ですから、命にかかわる副作用が出たとしても見逃される可能性さえあります。

 そして、Mさんはどんどんどんどん悪くなっていきました。もちろん、医師は懸命にMさんを治療し続けたのです。

 通常の量より少量で重大な副作用が出る傾向にあったMさん。アクチベーションシンドロームや急性ジストニアが出現しており、薬物に対する脆弱性が感じられます。したがって、精神症状も薬の副作用の可能性が高い、と、しかし医師はそういうふうにはまったく想像もしませんでした。統合失調症を「改善」させようと、医師は「病気」と闘っている気でした。

 

それにしても、生物学的精神医学は化学的根拠に欠けているという意見があるなかで、いまだに精神医療では脳内の化学物質のアンバランスという仮説を元に薬物オンリー(ほぼ)の治療を行っているのです。

その時点ですでに破綻した医療といっていいかもしれません。

 第一に、精神医療は「医療」なのか? 「医学」なのか?

 その昔はほぼ隔離収容施設だった精神科病院。そこで行われる「医療」とはいったいいかなるものなのでしょう?

 ミシェル・フーコーは、「狂気の歴史」の中で、「狂気」とは、その時代のマジョリティあるいは権力者たちにとって忌まわしく、都合の悪い人間たちを排除するための概念であり、彼らを隔離し、収容した施設を「病院」と命名し始めたことから精神医学は始まったとしています。

 医師は患者の中に「狂気」を探ります。

 カルテにも――「Schizophrenieが隠れているかも?」という医師の言葉がありました。

 つまり、医師は常に患者を「統合失調症ではないか」という視線で見ているのです。したがって、それに相当する症状がないかひっかけるような質問をします。また、何気なく言ったことが統合失調症の症状とされてしまいます。そうやって「ちょっと変わったところのある人」「奇妙な言動のある人」あるいは「深い苦悩の中にいる人」たちは、「理解不能の人」とされ、「理解不能の人」として排除されて、「治療の対象」として科学的根拠の欠ける薬物療法を施されるのです。

 ここに救いはあるでしょうか。

 

 しかし……問題は振り出しに戻ります。

 では、どうすればいいのか? 

精神科が危ないというのなら、どこへ行けばいいのか? 確かに症状のある人は、どうすればいいのか? と。

あの日、あのとき、精神科の門を叩かずに、では、どこへ行けばよかったのか? と。

精神医療改革? 精神科医の教育? 薬物療法の見直し? 狂気の啓蒙? 社会の変革? あるいは、他科へ? それとも、放置?