二度目の入院

 その頃のころ。母親と兄が「父親のところにでも旅行して気分転換でもしてきたら」とタカシさんに勧めた。そこで、以前から四国松山の道後温泉に行ってみたいと思っていたタカシさんは、父親と四国を回ることにした。

旅の途中でタカシさんは仕事のこと、精神科のことなど、父親にいろいろ相談した。しかし、父親は例のごとく、まったく理解を示さず、言うことは説教じみたことばかり。以前と同様、「会社にもお前のようにうつになって使えないやつがたくさんいる」とか、「お前は出世できない」とか……。覚えているのは、父親が運転する車から始終演歌が流れていたことだ。3泊4日の旅で、タカシさんはかえって神経をすり減らす結果となった。

 

 タカシさんはずっと薬をやめたいと思っていた。その思いを両親にも伝えたが、受け入れてもらえない。それどころか、何度も失踪するタカシさんは、鍵のかかった部屋に軟禁状態にされた。

 それでも何度も何度も「薬をやめたい」と訴えた。すると父親は「なら入院だな」と言って、タカシさんの入院を勝手に決めたという。

 2016年10月、タカシさん、二度めの入院。前の病院とはまた別の病院である。

 医師は初診の際、ろくな問診もせず、いきなり薬の話から入った。そして、処方はまたしてもガラリと変わった。

 

・クエチアピン25㎎×8錠――非定型抗精神病薬

・フルニトラゼパム1錠(不眠時頓服)――ベンゾ系睡眠薬

 

 薬はいくぶんすっきりした。

 しかし、この病院に入院中、一応まだ会社に席があるにもかかわらず、タカシさん本人の意向とは無関係に、病院側がグループホームや就労支援機関などの話を勝手に進めたという。タカシさんは言われるままグループホームに1週間ほど体験入居したり、就労支援機関の見学に連れ出されたりした。

 また、この入院中、タカシさんは病院から失踪している。失踪先から実家に戻り、またしても病院に戻ったが、とがめられることもなかった。

入院して3カ月弱、退院となった。

 

家を出る

退院はしたものの、もう復職は無理だと思った。2017年の3月いっぱいで、年度末ということもあり、きっぱり退職することを決意。

と同時に、タカシさんは、何があっても薬をやめる、もう絶対に実家には戻らないと心に誓った。

300万円ほど預金のある通帳と携帯だけを持って、家を出た。いつもの失踪とはまったく違う決意だった。

「薬はもう見るのも嫌でした。白い粒を見ただけで嫌悪感が走る。で、結局、家を出るとき、薬は持たなかったので、一気断薬になりました」

 ネットカフェ、カラオケ店、東横イン、アパホテル等々を渡り歩いた。一気断薬だったが、動けないほどの状態ではなかった。もちろん、あちこちの神経が痛いし、具合がいいとは言い難い。もう帰る場所がないという不安感に押しつぶされそうになるときもあった。

 それでも、その年の夏のこと。これまで行きたいと思って行ったことのなかった甲子園。タカシさんは高校野球の応援に出かけてみた。さらに、パスポートをとって、ハワイにも旅行した。少しハイになっていたのかもしれない。でも、案外楽しかった。

 しかし、そのような生活だったので、300万円の預金が底をつくのは早かった。

 その年の年末にはかなり危うい経済状況になった。節約のため、ホームレス同様の生活を送ったが、家を出たのは春だったため、コートも持っていない始末だった。

なけなしのお金で久しぶりにネットカフェに泊まろうとしたところ、コートも着ずに不審に思われたのか、従業員から「臭いのでもう来ないで」と断られたこともある。風呂にもだいぶ入っていなかった。

困り果てて、以前「薬は毒」とアドバイスをくれた鍼灸の先生を頼ってみた。すると、あるカウンセラーを紹介された。そして、カウンセラーから「生活保護を申請するしかない」と教えられた。

しかし、どこの区役所を回っても、みな「難しい」という返事。まだ預金が20万円ほど残っていたためだ。話によると10万円以下でないと生活保護の申請はできないという。

そこで都内から出て、隣県のある市役所に相談したところ、何とか申請できそうだった。

そして、ちょうどその頃のこと。カウンセラーがタカシさんに父親を連れてきてほしいと言い出した。父親とはまだメールや電話では細々連絡が続いていたのだ。

タカシさんに言われて父親はカウンセラーに会った。おそらくそこでカウンセラーから「サポートが必要です」とでも言われたのだろう。カウンセラーに会ったあと父親は何の連絡もないまま、ある日突然、タカシさんの口座に100万円を振り込んできた。

これで生活保護申請はまた遠のいたが、タカシさんはその資金を元に家具調度をそろえた。そして、その後何とか生活保護の申請が通り、2018年1月から、生活保護と障害年金で暮らし、現在に至っている。

 

精神医療によって奪われたもの

タカシさんは上背もあり、肌は日に焼けていて、一見健康そうに見えた。しかし、まだ顎関節症や首の痛みが残り、思考力の低下も自覚している。

「精神科にかかわって、結局、仕事もお金も友だちも、何もかも失いました。人生めちゃめちゃです」

 これまでの友人、知人の連絡先はすべて消去してしまったという。自分から連絡をとることは絶対にない。

「もう会いたくないです。こんな道を外れてしまった自分を知られたくないです」

だから、この3年間というもの、人ともろくに話をしていない。外出は、月に一度病院(薬の処方はされていない)に行くことくらいだ。

「親の葬式にも出ない覚悟です。もう自分には誰もいない、何もない。このままではいけないと思うけれど、まだ人とどう接していいのかわからないし、その勇気がありません」

 とタカシさん。

 私はどう言葉をかけたらいいのかわからず、好きなことは? と聞いてみた。

「バスケット」という返事。近くにバスケのネットがいくつかあり、一人でシュートの練習をすることもあるという。

「住んでいる市にバスケのチームがあるといいですね。そこに入って、バスケができれば、友だちもできるかもしれない」と提案してみた。

 タカシさんの目が少し輝いたように感じた。

 精神科の薬を飲んでさんざん人生を振り回されて、いまは生活保護の生活。

薬を飲む前には付き合っている彼女もいたという。会社にも仲のいい友だちもいた。しかし、今の自分は見せられない、見せたくない。

医師に言われるまま薬を飲んだタカシさんに落ち度はない。にもかかわらず、ここまで人生が変わってしまったのは、なぜなのか。精神医療はいったい何のためにあるのだろう。