「私の宇宙人歴」 アスペルガー自伝
2歳ごろのワタシ
このブログは、アスペルガー症候群の私が、
0歳から48歳まで、
どんなふうに生きてきたかを描いた、自伝です。
一般のブログの順と違って、
このページが最後じゃなくて最初です。本みたいに、ここが1ページ目ですので、この順にだんだん後へ読んでいって下さいませ。もこの、宇宙人歴……。
小さい頃の様子、
人間関係に悩んだ少女時代、
引きこもり、
仕事を転々とした社会生活、
まさか?の結婚、
そして現在なんとか社会生活できる状態に至るまで……。
まず、周辺の宇宙人的?環境から。
●もこ一族の謎
両親は、未診断だけれど、発達障がいに似た症状が昔からあった。
父親 対人関係が苦手
突然、怒りだす
人の気持ちが理解できない
マイペース
常識はずれ、興味の偏り
母親 社会性に欠け、空気が読めない
時間の感覚がない
物をためこむ
落ち着きがなく、突発的行動
感覚過敏、被害妄想
兄 子供のころ多動ぎみ
運動が極端に苦手
ヒラメキ型
感覚過敏
父親の先祖は学者、医者、薬業の血筋。
親戚に、精神病者や自殺者が多かったと聞いている。
両親とも社会生活が苦手で、人の気持ちが把握できず、集団の空気が読めず、職場を転々とした末、自営業に落ち着いた経歴を持つ。
●寝る子は育つ?赤ん坊時代
もこは、産まれる前から、変わった子供だったらしい。
母親のお腹の中では、ほとんど動かず、もしかしたら死産ではないか?と心配されたほど。
しかしなんとか、無事にめでたく生まれまして……。
母親が
「もこちゃん、あばばぁ」
今度はお兄ちゃんが、
「もこちゃん、いないいない、ばぁ!」
とあやしたり、笑いかけたりしたが、もこは全く反応なし。
???
知 ら ん 顔。... .
本人としては……
何でいろんな人達から「バァ~」と言われなければならないのか?
一体こういう大人に対して、どうリアクションをとったらいいのか?
たぶん考えあぐねていたのだろうと推察される。
で、考えあぐねているうちに、みんな馬鹿らしくなったのか、反応がないから飽きてきたのか……
そのうち、誰も「バァ」をやらなくなってしまったようなので、まぁ、静かになったことだし、安心して一日中グウグウ寝ることにした。
母親いわく、
「お腹の中にいた時から大暴れしたお兄ちゃんとは大違いで、もこはよく寝て、手がかからへん子やった。
全然おもしろくない子やったけど」
●宇宙語炸裂?二歳、三歳頃
二歳ぐらいまでの間に、言葉が増えていったが、母親の話では、
「一体、何をゴニョゴニョしゃべっているのか、さっぱりわからなかった。会話にならなかった」
という。
二歳、三歳頃は、テープレコーダーに凝っていて、自分でしゃべって録音し自分で聞いて面白がっていた。
のちに四歳頃になって、当時の録音を再生して聞いてみたのだが、(何か歌のようなものも入ってるようだったが…)、
やはり、自分でも、......
さっぱり?.........
わからなかった。......
(4歳ごろに書いていた絵。
オバケのQ太郎が好きだった。
突き出ている棒は、
この頃に流行っていたマジックハンド。)
もこは、あまり親になつくタイプではなく、絵を描くのが好きだった。
部屋いっぱいの大きな紙とクレヨンを渡しておくと、一人でゴニョゴニョしゃべりながら、一日中でも絵を書いていたという。
なぜ、部屋いっぱいの紙じゃないとダメかというと、
そうしないと、絵の続きということで、
テーブルでも壁でも、どんどん書いてしまうからだという。
(3~4歳ごろに書いていた文字。
平仮名は理解できたが、その他に、
未知の文字を創作して、
デタラメの宇宙語?を、
部屋の壁などに延々と書いていた。)
二歳の頃に不可解な習性が発覚した。
家の前がバス通りだったのだが、道路の真ん中までスタスタ歩いていき、ドッコイショ、と座りこんで、バスを止める。
母「これ~! あの子わいな…」
父「危ないやないか!
ちゃんと見とかんかいや。」
母親が、あわてて家から飛び出して私をダッコし、家に連れ戻そうとした。
普通の子供なら、道の真ん中で、車のクラクションに囲まれたら泣くはずだが、
私は、母親が連れ戻しに来た時に嫌がって泣いた。
その後も、母親の目を盗んで、
たびたび、バスを止める遊びにふけった。
そんなことが何度もあったので、
もこ家の前では、どの車も、のろのろ、
徐行運転となった。
もことしては、
おばぁちゃんの家に、あのバスに乗って行くんだと、意思表示をしたつもりだったが。
●受難の幼稚園時代
もこが通っていた幼稚園
四歳の頃、もこが絵を好きだと思った母親が、絵画教室に通わせようとした。
しっかし、二人で近所の絵画教室に「入りたい」と挨拶にいって、何日かたって、母親が、
「もしもし、絵の教室ですか?
何曜でしたっけ? あ、金曜ね」
で、金曜が過ぎると、
「あ、忘れとったなぁ。まぁ、来月から行こか」
で、次の月になると、
「もしもし、何曜日でしたっけ?
あ、金曜。 そぅでしたね!」
で、またまた金曜の晩御飯の時、
「あ! もこちゃん、絵の教室、
忘れとったなぁ。 もぅえっか~!」
とまぁ、母親が曜日や時間をたびたび忘れてしまうので、
結局、一回も絵の教室には行かないで終わってしまった。
(↑絵か音楽か、
ズボラの母親のおかげで、
ここが、人生の別れ道となった)
幼稚園の朝礼のようす
幼稚園の中にピアノ教室があり通い始めた。
今度は、母親をあてにしなくても、
担任の先生がつれていってくれる。
が、バイエルが面白くなかったので、だんだん行かなくなり、
一年足らずで、やめてしまった。
(↑またもや人生の別れ道、危うし。)
しかし、家ではおもちゃのピアノで、
「ヒミツのアッコちゃん」や「クシコスポスト」等を、
聴き覚えで、人さし指で弾いていた。.
(↑四歳にして、芸術とは楽しむものであり
習うものではないことを悟るに至った)
幼稚園に入る前には、だいたいの平仮名や片仮名の読み書きができた。
友達の持ち物に書いてある名前などから漢字に興味を持った。
「塩」という字をじっと見て、暗記して帰ってきて母親の前で書いてみせ、「これ何?」と読み方を聞いたりした。
家では少しはしゃべったが、今日あったことを母親に聞かれて、しゃべるのが、面倒くさかった。
近所の子供とはよく遊んだし、しゃべったが、ほとんどが年下だった。かくれんぼや電車ごっこをした。
幼稚園ではほとんどしゃべらなかった。
周りの会話は理解できたし、今でも内容を覚えているが、自分が何をいつしゃべったらいいのかが、わからなかった。
(↑解説:アスペルガーは同年代と気が合わないというケースは多い)
私が少しでもしゃべると、
「わ! ちょっとこの子、しゃべれるの???」
と、みんなにびっくりされ、クラスの子が集まって来たりした。
「ねぇ、もっかいしゃべってみてよ」
と詰め寄られて、そんなにびっくりされたら、どうリアクションとっていいか、こっちもわからないので、こりゃ、しゃべらない方が無難だと思い、ますますしゃべらなくなった。
休み時間は、自由帳にサリーちゃんの絵を毎日描いた。
「あれ? なんか、サリーちゃんばっかりじゃない?」
とクラスメイトが言うので、少しムッとしたが、構わず毎日サリーちゃんを描いた。
お弁当の中身は、毎日「たまごサンド」。
(卒業アルバムより。)
他のおかずは、どうしても食べれず、残してしまう。
残すと、全部食べてしまうまで、家に帰してくれない幼稚園だった。
幼稚園の帰りは、オモラシしながら帰ってくることがしょっ中だった。
原因があった。
水が極端に怖かった。
水洗トイレのジャーという音がこわいので、幼稚園では、がまんをしていたのだ。
(当時、我が家は、昔ながらのポットン便所)
顔を洗うとか歯を研くとか風呂に入るとか、なにせ水に触るのが嫌いだった。
(↑解説:発達障がいには、場合によっては、極端に何かに対して反応する「感覚過敏」というものが現れたりすることがある。母親も兄も同じものがあった)
それにやっと気づいた幼稚園の担任が、一緒にトイレに行ってくれて、入って二番目のトイレの戸をあけ、一緒に足をレバーにかけて
「先生の足の上に、もこちゃんの足を、ちょんと乗せてごらん~」
と言うので(まだ、怖い、怖い、と、ベソかいてボヤきながらも)
ちょんと足を乗せてみた。
(ジャ~~~)
「ほら、怖くないでしょ?」
と、のたまった。
もこ「………」
それ以来、もこは、トイレに行きたくなったら、
トイレに入って、入口から「二番目」の戸を開け、レバーを踏む時は目をつむって、流せるようになった。
(しかし、三番目とか、
他のトイレは、ダメだったようで~w)