続きです。
お祭り広場
このでっかい屋根、それを突き破って伸びる太陽の塔が決めてです。ここに太陽電池が貼られていれば現代でもエコロジー型の建築物で通用するかもしれません。相当でっかい屋根ですよねこれは
オーストラリア館
この懸垂型の引っ張り構造がなぜオーストラリアなんでしょうか?わかりません。が、このでっかい釣竿と投網みたいなテンション構造が、造形的センスなんかどうでもいい感じになっています。しかもなんでこんな地味なこげ茶色にしちゃったんでしょうかね
アメリカ館
当時は月の石にしか関心がなかったのですが、今見るとこの空気幕構造はかっこいいです。このでっかいコタツ、ホットプレートみたいなかたちは空気膜構造だったんですね
カナダ館
三角形の鏡張り造形が非常にわかりやすかったです。しかもぐるぐる色を塗った傘といい。でもこれのどこがカナダなのかわわかりませんね
みどり館
バックミンスター・フラーのフラードームの応用版、七色の色彩が印象的です。
ガスパビリオン
これも奇妙な造形ですね、生き物みたいな。ブタの蚊取り線香みたいでもあります。
せんい館
工事中の足場を赤いまま残すという横尾忠則氏のアイデアは後に安藤忠雄による下町唐座になった。
松下館
前にも紹介しましたが、現在プロになった私から見て一番すごい建物。子供のころはよくわからず。
そのほか、書き出すといといろ出てくるんですが、、
世界各地から集まった国々、企業、地域がそれぞれ趣向を凝らした各パビリオンは、当時の大手ゼネコン、建築家、メーカー、技術者たちがそのもてる技術の全力を上げて取り組んだからこそ、あのような短期間で「人類の進歩と調和」というグランドテーマにそった巨大な会場をつくりあげることができたんだと思います。
現地で会場の統括をおこなったのは確か竹中工務店だったと思いますが、この会社は織田信長の家臣であった竹中半兵衛を祖とする宮大工集団という、存在自体が無形文化財というとんでもない長寿企業なんですよ。知ってました?
当時万博のパビリオンとして提示された、未来の都市空間のアイデアや未来の建築の姿というものが現在の地方都市の体育館などで思いもよらない唐突な姿で実現されてしまっているんだなと実感します。そして、そのころの万博パビリオン時代の建築的な挑戦をいまだ超えることができていないと思います。
以前、竹中工務店の村松映一専務にお会いしたときに、巨大な建設現場でさまざまな職人さんや業種が入り乱れる工事現場というものは、合戦を指揮するようなものなのだとお聞きしました。
と、同時にコンピューターもCADもない時代に、あそこまで複雑な構成や解析の難しい3次曲面を多用した建築のデザインやアイデアを、手書きの青焼き図面と手計算と計算尺でこなしていった。
人を指揮しながら人をひきつける力、それらはほぼフルOJT(オンジョブトレーニングの略、仕事は実地で覚えるということ)でなければ教え伝えることが本当に難しいんだとお聞きしました。
それは江戸時代から戦前、戦後を越えて受け継がれてきた棟梁の思想、棟梁のシステムであったと考えられます。仕事を親方や先輩について覚える、親方は下のものの面倒を見る。そしてだれもが認める能力と人を率いる器量をもったものが次の親になる。
今問題になっている派遣労働というのは、業務によって人材のスキルを育てるということをまったく考えない、そして働く側も仕事を覚えるまでの丁稚期間とい うものを受け付けない、そのような短期的利益のみを追求するやり方、人材の流動化とか専門家がのたまう労働思想は、出来上がりのクオリティを誰も心配しないし、自分の仕事に誇りをもてなくしてしまう、そんなやり方は日本人には合わんのだよ!
ちょうどいい機会なので、次は日本のゼネコンがどんだけすばらしかったか、というマスコミが伝えない日本のゼネコンの姿のお話をしたいと思います。
お祭り広場
このでっかい屋根、それを突き破って伸びる太陽の塔が決めてです。ここに太陽電池が貼られていれば現代でもエコロジー型の建築物で通用するかもしれません。相当でっかい屋根ですよねこれは
オーストラリア館
この懸垂型の引っ張り構造がなぜオーストラリアなんでしょうか?わかりません。が、このでっかい釣竿と投網みたいなテンション構造が、造形的センスなんかどうでもいい感じになっています。しかもなんでこんな地味なこげ茶色にしちゃったんでしょうかね
アメリカ館
当時は月の石にしか関心がなかったのですが、今見るとこの空気幕構造はかっこいいです。このでっかいコタツ、ホットプレートみたいなかたちは空気膜構造だったんですね
カナダ館
三角形の鏡張り造形が非常にわかりやすかったです。しかもぐるぐる色を塗った傘といい。でもこれのどこがカナダなのかわわかりませんね
みどり館
バックミンスター・フラーのフラードームの応用版、七色の色彩が印象的です。
ガスパビリオン
これも奇妙な造形ですね、生き物みたいな。ブタの蚊取り線香みたいでもあります。
せんい館
工事中の足場を赤いまま残すという横尾忠則氏のアイデアは後に安藤忠雄による下町唐座になった。
松下館
前にも紹介しましたが、現在プロになった私から見て一番すごい建物。子供のころはよくわからず。
そのほか、書き出すといといろ出てくるんですが、、
世界各地から集まった国々、企業、地域がそれぞれ趣向を凝らした各パビリオンは、当時の大手ゼネコン、建築家、メーカー、技術者たちがそのもてる技術の全力を上げて取り組んだからこそ、あのような短期間で「人類の進歩と調和」というグランドテーマにそった巨大な会場をつくりあげることができたんだと思います。
現地で会場の統括をおこなったのは確か竹中工務店だったと思いますが、この会社は織田信長の家臣であった竹中半兵衛を祖とする宮大工集団という、存在自体が無形文化財というとんでもない長寿企業なんですよ。知ってました?
当時万博のパビリオンとして提示された、未来の都市空間のアイデアや未来の建築の姿というものが現在の地方都市の体育館などで思いもよらない唐突な姿で実現されてしまっているんだなと実感します。そして、そのころの万博パビリオン時代の建築的な挑戦をいまだ超えることができていないと思います。
以前、竹中工務店の村松映一専務にお会いしたときに、巨大な建設現場でさまざまな職人さんや業種が入り乱れる工事現場というものは、合戦を指揮するようなものなのだとお聞きしました。
と、同時にコンピューターもCADもない時代に、あそこまで複雑な構成や解析の難しい3次曲面を多用した建築のデザインやアイデアを、手書きの青焼き図面と手計算と計算尺でこなしていった。
人を指揮しながら人をひきつける力、それらはほぼフルOJT(オンジョブトレーニングの略、仕事は実地で覚えるということ)でなければ教え伝えることが本当に難しいんだとお聞きしました。
それは江戸時代から戦前、戦後を越えて受け継がれてきた棟梁の思想、棟梁のシステムであったと考えられます。仕事を親方や先輩について覚える、親方は下のものの面倒を見る。そしてだれもが認める能力と人を率いる器量をもったものが次の親になる。
今問題になっている派遣労働というのは、業務によって人材のスキルを育てるということをまったく考えない、そして働く側も仕事を覚えるまでの丁稚期間とい うものを受け付けない、そのような短期的利益のみを追求するやり方、人材の流動化とか専門家がのたまう労働思想は、出来上がりのクオリティを誰も心配しないし、自分の仕事に誇りをもてなくしてしまう、そんなやり方は日本人には合わんのだよ!
ちょうどいい機会なので、次は日本のゼネコンがどんだけすばらしかったか、というマスコミが伝えない日本のゼネコンの姿のお話をしたいと思います。