原爆の日を知らない人達へ | 高橋祐揮の「盗んだ道徳で走り出せ!」
今日、8月6日は「原爆の日」。
核兵器”原子爆弾”が初めて人のいる所に落とされた日です。


落とされた場所は、
広島県と長崎県です。
6日、8時15分に広島に落とされました。


人間が一瞬で黒焦げになる熱風、
体内の細胞を壊しつくす放射線、
即死、被曝死を含め
広島のだけでも、落とされてから
1年で約14万人の人が死にました。

今年が、
あれからちょうど70年。


俺が小学生の時は、夏休み中でも8月6日は登校日でした。
夏休み前から平和学習をみっちりやっていた記憶があります。
最近は無くなって来ているらしいですね。
そして県内外問わず、原爆が落ちた日を知らない人が多いらしく。


そう、昨日うちのばあちゃんが
83歳の誕生日を迎えました。

それで母の実家である
熊野町に帰ってたんだけど、
初めてちゃんと面と向かって
おじいちゃんとおばあちゃんから原爆の話を聞きました。


自分の家族が体験したことを通して、
知ってもらえれば。
そう思って書きます。


昔から聞いてきた
語り部の方の話とは別に、
身近な人から聞く話。



うちのおじいちゃんは、徹理といいます。
てつり。
今84歳で、昔と比べてだいぶよぼよぼになったけど、
軽い認知症になったばあちゃんを助けながら、畑仕事をして暮らしています。
トマトと茄子がめっちゃ美味しい。


そんなてつりじいちゃんの話。


70年前、当時うちのおじいちゃんは14歳でした。
広島県安芸郡熊野町というところに住んでいて、
そこは昔から日本有数の筆の名産地。
熊野筆 って聞いたことある人もいるんじゃないかな。
社会見学とか遠足でも行ったところ。

熊野から街中にある修道中学校というところに通っていて、
8月6日その日は、朝から空襲警報が出ていたそう。

その時期は丁度「学徒動員」っていって
国が軍需産業とか食料増産に学生を動員することがあって、

うちのじいちゃん達も例外なく市役所に呼ばれ向かうところでした。

ただ、空襲警報が出ている朝は家で待機だそうで、
解除されてから、
いつもより遅い時間に家を出ました。


熊野から矢野っていう、
市内からJRで3駅くらいのところを自転車で走っていると
空がピカっ!て光りました。
8時15分。


その後すぐ、勢い良く空を飛んでいくアメリカの飛行機が見えました。
名前はB-29といいます。
おじいちゃんは物凄く怖くなって、友達と近くのブドウ畑に隠れました。

あまり遅れるわけにはいかないので、
しばらくして再び走り出した徹理じいちゃんは、


割りと街中に近い、
今は車のメーカーマツダの本社がある
大洲という場所の近くを過ぎたあたりで、
酷い光景を目にしました。


体中ヤケドだらけで赤黒く爛れ、服が皮膚に焼け付き、
はたまた布に見えたものが
焼け剝れた皮膚で、
体中にぶら下げながら逃げてくる人たち。


何が起こったのか、本当に本当に可哀想で仕方がありませんでした。


原爆資料館なんかでさ、被爆した人たちの模型があるんだけど、
あれだけじゃ分からないことまで事細かに教えてくれました。
話しか知らない自分からすれば、
身近な人から聞くことで、
「本当に本当の話だったんだ」って。


それでも何が起きたのか分からず、
学校の様子が気になるおじいちゃんと友達は、

今の平和大通りと呼ばれる大きな街の道に続く、
「比治山トンネル」へ進みました。


しかしつく頃には、何人かでトンネルが封鎖してありました。

「街に入ってもどうにもならんから」
「行かんほうがええ」


そういわれて、怖くなって引き返しました。


帰りの道中近くに住んでいる親戚たちのことが気になりましたが、
混乱の中、怖くて怖くて全力で家に帰りました。


家に帰る途中で、雨が降ってきました。
雨は真っ黒で、シャツがすぐに染まってしまうほどでした。

おじいちゃんはまた怖くなって、
友達と近くの山に隠れました。


この雨は、
分かり易く人間の細胞を体内から壊す
「放射線」に完全に汚染された雨で、放射線そのものでした。
本当は目に見えない放射線が、形になって広島に降り注ぎました。


原爆は爆発や熱風だけじゃなく、遠くにいる人にも危害を加える
二重構造。

熱風にやられた
熱くて熱くて辛い辛い人たちの多くが、
この雨をたくさん飲んでしまったそうです。
もうどうなるか簡単に想像つくよね。


全身真っ黒に汚れたまま、おじいちゃんはどうにか家にたどり着きました。
心配していたお母さんが出迎えてくれて、

「お父さんがお前を探しに行ったよ!」


と告げました。


徹理じいちゃんが
お父さん、つまり俺のひいおじいちゃん
から聞いた話、又聞きだけど、
ひいおじいちゃんは徹理じいちゃんが出てすぐ、
空がピカっと光ってすぐ、
心配になって自転車で広島まで向かったらしく。


封鎖された比治山トンネルを、
「息子がいるんです!」って無理やり通って、街へ行きました。


そこで見た光景は本当に地獄。
ヤケドでボロボロになったまま水を求め歩き続ける人、
ぐちゃぐちゃになった家の下敷きになり焼かれる人、
それを助けようとする人、助けられない人、
助けられない自分、
どこに行ってもある死体、
息子はもう助かってないかもしれないと思ったそうです。


もしかしたら途中で引き返して、
無事帰ってきているかもしれないと望みをもって
黒い雨の中家に帰っておじいちゃんと再会できたけど、
本当につらい思いをしたんだと。


それから三日後。



まだ何が起きたか分からないおじいちゃんは、
それでも学校へ行くしかありませんでした。


通れなかった比治山トンネルを抜けて見えてきた景色は
ひいおじいちゃんの話そのまま、あまりにも残酷でした。


爆弾が落ちたところには、「中島地区」という有数の繁華街がありました。
その時、最早見る影もなく、今となっては形を変えざるを得なくなっています。


学徒動員に駆り出されていた同級生がたくさん死にました。
近所の友人も何人か死にました。

その遺品を友達ともって帰って手分けして、
家族に届けました。

そこで喜ばれることはもちろん一切無く、
あんたは生きていていいね、
ともとれることを言われます。

その家族も、おじいちゃんも、
誰も悪くありません。
突然死んだ子供、生きている他人の子供。

どうしようもないことばかり。
仕方がないことばかり。
と、おじいちゃんは言っていました。


それからおじいちゃんは、
自分は生き残ってしまった、と
罪の意識を抱いてしまうようになります。
話してくれる時も、申し訳なさそうだったのがすごく印象的でした。



おじいちゃんが話してくれたのはここまで。


おばあちゃんは、軽い認知症になってしまってるけど、
やっぱりその日のことは鮮明に覚えていて。

当時、熊野には学校が無くて、
広島市内、街中の方か、戦艦大和で知られる呉の方に行くしかなく、
勉強ができたりお金がある子が街の方まで行け、
女の子は大半が呉の女子校に通っていたらしいです。


だから、周りの女の子は助かった子が多いんだってさ。


それからおじいちゃんに、
「語り部として活動している人が信じられない」
とも言われました。


辛くて話せない、話したくない人が多いんだってさ。

やっとの思いで、伝える活動をしているのが、
語り部の人なんだってさ。

そう思うと、社会見学とか、平和活動とか、
話を聞く機会はたくさんあったけど、
もっとちゃんと聞かなきゃいけなかったなぁ。


存命している、被爆者の平均年齢は80歳だそうです。
実質、俺たち20代、10代までが直接話を聞ける最後の世代かもしれません。


原爆が落とされたのが正しいか正しくないかは、
言及できる自信と度胸はありません。

俺が体験しているわけでもなければ、
俺がその時代を生きていたわけでもないから。
と、臆病な俺は思ってしまいます。


ただ絶対的に言い切れるのは、
今やりたいことをやれていることが本当に幸せだということ。

戦争を、原爆を生身で知らずにいれてるのが、幸せということ。

この"事実"の上に、人の心が動いて、今現在に繋がっているということ。



今、何十万人の人が一瞬で死んだら、
今、家族や友達が死んだら、なんてなかなか考えられないけど、

伝えなくても、考えなくても、
知っておきたい、忘れちゃいけない、
とは思うんじゃないかな。


それはきっと後世に残す人間の本能だと信じてるし、
この本当に起こった"事実"を、
俺たちは知らなければいけないと思います。


"事実"を風化させてはいけない。
家族から聞けば尚更にです。


放射線に汚染されつくした広島は、
あの日から今後70年間は
草木が生えないと言われていました。


その残酷な”事実”の上に立って、
今俺たちは生きています。


忘れないように、


是非、原爆の日のこと、
何が起きたのか、

知ってください。